柏餅シリアの子等を思ひけり 片野 涸魚
柏餅シリアの子等を思ひけり 片野 涸魚
『この一句』
「似非ヒューマニズム」という言葉がある。自分は安穏な場所と身分にのうのうとして居りながら、可哀想な境遇にある者に対して憐憫の情を表したり、なにがしかの寄付金を出しては自己満足に浸っている、偽善的な姿勢である。
俳句にもそういうものがよく登場する。句会でこの句を見た時に、そんな感じを抱いて捨ててしまった。しかし、後悔した。俳句を詠む者は、たとえ「甘い」と言われても、常にこの目線に立っていなければならないのだ。
こういう姿勢だと、ともすればセンチメンタルな浮ついた演歌調の気分にたゆたうことにもなる。そこから生まれる俳句は甘っちょろい、背中がむず痒くなるようなものになりがちだ。でも、その危険を冒してもそういう底辺を浚うような句を詠む必要があるのではないか。この句を読み直してそんなことを思った。
「可哀想な子供たちはシリアに限らない、ミャンマーにも、アフリカにもたくさんいる」という批評が句会ではあった。それは確かだが、この句は昨今の一番悲惨なシリアの戦闘場面に代表させたのである。「柏餅」と「シリアの子」で、平成の日本のぬるま湯状態を叱咤する響きも感じられる。(水)