身はひとつ東はさんま西さいら     水口 弥生

身はひとつ東はさんま西さいら     水口 弥生 『おかめはちもく』  「へぇ、そうだったの」と私は呟いた。関西でさんまを「さいら」と呼ぶことを、人生八十年にして教えて頂いたのだ。そのお礼の気持ちに少々の悔しさを交えて、この句を見つめるうちに、気になる点が浮かんできた。「身はひとつ」である。意味はもちろん分かるのだが、作者にしては芸がない。  魚の名が地域によって違うのは秋刀魚に限らない。クロダイとチヌ、ハナダイとチダイ、ブリになる手前のイナダとハマチ・・・。ありがちな事例だからこそ、もう一工夫必要なわけで、ここはもっと「私」を押し出したらどうだろう。オーバーに言えば、自説を打ち出すほどの気概を示すのである。  調べてみたら「さいら」の名は紀伊半島の漁師の間で生まれ、関西方面に広まったという。紀伊のさんま漁と言えば熊野灘。そこから北上のラインをたどると松坂、津、鈴鹿山脈、天下分け目の関ヶ原。そうだ鈴鹿山脈がいい。この高みに立ち、東西を見渡している作者の姿を、私は思い浮かべている。(恂)   添削例   鈴鹿より東はさんま西さいら

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カンバスに色無き風を描きけり    加藤 明男

カンバスに色無き風を描きけり    加藤 明男 『合評会から』(日経俳句会) ゆり 爽やかな絵だろうなと思い、いただきました。 三代 上手すぎるので(選ぶのは)やめようかなと思ったけど、秋の感覚がよく分かるので。 昌魚 「色なき風」という季語は知っていましたが、私には作れそうもない。どんな絵をカンバスに描いているのか、と想像が広がって行きます。 二堂 私も画を描くので、どういう絵を描いたのか知りたくなった。「色なき風」の使い方がうまく、木々の揺れる動きなど、色々と連想させる。           *         *         *  公園で画架を立て、風景を描いている作者を思った。秋のある晴れた日、公園に出かけた作者は、一人のアマチュア画家として筆を振るっている。風が立ち、草木が揺れた。作者はいま私は「色なき風」を描いている、と思ったのだ。「色なき風」は秋風のこと。紀友則の歌に基づくとされるが、その先に中国の五行思想の「白秋」があるという。私も一度、詠んでみようと思いながら果たせない、何とも格好のいい風である。(恂)

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新涼や両手重ねて臍の上      植村 博明

新涼や両手重ねて臍の上      植村 博明    『この一句』  つい先頃までは猛暑に圧倒され、家に帰ればまずエアコンを点け、「参った」と呟き、ごろりと横になっていた。夏も終わりに近づいた頃、ようやく本来の昼寝を取り戻すようになっている。午後のひと時、作者は昼寝に入ろうとしている、と私は受け取った。ともかく天井を見上げての大の字だ。  気持ちよくぐっすり眠ることを「うまい」と言う。漢字では「熟寝」のほか「旨寝」とも書くから、その気分は「美味しい寝心地」と言っていい。ただし「ゴロリ」だけで最高の気分が得られるわけではない。例えば作者は、仰向けになった後、ゆっくりと瞼を閉じ、「両手重ねて臍の上」となるのだ。  寝ている人の「臍の上」は「臍の周辺」と言い換えてもよく、両の手の置かれた辺りには漢方で言う「臍下丹田」も含まれているはずだ。この周辺はリラックスの要所とされ、作者の一連の動きは会心の眠りに入るまでのルーチンワークなのだろう。満足そうな表情が目の前に浮かんでくる。(恂)

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新涼やバス定刻にやってくる    大熊 万歩

新涼やバス定刻にやってくる    大熊 万歩 『合評会から』(日経俳句会) 二堂 定刻に来るのは当たり前とは言え、このバスは遅れずにやってきた。「新涼」に相応しい。 反平 バスってなかなか定刻に来ないが、ぴたっと来たので気分がいい。これもまた新涼の気分です。 木葉 夏の間は乗客も運転手もダレているから遅れがちになるのかな。涼しくなって時間通りに来る。 ヲブラダ 「新涼」という季語とバスが定刻に来るという事象。さらりと組み合わせて見事。 弥生 バスが定刻にやって来る心地よさ。新涼の爽やかさの中で感じられるものだと思いました。             *         *        *  数十年前、「二物衝撃」と呼ばれる作句手法が俳句の世界を席巻したことがあった。映画のモンタージュ手法を取り入れ、1+1が3にも4にもなるような効果を狙っていたのだとされる。やがて時は流れ、穏当な取合せの句に数多く出会うようになった。この句もその一例と言えるだろう。  取合せの句は二つの間合いが“付過ぎ”だと平凡になり、二物衝撃的な“離れすぎ”は理解しにくい。この句の場合、二つの間合いが遠そうで近そうで、その距離の微妙さが句の魅力になっている。(恂)

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新涼や父母なき家に風通る     岩田 三代

新涼や父母なき家に風通る     岩田 三代 『この一句』  想像すれば「父母なき家」は、作者の居住地から離れた戸建ての家なのだろう。作者が生まれ育った家で、ご両親は亡くなられ、住む人はいない。作者は年に何度か、例えばお盆の頃などに訪れ、家の掃除などを行っているのだろう。以下も筆者の想像によって書いて行くことにする。  故郷の家はいつまでも子供たちの心の拠り所なのだが、親亡き後はその管理が子供の負担になりがちだ。どんな建物でも歳月とともに老朽化し、管理や補修の費用がかさんでくる。句の家はとりあえず心配なさそうだが、いつの間にか埃がたまり、空気も澱んでいるはずだ。  家に入って作者は「さて」と腕まくり。まずカーテンや雨戸、窓を開けて風を通さなければならない。南側の窓を開き、襖も、北側の窓も開ける。仏壇を綺麗にし、花と線香を供え、ほっと一息。心の中で父母と会話していると、心地よい風が通り抜けて行く。新涼の風であった。(恂)

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新涼にルバーブのことひもときて      池村 実千代

新涼にルバーブのことひもときて     池村 実千代 『おかめはちもく』  ケーキの飾りに紅色やピンクの甘い蕗のようなものが散りばめられているが、それがルバーブ。ジャムやパイの中身にもなっている。中国原産で漢方の下剤原料の大黄(ダイオウ)がヨーロッパに伝わり、近縁種と交雑してルバーブという固定種になり、17,8世紀にその茎を食用にすることが広まった。日本にも明治時代に入って来たが見向きもされず、最近ようやく方々で栽培されるようになり、ケーキ材料店や山間の道の駅などで見かけるようになった。  半世紀前、東欧に駐在していた時、新鮮野菜に飢えてウイーンの市場をほっつき歩いてルバーブを見つけた。「なんと、蕗がある」と驚喜して買い込み、早速、煮たらどろどろになってしまった。チェコ人のお手伝いの小母さんが「それはこうするの」と、砂糖を振りかけぐつぐつ煮ると赤い美しいコンポートが出来た。  この作者もルバーブを手に入れて、その故事来歴から調べてみようと思い立ったのか。とても面白い句だが、「・・のことひもときて」が少々もたついている。俳句の勉強会でこれを話題にしたら、「やはり調理法を言った方がいい」との意見。それではと、「新涼やネットでルバーブ調理法」としてみた。(水)

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山深き古道の茶屋に秋刀魚寿司     中村 哲

山深き古道の茶屋に秋刀魚寿司     中村 哲 『合評会から』(日経俳句会) 三薬 これを採ったのは、熊野古道あたりだと思うが、「山深き」所に「秋刀魚寿司がある」という対比がよく出ているので。 双歩 私も「こんな所に」という雰囲気があって面白いなと。 青水 リズムの良い俳諧味あふれる句ですね。 ヲブラダ 俳諧ですね。実体験かどうか分かりませんが、いかにもありそう。 水馬 三重と和歌山の道の駅には、秋刀魚寿司必ず売ってます。「山深き古道の茶屋」は知りませんが…            *       *       *  多くの人が指摘したように、これは熊野古道。奥さんと一緒にここを歩いた時に見つけたのだという。和歌山や三重の漁港に上がった秋刀魚は早速、名物の秋刀魚寿司に。これと並ぶ紀州名物が高菜の目はり寿司。両方とも野趣豊かでとても美味い。それが今では冷蔵コンテナなどのお蔭で熊野古道の茶屋でも供される。なんとまあ嬉しいなあという感じがよく表れている。(水)

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初盆の相次ぐ郷の空遠し     流合 研士郎

初盆の相次ぐ郷の空遠し     流合 研士郎 『合評会から』(日経俳句会) 庄一郎 表現が新鮮。ふるさとは心情として遠いという意味が込められている。 水馬 年齢のめぐりあわせもあるのでしょうが、今年は初盆が続くなあと嘆息した年がありました。 阿猿 八月は終戦とお盆で、命や歴史に想いを馳せる機会の多い時期。郷里はみんな若くて元気で騒がしかったあの夏と同じ空。           *       *       *  今年ほど故郷で友人知己が死んだ年はないが、あれこれあってどうしても東京を離れられず、お参りに帰れない──。遥かに遠い故郷の空の方を見つめている作者の顔が浮かんで来るようだ。  昨年八月下旬から今年八月上旬までに死んだ人の初めてのお盆を、東京周辺では「新盆」と言うが、関西から四国九州辺は「初盆」というのが普通だ。この作者も九州出身。沈んで行く夕日を見ながらの句だとすると、一層感慨が深まる。(水)

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平成の子らはスルーの終戦日     池内 的中

平成の子らはスルーの終戦日     池内 的中 『この一句』  ちゃんとした俳句に「スルー」などという英語から借りた俗語を用いるのは顰蹙ものだが、この句に限って、この変な言葉が実にぴったりする。「スルーする」という言い方が流行り始めたのは7,8年ほど前か、今では日常会話で時折耳にする。「見えないふり、聞こえないふりをする」「いい加減に飛ばしてしまう」「無視する」「関心を持たずやり過ごす」といった意味で使われるようだ。  その昔、「パスする」という言い方が流行った。これも「スルーする」とよく似た意味合いだが、「自分とは関係無い」あるいは「拘わると損する」といった価値判断を瞬時に行って、無視したりやり過ごしたりする行為を言う。それに対して、「スルーする」は価値判断をしないか、したとしても判断というよりは自分なりの感覚センサーをさっと通して、自分との距離を気分で感じ取り、「遠いモノ」を無視する行為のようである。  まさに「平成の子ら」にとって、先の大戦や日本の敗戦などは「スルー」すべき事柄なのだ。型破りの詠み方ではあるが、あの無惨な敗戦から73年もたった「今」をこれほど感覚的に、ばっさりと詠んだところが凄い。(水)

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新涼の街や得難き古書を得て     今泉 而云

新涼の街や得難き古書を得て     今泉 而云 『合評会から』(日経俳句会) 昌魚 わたしも神田の古本屋街を新涼の頃歩いていて、珍しい本を見つけたことがあります。気持の良い句です。 庄一郎 「新涼」の季語をこんなに見事に詠ったのは類がない。 好夫 新涼の感じ、古本屋も涼しい感じ。上手だ。 綾子 「新涼の街や」がいい。爽やかな街の様子に作者の心持がよく分かる。 てる夫 いい本を見つけたら気持がいい。それが伝わって来る。 反平 私は「新涼の街や」がちょっとイヤ。「新涼や街に得難き古書を得て」とやって欲しかった。 ヲブラダ 「お、あったあった!」という感じが、新涼とうまくく重なっている。 正市 「街」を入れたことで場面がよく見える句になった。 森太郎 本好きの気持ちがよく読み取れます。           *       *       *  句会で圧倒的な票を集めた句。「新涼」という季語の本意を十二分に表したところが多くの人の心を捉えた。(水)

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