陽炎につまづく人のをりにけり 横井 定利
陽炎につまづく人のをりにけり 横井 定利
『この一句』
「陽炎(かげろう)につまずく? そんなことあり得ないよ」では、俳句は面白くならない。陽炎に揺れる野を眺めているとしよう。遠くを歩く人がよろけた。「おや、あの人、陽炎につまずいたな」と思うのも俳味の一つ。「あたかも~の如く」のを略すことが許されるのも俳句という文芸の持ち味なのだ。
以下は蕪村が思うままに詠んだ牡丹の句である。「日光の土にも彫れる牡丹かな」「方百里雨雲よせぬぼたんかな」「閻王の口や牡丹を吐んとす」「蟻王宮朱門を開く牡丹哉」「虹を吐いてひらかんとする牡丹かな」―-。どの句も「如く」を省略している、と言えるが、実際にあり得る、としても構わない。
俳句はたったの十七音。この短さによる不自由さは、蕪村の句でお分かりのように、大いなる自由も許してくれる。作る側だけではなく、鑑賞する側にも自由が存在する。掲句をもう一度、読んでみよう。私はつまずかないと思う。しかし誰かがつまずかないか、との思いもある。あっ、つまずいた-―。(恂)