結納の家包みたる夕河鹿      岡本 崇

結納の家包みたる夕河鹿      岡本 崇 『合評会から』(三四郎句会) 賢一 結納と河鹿(かじか)ねぇ。結びつきそうもない二つのものをくっつけちゃったところが凄い。 有弘 そうですね。結納と河鹿で、十七音の中にドラマの一場面を作り上げた。 而云 河鹿の声が聞こえてくる家で、結婚の前の儀式ですね。山村の川べりの一軒でしょう。近くの渓流から河鹿の鳴き声。両家の家族や親族がそろっている。こういう句は珍しいと思う。 尚弘 河鹿には、いろんな状況がありそうだ。例えば葬式だったら? 誰か 個人的には、おめでたい方がいいなぁ。          *        *       *  河鹿(かじか)は山中の清流にいる小型の蛙。美しい鳴き声で知られ、歳時記では「ヒョロヒョロ、ヒヒヒ」などと表現され、「山の鹿」(の声)に対する「河の鹿」とされる。何十年か前、私は高さ数十辰猟澆蟠兇両紊ら河鹿の声を聞いた記憶がある。それからすれば、河原近くの住居であれば、あの賑やかな、軽やかな声が十分に届くはずだ。夏の夕べ。結納の家は蚊遣火を焚き、窓は開け放たれていたのだろう。(恂)

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事故現場供花夏日に晒されて     岡田 鷹洋

事故現場供花夏日に晒されて     岡田 鷹洋 『おかめはちもく』  近ごろは「供花」を「きょうか」とストレートに音読する事が多い。この句もそうである。そう読んでも間違いではないが、「供花」は「供華」とも書いて「くげ」と読むのが正しいようだ。まあ言葉というものは時代と共に変わり、漢字の読み方が変わるのもままあることで、それをとやかくは言うまい。  しかし、この句の場合は昔ながらの「くげ」と読むようにした方が万事都合良くなるように思う。まず第一にこの句は「じこげんば・きょうか・なつびに・さらされて」とぼつぼつ切れて、詩的感興が削がれてしまっている。これを「くげ」と詠んでみるとどうなるか。だが「くげ」では字足らずだ。字余りは許されることもあるが、俳句で「字足らず」はお粗末の極みだから、何とかしなければいけない。そこで助詞の「は」を入れることにしよう。  (添削例) 事故現場供花(くげ)は夏日に晒されて  烈日に晒され見るみる萎れてしまう供花に視線が据えられ、印象鮮明になる。もちろんリズムも良くなる。俳句では普段あまり使われない「は」という助詞だが、主体を際立たせる働きを持っている。(水)

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嫁がざる叔母とままごと桐の花     星川 水兎

嫁がざる叔母とままごと桐の花     星川 水兎 『この一句』  「なんとなく、心に沁みる俳句ですなぁ」(涸魚)、「我が家の光景かと思いました。二人の娘がまだ独身で、近くに住む末っ子の息子の子供が遊びに来ると一緒に楽しげに遊んでいるんですよ。自転車を教えたり縄跳びしたり・・・」(光迷)。句会ではいろいろな感想が寄せられた。  桐の花はパラパラ降ってきて一見賑やかな感じだが、薄紫の色も相俟ってどことなく淋しげな感じがする。でもまあ初夏の明るい日射しの中に降りそそぐ桐の花は「ままごと」のいい材料になるだろう。  桐の木は成長が早く、高さ十メートルにもなって大きな葉を茂らせる。その材は軽くて丈夫で箪笥をはじめ最高級の家具の材料になる。昔、素封家では娘が生まれると桐の苗木を植えた。娘が嫁ぐ頃合いに桐は大きく育ち、それを切って嫁入り道具の箪笥を拵えたのだ。  この句の叔母さんは嫁に行かずに桐の木の下で、恐らくこの句の作者であろう姪っ子の相手をしている。どんな理由があったのか、読者にいろいろ考えさせる。小説的な俳句とでも言おうか、しみじみとした良い句である。(水)

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谷根千のへび道ねこ道青すだれ     野田 冷峰

谷根千のへび道ねこ道青すだれ     野田 冷峰 『合評会から』(酔吟会) 木葉 谷根千の路地裏の小道をよくもってきましたね。「青すだれ」という季語が「谷根千」とよく合っていますね。 可升 「へび道」というのがどんな道なのか「ねこ道」とはどうなのかがよく分からないのですが、リズム感もあって理屈抜きでいい句だと思いました。 春陽子 谷中、根津、千駄木・・・昔の人はいい名前を付けたなぁと学びました。あの辺は昔川があったんですね。今は暗渠になっているけれど・・・           *       *       *  地下鉄千代田線千駄木、根津あたりの不忍通り。昔はこの付近に藍染川という川が流れていたが、大正の震災後から昭和にかけて暗渠化された。旧藍染川はくねくね曲がり、現在の不忍通りから谷中寄りに一筋入ったりしながら流れていた。ドブのような細い支流もあった。  谷中銀座を下りてきて左折「よみせ通り」を上野方向に歩くと「へび道」になる。蛇がたくさんいたからとか、道が極端に蛇行しているからとの説もある。とにかく、昭和の初めの雰囲気を残す町だ。青簾という季語が絶妙に響く。(水)

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夏が来た皿いっぱいの生野菜     高井 百子

夏が来た皿いっぱいの生野菜     高井 百子 『季のことば』  「夏が来た」と言えば、俳句の季語としては「立夏」ということになる。二十四節気で夏の初めとする日で、毎年5月5日頃。6月も中旬になってこういう句を取り上げるのはいささか時期はずれの感じがするが、この句全体から受ける感じは7月初めあたりまで通用するのではないかと思って、あえて選んだ。  なんということもない、食卓風景をそのまま詠んだものだが、「夏野菜の鮮やかさが溢れています。おいしそうですね」(睦子)という句評そのままに、実に気持の良い、元気が溢れて来るような句ではないか。  句会で高点を得て、作者は「小学生の句のようで恐縮です。でもおいしいので思わず作りました。毎朝皿いっぱいの野菜を食べています」とはにかんでいたが、俳句づくりの原点を示したような句である。芭蕉も「俳諧は三尺の童にさせよ」(服部土芳『三冊子』)と言っている。子供の目と心で、何の衒いもなくすっと詠み下した句に名句が存するというわけだ。兎もびっくりするほどの緑黄野菜が大皿に溢れんばかり。見ただけで活力が湧き上がって来る。(水)

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地球にはあるのだ火の滝水の滝     中嶋 阿猿

地球にはあるのだ火の滝水の滝     中嶋 阿猿 『季のことば』  「滝」は場所によっては冬場「凍滝」(冬の季語)になって休眠してしまうものもあるが、まずは一般的には夏のものとさている。  さて、この句の滝はどう捉えればいいのだろうか。「火の滝」というのは、最近しきりに大規模噴火を繰り返しているハワイのキラウエア火山やグアテマラの火山が噴き出している溶岩流を指しているのだろう。夜間に撮影した映像はまさに「火の滝」であり、神話に出て来るヤマタノオロチもかくやである。そこに「水の滝」という下五が添えられている。水の滝という言い方がまことに奇妙で、恐らく前の「火の滝」と対比させるために、また字数の関係から、こうした耳慣れない言葉になったのだろうが、奇妙に似合っている。それに「あるのだ」という断定口調が愉快に響く。  宇宙全体は言わずもがな、太陽系の中でもちっぽけな地球という星。その小さな星である地球でさえ、全容は解明されていない。そんなことにまで思いの広がる句である。そしてこの句の面白さは、従来の季語に対する観念を越えて、無季俳句に一歩踏み込んでいるようなところである。(水)

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六月の闇に消えゆく嘘いくつ     徳永 木葉

六月の闇に消えゆく嘘いくつ    徳永 木葉 『合評会から』(番町喜楽会) てる夫 テレビで見ていると、まったくその通り。どこでも誰でも嘘ばっかりですなぁ。この世の中どうなっちゃうんだろう。「闇」をよく持って来ました。 幻水 まったくその通り。言う事ありません!(笑) 冷峰 全く同じです。「六月の闇」にひかれました。梅雨時の、真っ黒い雲が湧き出て雨が来る。まったくしょうがない。それを「嘘」と結びつけたところがいいなぁと思います。 満智 ほんとに世の中、嘘つきだらけ。しかし、慣れるのは怖い。なかったかのように消えてゆくのも怖い。共感します。           *       *       *  「六月の闇」、昔の言い方だと「五月闇」。うんざりする季節。かてて加えて今年の梅雨は、森友学園問題、加計獣医学部問題はじめ、安倍政権のデタラメぶりに国会が紛糾、ますます世の中を陰鬱にしている。彼らは嘘をつき通せば闇に紛れてしまうとでも思っているのか、しゃあしゃあとしている。しかし、怒っている人は大勢いる。この句が句会で一等賞になったのがその証拠だ。(水)

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新緑や会津にいまも薙刀部      玉田春陽子

新緑や会津にいまも薙刀部      玉田春陽子 『おかめはちもく』  当欄「おかめはちもく」は、つまり添削欄なのだが、執筆の側にちょっとした心理的負担がある。大宗匠が若手の弟子に教えを垂れるのと違って、相手は仲間であり、年上の人もいる。直したい句があっても、先輩や実力者の作には、どうしても腰が引けてしまうのだ。それではいけない、と緊褌一番、この句に手を入れることにした。  作者は番町喜楽会や日経俳句会に、この人あり、と知られる巧者。とは言え、この句には一言あるべきだろう。「会津にいまも」が頷けないのだ。薙刀は武道だが、正式なスポーツであり、国体種目にもなっている。競技者は女子だけとは言え、堂々たる文部省認定の競技だ。剣道との立ち合い(女子対男子)も行われている。  会津藩は戊辰戦争で新政府軍に立ち向かい、“婦女隊”も大奮戦したのだから、句の趣旨は大賛成。しかし高校の薙刀部が全国的にあることを思えば、「いまも」は失礼に当たるだろう。ここは「新緑や会津女子高薙刀部」くらいの方がよさそうだ。という訳で、これからは作者のレベルに関わらず俎上に載せますので、よろしく。(恂)

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夏来る揖保三輪島原小豆島      大澤 水牛

夏来る揖保三輪島原小豆島      大澤 水牛 『合評会から』(酔吟会) てる夫 ここに並べた産地の素麺、みんな食べてみたいですねぇ。 春陽子 よく揃えました。字数合わせに苦労したと思う。夏の感じがよく出ています。 木葉 素麺の産地は、もっとあるけれども、代表的なところをよく並べましたね。おもしろい。 睦子 私は小豆島の素麺が好きです。どこの産地でも味はあまり変わらないような気もしますが・・・。 光迷 「素麺」と言わず、「産地」で並べたのがいいですね。「素麺」というと季語になっちゃうからなぁ。季語を「お中元」としても面白いかもしれません。(しばし素麺談議が続く) 水牛(作者) 僕は素麺が大好きなんです。夏になると毎日素麺。産地としては三輪素麺が一番高級かなぁ。松山吟行に行った時には「五色素麺」を何千円も買いましたよ(笑)。 *       *        *  松山の五色素麺。色は白と緑と赤と・・・? 正岡子規が宿敵の“月並派”三森幹雄に贈った故郷の素麺を思い出した。何色だったか、と調べてみたら「五色」だった。作者はそれをご存知だったに違いない。(恂)

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新緑の日々に色濃し友癒ゆる       大沢 反平

新緑の日々に色濃し友癒ゆる       大沢 反平 『この一句』    これはプラス思考の句である。若い人たちは「何で?」と首を捻るかも知れないが、作者や私(筆者)のような“アラ80”世代には同意が得られると思う。この歳になると、親しい仲間がぽつぽつとあちらの世界に行ってしまう。頭の中に芽生えるものはどうしてもマイナス思考になりがちなのだ。  今年になって親しかった友人二人が相次いで亡くなり、人生とは何か、命とは何か、など心の深奥に潜むテーマに考えが及ぶことが多くなった。長らく碁敵だった「あいつ」とはもう一度、盤を挟んで戦いたかった、などと今も時々思っている。そんな時、この句に出会い、心からほっとしたものである。  初夏の燃え上がるような「新緑」に「友癒ゆる」という明るい材料が配されている。年を取れば亡くなる知人、友人が増えていくのは当然だが、指折り数えてみたら、病気から癒えて元気になる人の方がずっと多かった。よし、プラス思考で行こう。こんな風に急に気が変わるのも、俳句の効用の一つ。(恂)

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