朝霧の盆地をうづめ湖と化す     井上 庄一郎

朝霧の盆地をうづめ湖と化す     井上 庄一郎 『合評会から』(日経俳句会) 三代 盆地に霧がかかっているのを「湖と化す」と言ったのがうまいと思った。 阿猿 「湖」の表現が素敵だ。アニメの「君の名は」の情景を思い出した。 明男 兵庫県の竹田城を思い浮かべた。朝霧が一面を埋め尽くしている様は、確かに「霧の湖」の感じがする。下五の「湖と化す」が上手だ。           *       *       *  「霧の湖(うみ)」という表現は昔からあるのだが、このように真っ正面からすぱっとうたわれると新鮮な感じになる。それは作者が目の当たりにした印象をそのまま五・七・五に置き換えたからに他ならない。  江戸時代からこの方、日本人が詠んだ俳句は一体どれほどになろうか。多分、億の位になるだろう。そこに詠まれた情景には当然、同じようなものが沢山あるだろう。いわゆる「類句」の山である。そうした山の中からひょこりと顔を出し、人々の共感を呼ぶのは並大抵ではない。一頭地を抜く秘訣などはあり得ないのだが、強いて言えば、この句のように自分の目で見て感じて、自分の言葉で言うことであろう。(水)

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縄跳びの縄で秋風ちぎられて     渡邉 信

縄跳びの縄で秋風ちぎられて     渡邉 信 『おかめはちもく』  縄跳びの縄で秋風を切るとは。「なるほどねぇ」と感心した。子供の頃、縄跳びは習慣のようなもので、寒い冬の朝も「体が暖かくなるから」と積極的に取り組んでいたものだ。しかし跳ぶ回数や「二重廻し」「三重廻し」を目指すばかりで、縄が風を切っている、という意識は生まれなかった。  さてこの句、しばらく見ているうちに「秋風ちぎられて」という、秋風を主体とする受動的表現が気になってきた。これでも悪くないか、とも思うが、やはり縄跳びの主人公を主体的に表現する積極性が欲しい。即ち「私が縄を回しながら、秋風をちぎっている」という風に詠みたいのだ。  仲間の一人がこの句について、「縄跳びで」だけでも意味は同じだから、「縄」は省略できるのではないか、と語っていた。その通りではあるが、私は「縄跳びの縄で」と繰り返し、強調したところにも魅力があると考えていた。修正案として浮かんできたのが、「縄もて(以て)」への変更である。(恂)  添削例  縄跳びの縄もてちぎる秋の風

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青蜜柑仏様には二個供え     石丸 雅博

青蜜柑仏様には二個供え     石丸 雅博 『この一句』  この句を見て「何で二個?」と思う人がけっこういるかも知れない。その人はたぶん、若い頃に実家を出て、自分の家庭を作った人やその家族だろう。親が亡くなっても、家に仏壇は作らないだろうから、“仏様”との付き合いは疎いはずだ。頂き物があっても、仏壇に供えるという心得がない。  親の家を継いだ人も、若いうちは“仏様”への関心は薄いはずだ。しかし祖父母が亡くなる頃になると、親を見習って仏壇に花や供物を供えるようになり、親が亡くなれば寺との関係も引き継ぐことになる。同時に仏壇へ線香を立て、リンを鳴らし、手を合わせるなど、朝のお勤めが身についていく。  親の故郷から青蜜柑が送られてきたらどうするか。すぐに箱から取り出し、まず「仏様へ」となる。二個にするのは亡き父母へ一つずつ、ということだ。跡継ぎの夫婦が青蜜柑を供え、懐かしい香りを仏様に届けるのである。「ジジとババが、けんかしないようにね」と、子供たちに話したりする。(恂)

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青みかん宅配便にて郷だより    印南 進

青みかん宅配便にて郷だより    印南 進 『合評会から』(三四郎句会) 敦子 果物送ってもらって郷(さと)の季節が分かる。特に青蜜柑なんか頂きますとね。 尚弘 蜜柑を送るだけで、元気でやっていることが分かる。その証拠が届いた。 而云 青蜜柑の宅配便、確かに一足先に秋を感じますね。ああ、こういう時期が来たのか、と。 進(作者) 和歌山の青蜜柑を思い描いて作ったのですが。          *        *        *  青蜜柑は特殊な状況下の果物である。収穫をもう少し遅らせば、甘くて金色に輝く蜜柑になるのに、わざわざ青くて、酸っぱいうちに食べてしまうのだ。理由は季節の先取り以外にないだろう。「おや、もう、青蜜柑」。店頭で見掛ければ、来るべき秋を思い、送られて来れば故郷の秋風を感じる。  私の知人の祖母は酸っぱい青蜜柑が大好きだった。孫娘の一人は祖母を真似ているうちに青蜜柑好きになり、今でも好物だという。一方、孫の一人(男)は、仕舞っておけば美味しくなると思い、机の中に隠していたのだが、「萎れていくうちに、甘い蜜柑が店に並び出した」と話していた。(恂)

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異国語も秋の声なり京の寺     河村 有弘

異国語も秋の声なり京の寺     河村 有弘 『季のことば』  この夏の地球は温暖化どころか炎熱化していた。東京の最高気温を見ると、八月はもちろん、九月に入っても三十五度以上の日が続いた。月末になってようやくホッとする日に出会えるようになったが、炎熱化の解決案は世界のどこからも出てこない。来年はどうなる、の声が早くも出始めた。  日本大好きの外国人も、この夏は参ったようだ。東京で電車や地下鉄に乗れば、大きなスーツケースを引きずり、難行苦行の旅行者に出会うのは毎度のこと。山陰地方に別荘を構えた外国人夫妻は、余りの暑さに名古屋空港まで来て「もう国に帰ろうか」と話し合っていた(テレビ番組より)。  しかしようやく秋になったようだ。句の作者は、京都の寺院でふと耳にした外国語を「秋の声」と感じた。雰囲気からすれば、英語かフランス語か。中年の男女が庭や建物などを愛でながら、穏やかに会話を交わしていたのだろう。その声は周囲に溶け込み、自然の物音のように聞こえたのである。(恂)

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柔らかきカマキリの子はやっと立ち      宇野木敦子

柔らかきカマキリの子はやっと立ち      宇野木敦子 『季のことば』  この句についてどう書くか、と考えているうちに気付いた。「蟷螂(カマキリ)生る」という夏の季語があったのだ。カマキリの雌は秋に、卵鞘を草や木の枝に産み付ける。そして冬から春が過ぎ、夏になると卵鞘から小さなカマキリがたくさん生まれ、それぞれが成虫への道を辿ることになる。  生れたてに違いないから、季は当然「夏」のはず。九月の末にもなって、この欄に出すのは時期遅れの感が否めない。とは言え先日出席した別の句会では、夏の句をいくつか見かけたし、カマキリ自体が秋の季語なのだから・・・。当欄の掲載不適格というほどではない、と勝手な理屈をつけた。  句会では評判が良かった。「凄い数が生れてくるはず。その中の一匹をよく見ています」(賢一)、「カマキリの子に対する暖かい視線を感じた」(有弘)、「珍しい所を見つけたものだ」(而云)。生れたては半透明の白さだという。その一匹がやっと立ち上がったのだ。何となく秋立つ頃を思った。(恂)

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ボランティア腰伸ばし聞く秋の声     田村 豊生

ボランティア腰伸ばし聞く秋の声     田村 豊生 『おかめはちもく』  その昔柔道で鳴らした人たちが中心になってこしらえた、その名も「三四郎句会」というユニークな句会の会報最新号に載っていた句である。  「ボランティアという語を使って現代的な感覚の句にした」(有弘)、「被災地に入ったボランティアたちの雰囲気が感じられる」(賢一)、「今年の日本はまさに災害列島。ボランティアがやれやれと腰を伸ばし、秋を感じている」(正義)、「時世を詠んで秀逸。暗さがなく、ボランティアの感懐に絞って、前向きなところがいい」(崇)などと、多数の会員が共感を抱いたことがうかがえる。  ボランティアが聞く秋の声とは、"災害の当たり年"とも言うべき平成三十年を如実にもの語り、警世の声とも取れる、実に素晴らしい句だ。  ただ、その合評会で而云氏が「『聞く』は省略し、『腰を伸ばせば』などとしたらどうか」と述べているのを見て、まさにその通りだと思った。「伸ばし、聞く」と動詞が連続すると、折角の句がもたついてしまうようだ。災害現場の重労働はさぞかし大変だろう。時々は深呼吸もしたくなるだろう。「背筋そらせば」でもいいかも知れない。(水)

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雉鳩の間のびして鳴く野分あと     高井 百子

雉鳩の間のびして鳴く野分あと     高井 百子 『合評会から』(番町喜楽会) 可升 台風の過ぎた後、雉鳩が鳴いている。それが「間延び」している、という。台風後の気分をよく表していると思います。 水兎 「雉鳩」は「デデッポーポー」と鳴くんですよね。どこでもよく鳴いていますよね。その鳴き声はそれでなくても間延びしているんですが、「野分あと」ならなおさらなんでしょう。よく合っていると思います。 而云 感じがいい句だと感心しました。台風が過ぎて、ほっとして静かな日常が戻る。そんな時にいつもの「雉鳩」が鳴いている。台風の後だからその声は、いつもより「間延び」して聞こえたんでしょうね。           *       *       *  「野分」は台風のこと。平成三十年は台風の当たり年で、気象庁まとめによると、これまでに本土にやって来た台風は18個と平成六年(94年)と並ぶ過去最多だそうである。各地に大被害をもたらしたのだが、この句は「とにかく台風が去った」という気分を実によく表している。恐らく家の近くにキジバトが来たのだろう。それをすかさず詠み込んだのが素晴らしい。(水)

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蜘蛛の巣のゆれてふくらみ秋の声     石黒 賢一

蜘蛛の巣のゆれてふくらみ秋の声     石黒 賢一 『季のことば』  「秋の声とはどんな声だ」と聞かれて即座に明快な答が出せる俳人はそう多くないだろう。とにかく一筋縄ではいかない季語だ。秋になると風の音にも虫の声にも、また何とも知れずどこからか鳴り響いてくる音にも、物寂しさや物の哀れを感ずることが多い。そういうところから生まれた言葉であるというのがまずは一般的な解釈だ。しかし、それが行き着く処まで行って、秋の声とは具体的な物音ではなく「心耳に響く音や声を言うのだ」と説く人もいる。  俳句は理屈ではないのだから、理路整然とした答を求めなくてもいい。具体的な声や音を耳にして秋と思えば即ちそれが秋の声であろうし、静寂の中で突然何かが聞こえたような気がした、というのもまた秋の声であろう。つまりは開き直った言い方をすれば、秋を感じる森羅万象の声である。  この句、蜘蛛の巣が秋風にふくらんで揺れている景色を素直に詠んだだけである。声も音もしない情景だが、やはり作者には何かが聞こえてきたのだ。そして、読者がこの句から秋を感じることができれば、それで一件落着。「蜘蛛の巣は夏の季語だ」などという雑音は、聞こえないことにしよう。(水)

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秋いまや巻雲高き八ヶ岳     今泉 而云

秋いまや巻雲高き八ヶ岳      今泉 而云  『この一句』  実に気持の良い句である。真っ青に晴れ上がった空に八ヶ岳が聳えている。その上には薄絹のような巻雲が棚引く。句会では「あぁ八ヶ岳に来たんだなぁという実感」(木葉)、「秋らしい素敵な句だと思いました」(双歩)、「まさに『天高し』が思い浮かぶ。景の大きい句ですね」(春陽子)と上々の評価を得た。  すると作者は笑みを浮かべて、「昨日まで長野の伊那に行っていました。この句は、きっとこんな風景が見えるだろうと作って置いたんですが・・。見えましたよ」と正直に舞台裏を語って、会場は爆笑に包まれた。  こういうのを「孕み句」という。俳諧(連句)の席では即座に句を詠まねばならない。いつまでも唸っていたのでは一座をシラケさせてしまう。そのため、参会者は前以て当たり障りの無い句をいくつか用意して置く。それが孕み句で、今日でも吟行などでは前以て現地事情を調べて何句か作って置く人が結構いる。  しかし、孕み句はどうしても感動の薄いものになりがちだ。その点、この句は出色である。それは作者が八ヶ岳周辺の四季を知り尽くし、その景色と雰囲気を日ごろから腹一杯に孕んでいるからこそ月並みを脱したのである。(水)

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