陽炎につまづく人のをりにけり     横井 定利

陽炎につまづく人のをりにけり     横井 定利  『この一句』  「陽炎(かげろう)につまずく? そんなことあり得ないよ」では、俳句は面白くならない。陽炎に揺れる野を眺めているとしよう。遠くを歩く人がよろけた。「おや、あの人、陽炎につまずいたな」と思うのも俳味の一つ。「あたかも~の如く」のを略すことが許されるのも俳句という文芸の持ち味なのだ。  以下は蕪村が思うままに詠んだ牡丹の句である。「日光の土にも彫れる牡丹かな」「方百里雨雲よせぬぼたんかな」「閻王の口や牡丹を吐んとす」「蟻王宮朱門を開く牡丹哉」「虹を吐いてひらかんとする牡丹かな」―-。どの句も「如く」を省略している、と言えるが、実際にあり得る、としても構わない。  俳句はたったの十七音。この短さによる不自由さは、蕪村の句でお分かりのように、大いなる自由も許してくれる。作る側だけではなく、鑑賞する側にも自由が存在する。掲句をもう一度、読んでみよう。私はつまずかないと思う。しかし誰かがつまずかないか、との思いもある。あっ、つまずいた-―。(恂)

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陽炎や子ら追い立ててシーツ干す     岡田 鷹洋

陽炎や子ら追い立ててシーツ干す     岡田 鷹洋 『おかめはちもく』  春の太陽が燦々と降りそそぐ午前中、お母さんがシーツを干している。家族全員のベッドマットや蒲団を干すのは大仕事だからたまにしかやらないが、シーツは洗濯の合間合間に干す。シーツを干すだけで寝心地がぐんと良くなる。  しかし、これをやるとどういうわけか幼い子供たちは大はしゃぎする。シーツは幅1メートル、長さ2メートルほどもあって、広げて竿に掛けるとなると大仕事で、お母さんの身振りは自ずと派手になる。子どもたちにはこれが珍しく、嬉しいのだろう、駆け寄ってきてまとわりつく。「だめよ、どいて、どいて。向こうへ行ってらっしゃい」とお母さんは叫ぶのだが、子どもらはきゃっきゃと笑って干したシーツにぶら下がったりする。そんな情景が浮かんで来る微笑ましい句である。  ただ、「追い立ててて」というのが少々気になる。もう少し子らの様子も入れて、「陽炎やはしゃぐ子ら退けシーツ干す」としたらいかがだろうか。(水)

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陽炎や頭の中の万華鏡     加藤 明男

陽炎や頭の中の万華鏡     加藤 明男 『この一句』  陽炎がゆらゆら立ち昇る、麗らかな春の昼下がり。公園のベンチに一人で座っているのもいい、あるいは自宅のソファにもたれているのもいい。身も心も大自然の運行にゆだね、余計な事を考えない。  とは言っても無念無想の境地にはなかなか浸れない。凡夫の浅ましさで、そうしているとすぐに来し方のあれこれが去来し、いちいちそれに反応して悔しがったり、恨んだり、後悔したり、自分で自分に弁解したりして、頭の中で一人芝居を繰り広げる。しかし、そうしたことを何度かやっているうちに、あら不思議、何も考えずに頭の中を空っぽにしていられるようになる。これが無念無想、あるいは座禅を組んで無我の境地に入るのと同じようなものなのか、あるいはただ半睡半醒の宙ぶらりん状態なのか。  これは私が常日頃やっていることで、この句の作者の思考行動とは全く関係無いかも知れない。しかし、とにかくこの句を見た時に、「頭の中の万華鏡」とは面白いことを言うものだ、自分と同じような人がいると思ったのである。(水)

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里の庭古きへっつひ陽炎へり     池村 実千代

里の庭古きへっつひ陽炎へり     池村 実千代 『この一句』  「里」には「村里、田舎、在所」といった意味と、「実家」を意味する場合がある。この句の「里の庭」はどちらにも通用するようだ。いかにも晩春の駘蕩たる空気が伝わってくる。  陽炎は、日射で暖められ立ち昇る水蒸気の中を通過する日の光が屈折し、ゆらめいて見える現象である。だから温められた石の上などには陽炎が際立つ。「古きへっつひ陽炎へり」とは実に観察が細やかである。  しかし、「へっつい」とはまことに懐かしい言葉だ。今は絶えて聞かない。「竈(かまど)」と言えば「あゝ」と言う人がまだかなりいるだろう。石や耐火煉瓦などを粘土あるいは漆喰、セメントで塗り固めて、上に鍋釜を置き、下で薪や石炭、コークスなどを燃やして、御飯を炊き、料理を拵える昔のレンジである。昭和40年代までは都市部でも旧家では見受けられた。  庭に棄て置かれているへっつい。雨風にさらされながらも、でんと座り、そこから陽炎がゆらゆら立ち昇っている。「無用の長物」には違いないが、その貫禄たるや大したものだ。ああ、ふる里だなあと思う。(水)

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桜蕊降る降る里の母校跡     嵐田 双歩

桜蕊降る降る里の母校跡     嵐田 双歩 『この一句』  日本全国少子化の波に洗われ、各地で小学校が続々潰れている。入学児童が年々減って、クラス編成が出来ないのだ。それで近くの小学校同士が合併し、吸収された方は廃校となる。東京都内や首都圏だと、廃校になった校舎はコミュニティセンターになって集会場や催事場として利用され、再度賑わいを見せるのだが、過疎化が進んでしまった地方の町村ではそうした再利用の道も無い。中には校舎を解体する費用すら捻出できず、古びた建物が化け物屋敷のように残っているのも見る。  この句の母校はすっかり取り払われているようだ。学校の敷地は結構広い。運動場まであるから、優に三、四千屬らいはあるだろう。だだ広い母校跡は今や一面若草が生い茂っている。校門のあった場所にはわずかに残った石垣と、桜の大木が四、五本。恐らく今年も豪華に花咲いたのだろうが、もう見上げる子供たちの姿は無く、空しく散って、桜蕊をひっきりなしに降らせるばかりである。 「降る降る」のリフレインが効果的で、「降る里」と言った遊び心も面白い。(水)

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