走り梅雨わざわざ覗く枯れた井戸     植村 博明

走り梅雨わざわざ覗く枯れた井戸     植村 博明 『おかめはちもく』  井戸というものが珍しくなった昨今、涸れ井戸などには滅多にお目にかかれるものではない。それでも郊外の城跡などを吟行していて、時折、見つかることがある。これもそうした折にぶつかった涸れ井戸なのか。それとも町場に珍しくも残っている井戸か。とにかく「わざわざ覗く」というのがとても面白い。覗いたって走り梅雨くらいではすぐに水の湧き出すはずも無いのだが、つい覗きたくなってしまう。この句は人情の機微を衝いている。  ただ、この句は叙述に問題がある。まず「枯れた井戸」。これでも分かるのだが。「枯れた」は普通は植物が枯れてしまったことを言い、井戸の水が干上がってしまった場合は「涸れた」と言う。もう一つの問題は叙述の順序である。この句の詠み方だと、「梅雨の走りの雨がやって来たので、わざわざ涸れた井戸を覗きに行った」という意味合いになる。この「ので」とか「だから」を思い起こさせるのが、ちょっと余計な感じである。「走り梅雨」は句全体を覆う季語として最後に置いた方が良いのではなかろうか。  (添削例) 涸れ井戸をわざわざ覗く走り梅雨     (水)

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木下闇うねる気根の口深し     大熊 万歩

木下闇うねる気根の口深し     大熊 万歩 『この一句』  これは奄美大島や沖縄、あるいは東南アジアの景色を詠んだものではなかろうか。パプアニューギニアや南太平洋の島々の感じもする。熱帯の鬱蒼と茂った森のガジュマルなどの大木、気根が垂れ下がり、地上に盛り上がり、複雑怪奇にうねっている。気根と気根の隙間は洞穴の入口のようになっており、奥は真っ暗で何か潜んでいるような感じだ。もわっとした熱帯雨林の其処だけにひんやりした空気が流れている。  大きく太い気根にまたがって、木下闇に憩うと、あの世に吸い込まれていきそうな気分になる。「うねる気根の口深し」という措辞が、分からない人にはさっぱり分からないという弱味があるが、不思議な力を持った句だ。  もしかしたら、私のこの読み方は全くの見当外れかも知れない。しかし、どうしてもポール・ゴーギャンのタヒチの作品、アンリ・ルソーの空想上の熱帯の楽園、そして田中一村の奄美などが頭に浮かんで来るのだ。その三人の有名作品には気根が口を開けているような構図は見当たらないのだが、何となく、こういう絵をみたことがあるなあと思ってしまう。(水)

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富士の峰青さいや増し更衣     和泉田 守

富士の峰青さいや増し更衣     和泉田 守 『この一句』   更衣の季節のさわやかな気分が伝わって来るいい句だなあと思った。  「富士の峰」を文字通り解釈すれば富士山の頂上ということになり、「万年雪を頂いて白く輝いているのではないか」と理屈をこねる人が出てくるかもしれない。しかしこの句の「峰」は山頂だけを意味するのではなく、富士山そのもの、さらにはその周辺をも含めてのものであろう。たとえば富士の麓の河口湖町には「富士ヶ嶺高原」という見晴らしの良い公園があって、初夏の頃も、薄が靡く晩秋も実に美しい富士の峰の全貌を仰ぐことができる。  富士山は四季折々、また日によって、天候によって、その色合いは千変万化する。この句の「青さいや増し」の「青」はどんな色合いだろうか。読者それぞれいろいろな「青さ」を思い描くに違いない。私は初夏の丁度昼頃、遠くもなくあまり近くもない、例えば十国峠からでもいい、籠坂峠あたりでもいい、雄大な富士山が紫がかった青黒い肌を見せている光景を思い浮かべた。足元や周囲は青葉若葉の新鮮な緑の海。その向こうに青さいや増した富士が聳えている。胸一杯に深呼吸。これで寿命は確実に一年は延びたに違いない。(水)

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更衣こんな色のもあったかと     片野 涸魚

更衣こんな色のもあったかと     片野 涸魚 『この一句』  着ないまましまい込んでいた。ああそういえばいつだったか、この服を買ったなあ、それにしてもこんな色だったかなあ・・、よくもこんな派手なのを買ったもんだなあ・・。更衣風景の一コマを軽妙に詠んでいて、とても楽しい句だ。  更衣を「思い切って捨てる日」にしていると言う奥さん方が多い。気に入ったからこそ買った服だから、なかなか捨てられないのが人情。その結果、タンスのこやしが年々増えていく。どこかで踏ん切りをつけねばならない。それが五月ゴールデンウイークから六月一日にかけての「更衣」の時期ということになる。仕舞って置くならクリーニングに出さねばならない。だけどクリーニング代もバカにならない。着もしないでただ仕舞って置くのなら、もうこの辺で処分してもと、決断のきっかけになる。  問題はご亭主の洋服である。時折、これこれこういった柄のシャツがあったよな、なんて言い出すから危ない。実はもうこれは着ないだろうと去年捨ててしまったのだ。だから、更衣の前日は嫌がる亭主を座らせて「これ要る?捨てる?」と聞く。すると、「取っておく」などと意外にもケチな本性を現すのだ。(水)

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更衣踏ん切りつかぬ昨日今日     井上 庄一郎

更衣踏ん切りつかぬ昨日今日     井上 庄一郎 『季のことば』  「更衣」(ころもがえ)は俳句では夏服に替えることを言い、旧暦四月一日(現代曆では五月一日)を更衣の日とした。江戸時代、四月一日になると、それまで着ていた綿入れを袷(あわせ)や一足飛びに夏物の単衣(ひとえ)に替えた。非常に珍しい苗字の一つに「四月一日」あるいは「四月朔日」というのがあるが、これも更衣から出た苗字で「わたぬき」と読む。厚ぼったい綿入れが軽い衣に替わって、身も心もすっきりとする。その気分を表した夏の季語である。旧暦十月一日(現十一月)にまた綿入れに替わるのを「後の更衣」と言うのだが、口調も悪いし、寒さに向かうのを持て囃す気分になれないせいか、この季語を用いた句はほとんど詠まれないままである。  さて、現代。学校の制服が六月一日に一斉に白っぽい夏服に替わるのが印象的だ。これが今どきの俳人たちに「更衣」という季語を思い出させるきっかけとなる。しかし、季語の定めた時期である五月一日にせよ、制服切り替え時の六月一日にせよ、日中30℃を越す「夏日」が来たと思ったら、翌日は15℃になって震えたりする。「冬物を全部クリーニングに出しちゃって大丈夫かなあ」と迷う。まさに掲出句のような心境になる落ち着かない日々である。(水)

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底知れぬ嘘と忖度木下闇     須藤 光迷

底知れぬ嘘と忖度木下闇     須藤 光迷 『合評会から』(日経俳句会平成30年度上半期合同句会) 反平 時事句。底はとっくに割れているんだけどね、ともあれ不愉快。 実千代 今の世の中の事を詠んでいて納得しました。 而云 俳句の出来うんぬんというより、今思っていることを詠んでくれた。 涸魚 水牛さんの怒りまざまざ。 青水 自分もこの種の俳句をいくつかものしたが、同類の趣旨の俳句としてはこの句が一番まとまっている。 ヲブラダ 民主主義国家に住んでいると思っていたら、どうもそうではなかったらしい。           *       *       *  日経俳句会半年一度の合同句会で「天」を射止めた句。涸魚さんの句評は、ブログ「水牛のつぶやき」でモリカケ醜聞について怒りをぶちまけたのを見て、これも水牛の作と思われたのかも知れない。とにかく政官界の腐敗汚濁が我慢ならない状態になっていることは確かで、この直前の「番町喜楽会句会」でも「六月の闇に消えゆく嘘いくつ 木葉」が一等賞になっている。(水)

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緑陰に廻り廻りてさざえ堂     塩田 命水

緑陰に廻り廻りてさざえ堂     塩田 命水 『おかめはちもく』  「さざえ堂」とは? 聞いたことはあったが、それ以上のことは知らなかった。さざえの尖った先を上に、“蓋の取れた”入口の方から、ぐるぐると上に登っていく形の御堂を想像した。その通りだったのだが、実は堂の実態を調べる暇も、句の点検の間もなく、慌てて「欠席選句」をした。  恥ずかしながら句会の日取りを勘違いしていた。会場からの幹事の電話に仰天しつつ、選句を伝えたのである。すでに5句に〇印をつけていて、その中に掲句も入っていた。翌日の新聞(日経)に、思わぬ記事を見つけた。何と「会津さざえ堂」が写真付きで大きく紹介されていたのだ。  その後に句を見直した。「緑陰に」の「に」がどうしても気に入らなかった。私が選んだだけの一点句に終わったのは、そのせいかも知れない。「緑陰を」なら無難だろう。上五の季語を「青葉影」「木下闇」「万緑を」などに変える手もあった。今でも「惜しかった」と思っている。(恂)

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紫陽花や嘘がまことに早変り    田中 白山

紫陽花や嘘がまことに早変り    田中 白山 『この一句』  先日開かれた当NPO主催の連句会で、掲句が発句に推薦された。現今の政治状況にまことに適合している、という理由によるものである。「絶対にこの句にしたい」「まあ、いいか」など、ニュアンスの違いは感じられたが、「反対」の声は出ず、連衆全員の同意を得たと言っていいだろう。  紫陽花には最後まで純白のままのものもある。しかし「七変化」の別名が示すように、日にちを追って色を変えていくのがこの花の特徴。土壌の性質によって青系統、赤系統になどに色が変わるのも、紫陽花の持つ性格そのものであるらしい。まさに現政権側の発言にそっくりの変化、変身ぶりである。  さて連句のこと。江戸時代に盛りを極めたこの文芸は、たとえ怒りや鬱憤があろうとも、その心をオブラートに包み、柔らかく句を繋いでいくのを善しとする。ところが上記の連句は、締めくくりの挙句に至って詠み手の怒りが爆発した。その句は? 残念ながらコラムの字数が足りなくなってしまった。(恂)

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生命の四十億年新緑に     高橋ヲブラダ

生命の四十億年新緑に     高橋ヲブラダ 『この一句』  この時期、周囲を見回すと「生命の季節だ」と思わざるを得ない。北半球の植物はいま最も生き生きとし、成長を続けていく。人間も他の動物も基本的には同じはずだが、目に見えて成長するとなるとやはり植物だろう。葉は緑を鮮やかにし、さまざまな花を咲かせていく。  ところであなたは日々の植物の変化を見ながら、こんな風に感じているのではないか。「葉が茂ってきた」「もうすぐ花が咲くだろう」「肥料は足りているかな」・・・。ところが句の作者は新緑の葉先に、四十億年に及ぶ地球の命の営みを見ているのだ。すごいなぁ、と思わざるをえない。  「水の地球すこしはなれて春の月」(正木ゆう子)。この句を知った頃、俳句も宇宙へ出て行く、と感じた。しかし身の回りを眺めるだけで、宇宙の神秘に触れることが出来そうだ。明日の朝、木々の葉先を見つめてみよう。遥かから到来した生命のパワーを、感じ取れるに違いない。(恂)

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噴水をくぐりぬける子転げる子    前島 幻水

噴水をくぐりぬける子転げる子    前島 幻水 『合評会から』(番町喜楽会) 哲 光景がすぐ目に浮かびますね。特に「転げる子」がリアルでいい。想像の句ではないと思う。実際にこの光景を見て詠んだに違いない。 白山 「くぐり抜ける子転げる子」と字数を合わせてうまく詠んだなと思います。 可升 元気に遊ぶ子が目に浮かびます。白山さんも言われたように「くぐり抜ける子」と「転げる子」を続けて詠んだことで語調もいいなと思いました。 幻水(作者) 横浜みなとみらい美術館前の噴水です。子供が大勢遊んでいました。 斗詩子 噴水の中で生き生きと夢中で遊び回る子どもたちの姿が目に浮かんできました。              *        *         *  なぜ幼児は水遊びが好きなのか。母親の羊水の中で育ったからかも知れないし、そうでないかも知れない。水に慣れない子は水に手を出して、すぐ引っ込める。こうして子供たちは命の素である水に慣れていくのだろう。水は人の命も奪う。「くぐりぬける子」「転げる子」。水遊びは人生行路の疑似体験のように思えてくる。(恂)

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