涼新た年初の日記読み返し     和泉田 守

涼新た年初の日記読み返し     和泉田 守 『季のことば』  暑い暑いとぼやいているうちに、気が付けばもう八月も半ば。オレは一体何をやって来たんだろうなと、夜、日記帳を開き、今年初めからのことを読み返している。秋口は誰にもこんな思いに駆られることがあるだろう。この句は「新涼や」とせずに「涼新た」と言ったことで、季節の節目の「気づき」をうまく伝えることになった。  八月七日が「立秋」だが、実際にはこの頃が一番暑い。特に今年はひどかった。しかし、このところ吹く風に何とはなしに涼しさを感じるようになってきた。相変わらず入道雲は立つけれど、上天には筋雲や鱗雲が秋の気配を漂わせている。こういう気分を表した言葉が「新涼」である。「涼し」という言葉は、俳句では暑さの中に感じる涼しさを捉えたものとして夏の季語としている。そのため、暦が秋になって改めて感じる涼しさを「新涼」「涼新た」と言うようになった。  さて、年初来の来し方を読み返し、「これではならん」とネジ巻き直すか、「まあほどほどに行こう」と大悟するか。それは秋の夜の酒の分量にもよるだろう。(水)

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新涼の風グリーンにパーパット    深田森太郎

新涼の風グリーンにパーパット    深田森太郎 『おかめはちもく』  「ゴルフに名句なし」という。こんな俗言が俳句界に存在するのは、俳句愛好家にゴルフをやる人が少ないためだ、と私は思っている。ゴルフを理解する人が基本的に少ないので、ゴルフの句は選ばれにくい。句会における句の評価は得点に比例しがちであり、即ち、ゴルフの句に名句なし、となる。  この句を選句表に見た瞬間、「いいぞ」と思った。新涼のグリーン上でパーパット。何とも爽快ではないか。しかし二度目に読み直した時、「新涼の」で切ってしまい、戸惑った。この句は「新涼の風」で切る「七五五」なのだ、と気づいたが、「グリーンに」の“中五”に歯切れのよさがない。  ここは「新涼の風のグリーンや」としてみたらどうだろう。パー4の3打目、アプローチをまずまずの距離に寄せて、心地よい風の吹くグリーンに立つ。傾斜と芝目を読んで一呼吸、いよいよ「パーパット」となるのだ。「そんなこと言われても分からない」という人がいるに違いないが・・・。(恂)

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電灯を点けっ放しや終戦日       田中 白山

電灯を点けっ放しや終戦日       田中 白山  『合評会から』(番町喜楽会) 幻水 あの頃、夜は真っ暗にしていたが、今は電気を点けっ放し。戦争体験者の感慨の句でしょうか。 光迷 暑い暑いと言いながら、石炭や石油を燃やして作った電気でエアコンを点けっ放しのこの時代。豊かな時代なのか貧しい時代か、よく分からないなぁ、という思いを込めて選びました。 而云 終戦日だから点けっ放しに気が付くのですね。ふと戦時中の夜を思い出したのでしょう。 てる夫 終戦で空襲がなくなったから電灯を点けっ放しでいられた。私はそのような終戦時のことを詠んだ句ではないか、と解釈しました。 白山(作者) 戦争が終わり、灯火管制がなくなった時の記憶を詠んだものです。隣近所どこでも電灯を点けっ放しにしていました。てる夫さんの解釈の通りです。             *           *          * 第二次大戦末期、敵機の爆撃の目標にならぬようにと「灯火管制」が行われていた。各家庭では電灯を黒い布などで覆っていたのだが、あれは「自由管制」に分類されていたという。あの頃も「自由」があったとは!(恂)

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古びゆく兵士の墓石終戦日      前島 幻水

古びゆく兵士の墓石終戦日      前島 幻水   『この一句』  新しい墓苑で周囲を見渡すと、時の流れを感じざるを得ない。正統派「先祖代々の墓」などは既にクラシックの部類だ。著名人や市長、代議士など一代限りも同様である。墓を守り、管理を子孫に任せる伝統も変化して、子供や孫たちに負担を掛けたくない、と考える人も少なくない。  まして日清・日露戦争以来の「○○上等兵の墓」のような、戦死慰霊の墓は「古びゆく」一方である。墓を建てた当時の家族や周囲の人々の気持ちを考えてみたい。戦争のために命を捧げた父や兄たちは地域の英雄であり、遺族は悲しみの中に誇りの気持ちを抱いていたに違いない。  それらの墓石の持つ意味は時代とともに大きく変化した。第二次大戦を経てみれば、墓の主たちは国家の無謀な政策の犠牲になったことが明々白々。八月は敗戦を考える季節であり、旧盆もある。兵士の墓石に役割はあるのか? 不戦を誓う“よすが”にすべき、と私は思っている。(恂)

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理不尽も泡と飲み干すビヤホール    斉山 満智

理不尽も泡と飲み干すビヤホール    斉山 満智     『合評会から』(番町喜楽会) 白山 自分のサラリーマン時代を思い出させる句ですね。 春陽子 サラリーマンなら多かれ少なかれ経験のある苦いシーンでしょう。「泡と飲み干す」という措辞が上手いなぁと思いました。 可升 思わず共感しました。どんな理不尽なのか? 昔も今も理不尽の種は尽きないが。 的中 理不尽を飲み干すのが勤め人の常道でしょう。大衆飲み屋で杯を傾けていると、上役の無理な命令や周囲の状況など、この手の話題に事欠きません。ビールを飲み干して全てスッキリですね。             *          *          *  句とコメントを改めて読んで、「その通り」と思ったが、サラリーマンには案外しぶとい面もある。上役の叱責、嫌みなどは頭を下げてやり過ごしながら、退社後の一杯を考えていることも。やがて日は落ち、気の合う仲間と連れ立って飲み屋の暖簾をくぐり、椅子に腰を下せばすでに我が天下。昼間の全てはビールの泡とともに飲み干しながら、「俺もいずれは後輩にチクリと・・・」などとニヤリとしてたりして。((恂)

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ゴーヤばかりぐんぐん伸びる酷暑かな    大澤 水牛

ゴーヤばかりぐんぐん伸びる酷暑かな    大澤 水牛  『合評会から』(番町喜楽会) 木葉 今年の酷暑を上手く表現した、と思っていただきました。 てる夫 ゴーヤはもともと暑い土地の植物ですから、まったくこの通りだろうと思いますね。 双歩 今年はなぜか我が家のゴーヤの生育はイマイチ。お隣さんは枯らしてしまった。 斗詩子 今夏の酷暑、生き物みんな縮こまっているけれど、ゴーヤだけは伸びます。早く子どもたちを外でのびのび遊ばせたいなと、この句を見てしきりに思いました。 水牛(作者) 今年の夏は異常ですね。ゴーヤは例年より生りが一ヶ月も早く、胡瓜は早々と撤収してしまった。              *         *          * 「ゴーヤ」(苦瓜=にがうり、茘枝=れいし)は夏の季語。「酷暑」については言うまでもない。「季重なり厳禁」の句会もあるそうだが、この“番喜会”の面々は「必要なら季重なりも0K」と、意に介さない。選句表を探したら、他にいくつも季重なりを見つけることが出来た。句を見て良し悪しを判断せよ、ということだ。掲句は二つの季語が相俟って、効果を高めていると私は思う。いかがだろうか。(恂)

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猛暑日に気遣ふ電話メールかな     山口 斗詩子

猛暑日に気遣ふ電話メールかな     山口 斗詩子 『おかめはちもく』  一人暮らしを心配してくれる人がいるんだなあ、嬉しいなあ、という気持がこちらにも伝わって来る。ほのぼのとした気分の句である。  友人の一人、言うまでも無く老齢で、しかも最愛の伴侶を数年前に亡くした男、身体も頭もまだしゃっきりしているだけに退屈で仕方が無い。時々掛かって来るあれこれの勧誘電話が退屈しのぎにとてもいいと言う。しかし、「よく掛けてくれたな、何の勧誘かね、じっくり説明して頂戴」と言うと、相手は調子が狂うのか早々に切ってしまうのだそうだ。  そういう物好きは別として、独居老人は男女を問わず退屈で淋しくて、中には孤独感にさいなまれる人もいる。好きだった読書も眼が弱くなったせいか数ページで疲れてしまう。音楽CDも以前のように聴き入る気分にならない。しょうがないから、一日中テレビの白痴番組を点けっぱなしにしている。そんな時に子どもたちや友達からの電話やメールが届くのは本当に嬉しい。  しかし、この句、「猛暑日に」とあるのが何となく落ち着かない。やはり「猛暑日を気遣ふ」の方が良さそうだ。(水)

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合唱の声揃ひたり水芭蕉     岡本 崇

合唱の声揃ひたり水芭蕉     岡本 崇 『この一句』  「水芭蕉」ときて「合唱」とくれば、自ずとあの「夏が来れば思い出す はるかな尾瀬 とおい空」の歌を思い出す。江間章子作詩、中田喜直作曲の『夏の思い出』は、昭和24年、NHK「ラジオ歌謡」で流れた。歌手は若き石井好子であった。当時はまだ敗戦の傷跡が各所に残り、国民の大多数が腹を空かせ、その日暮らしを送っていた。それだけに、こういうノーテンキに別天地を歌う歌が好まれたのだろう、瞬く間に"国民歌謡"になり、合唱曲に編曲されて学校でも歌われるようになった。  水芭蕉は中部地方から北海道にかけて、山裾や谷間の湿地帯に群生するサトイモ科の植物で、尾瀬だけではなく、函館近くの大沼国定公園、網走湖畔、田沢湖周辺(秋田)、岩出山周辺(宮城)、飛騨地方(岐阜)等々、各地に見られる。  晩春から初夏にかけて緑の芽がすくっと立つと白い光背のような帆のような花弁(正確に言えば「苞」という葉の変形)を開き、中心に黄色い小花の密集した柱を立てる。それが時期を合わせて沼一面に開く様はまさに「合唱の声揃ひたり」である。音痴を忘れて一緒に歌いたくなる。(水)

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水上をS字くねらせ蛇走る     大平 睦子

水上をS字くねらせ蛇走る     大平 睦子 『この一句』  この作者は蛇が川を泳ぎ渡っているところを実際に見て居るのだなということが分かる。「走る」と言ったところにそれが表れている。それほど早くはないのだが、確かに蛇は泳ぐというよりは水面を走っている感じである。手も足も無いから長い紐のような身体全体をくねらせて前進する。草むらを這いずるより早いかもしれない。  それにしても蛇はなぜ川を渡るのだろう。こちら側も田圃、向こう側も田圃。あるいは林と林、草原と草原、わざわざ渡ったとて大した違いはありそうもない。向こう側だけに蛙がかたまっているわけではないのだ。昔、疎開して千葉の田舎にいた時に小川を渡る蛇をよく見かけて、そう思ったものだ。  人間ならあっちへ行けば何か面白いことがあるかも知れないと、気まぐれに交差点を渡ることがある。しかし蛇が目的も無しに、ただ面白半分に行動を起こすものなのだろうか。この句は、蛇が水上を走るように渡っているとさらっと述べただけなのだが、こうした疑問が次々に湧いてくる、実に面白い句だ。(水)

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蛇のゐて視る子逃げる子石打つ子     高石 昌魚

蛇のゐて視る子逃げる子石打つ子     高石 昌魚 『合評会から』(日経俳句会) 水馬 なんと言っても、リズム、テンポがいい。 三代 「見る子逃げる子石打つ子」の三拍子に引かれました。 阿猿 子供たちのリアクションがさまざまなんだと感じているのでしょう。社会の縮図のようだと見ているのでしょうか。 実千代 子供の心理描写が三拍子で表現されているのが面白い。           *       *       *  句会で人気上々の句だったが、作者は「前にもこういう調子の句を作ったことがあり、どうかなと思いましたが・・」としきりに反省なさる。それは「若葉風追ふ子逃げる子眺める子」と「入学式立つ子坐る子横向く子」のことで、両方とも好評を博した。確かに、まさに同じ形である。  しかしこういう詠み方は江戸時代からあり、「うれしさは」とか「かなしさは」で始まる連作、「好き」「嫌ひ」で括る句など沢山ある。この「・・子・・子・・子」の句をもっともっと作って、『子ども百景』という連作を作るのも一興ではなかろうか。現代俳句がともすれば忘れがちな俳諧味が甦る。(水)

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