陽炎の向こうへあいつが消えてゆく     杉山 三薬

陽炎の向こうへあいつが消えてゆく     杉山 三薬 『おかめはちもく』  この作者は気取ったり偉そうにしたりする奴が大嫌い。だから俳句も、きれいにまとめ上げているが内容空疎なのに出会うと、痛烈に批判する。現代俳句なのだから、現在使っている言葉で表せばいいではないかと、現代仮名遣いで押し通す。下世話な口語、流行語、カタカナ語を遠慮会釈無く用いる。  というわけで、気っ風の良い、とても面白い俳句を作る。「作る」というよりも「吐き出す」と言った方がいいような感じである。元々インパクトのある詠み方だから、ツボにはまると強烈パンチになる。しかし外れたら無惨、傍が何もしないのに自分からずでんどうと引っ繰り返る。  この句はそうしたものの中にあって素晴らしく良く出来た部類であろう。「あいつ」などとぞんざいな言い方をしているが、不倶戴天の敵というわけではなく、せいぜいが何度か煮え湯を飲まされ「あの野郎っ」と歯がみした程度の相手だろう。あるいは逆に、長年親しく付き合ってきた悪友への哀悼かも知れない。  どちらにせよ情味溢れた句で好ましい。しかし「が」が気になる。こういう句は引っ掛かること無く、『陽炎の向こうへ消えてゆくあいつ』とすっと詠んだ方がいい。(水)

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柏餅シリアの子等を思ひけり     片野 涸魚

柏餅シリアの子等を思ひけり     片野 涸魚 『この一句』  「似非ヒューマニズム」という言葉がある。自分は安穏な場所と身分にのうのうとして居りながら、可哀想な境遇にある者に対して憐憫の情を表したり、なにがしかの寄付金を出しては自己満足に浸っている、偽善的な姿勢である。  俳句にもそういうものがよく登場する。句会でこの句を見た時に、そんな感じを抱いて捨ててしまった。しかし、後悔した。俳句を詠む者は、たとえ「甘い」と言われても、常にこの目線に立っていなければならないのだ。  こういう姿勢だと、ともすればセンチメンタルな浮ついた演歌調の気分にたゆたうことにもなる。そこから生まれる俳句は甘っちょろい、背中がむず痒くなるようなものになりがちだ。でも、その危険を冒してもそういう底辺を浚うような句を詠む必要があるのではないか。この句を読み直してそんなことを思った。  「可哀想な子供たちはシリアに限らない、ミャンマーにも、アフリカにもたくさんいる」という批評が句会ではあった。それは確かだが、この句は昨今の一番悲惨なシリアの戦闘場面に代表させたのである。「柏餅」と「シリアの子」で、平成の日本のぬるま湯状態を叱咤する響きも感じられる。(水)

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陽炎や歩けば遠き隣駅     大下 綾子

陽炎や歩けば遠き隣駅     大下 綾子 『合評会から』(日経俳句会) 実千代 (近そうに見えたのに)歩けば遠かったという情景がよく分かる。 水馬 歩いてしまった後悔の念が出ていて俳味がありますね。 而云 「すごく遠かった」と誰かが言ってたのを思い出した。 鷹洋 「やっぱり遠いや」と足の衰えを嘆いているのがよく出ている。 双歩 春じゃないと歩こうとは思わない。春らしい風景。 二堂 ゴルフの経験から言えば、陽炎が立つと逆に遠くに見える。 明男 私にも同じ経験があります。陽炎の中に見える隣駅まで歩こうと決心して歩いたら意外と遠かった。 青水 一駅歩きが近ごろの流行りだそうですね。季語が動かない。           *       *       *  合評会を聞いていたら、みんな同じようなことを経験しているんだなと、面白かった。都電荒川線、江ノ電はじめ私鉄各線には隣駅の見える所がよくある。季節が良くなると、ついふらふらと。しかしこういう句が出来るのだから、それもまた良し。(水)

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夏めきて素足のびのびゴム草履     山口 斗詩子

夏めきて素足のびのびゴム草履     山口 斗詩子 『合評会から』(番町喜楽会) 光迷 「のびのび」に夏が来た嬉しさが表れていていいですね。 満智 跣足になれて、足の指が喜んでいる。この季節の開放感がよく表れていると思います。 水馬 「夏めきて」が説明になってしまうようで気になりました。「夏めくや」の方がいいかも。 光迷 そもそも「夏めく」という季語そのものが説明的なんだ。           *       *       *  若い娘だろう、眩しいようなすらりと伸びた足に無造作につっかけたゴム草履。「素足のびのび」がいい。いかにも夏めく頃の感じだ。蕪村の「夏河を越すうれしさよ手に草履」に一脈通じるところがある。確かに「夏めいて」きたから「素足にゴム草履」という、「原因結果俳句」の憾みが無くはないけれど、それはむしろ「夏めくや」で切ってしまうとそうなる。こうして一句一章で、すっと詠むと、素直に夏めく感じが伝わるように思う。(水)

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夏めくや老いには重き鍬の先     高井 百子

夏めくや老いには重き鍬の先     高井 百子 『合評会から』(番町喜楽会) 水馬 「老いには重き」と言っているけれど、あまり苦しい感じがしない。この人は畑仕事が好きなんでしょうね。嬉々としてやっているけどやっぱり重い。面白い感覚だなあと思っていただきました。 水兎 鍬を上げる時にうまくバランスをとらないと、よろっとしてひっくり返りそうな気がします。そういうところをうまく詠んだと思います。 双歩 無理は禁物です。(あまりに簡潔な選評に笑いが起こる) 木葉 「鍬の先」の「先」が気になりました。鍬全体が重いのだと思うけど。 光迷 鍬を打ち込んで、土を返そうとする時に鍬の先が重いんじゃないかな。           *       *       *  水馬氏の言う通り、この句は重労働を嘆いているのではなく、むしろ楽しんでいる。まあ、ふうふう息を切らせていることは確かだが、「まだまだやれるぞ」という感じ。いま流行りの家庭菜園か庭づくり。汗をかいて耕した所に出来る野菜や花は感激である。さあ頑張って、もう一鍬。(水)

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黄ばみ見ゆ思ひ出深し夏衣     大平 睦子

黄ばみ見ゆ思ひ出深し夏衣     大平 睦子 『季のことば』  「夏衣(なつごろも)」とは単衣、絽、上布、麻衣、帷子といった夏の和服の総称だが、現代俳句では夏物の洋服をも含めて詠まれる。作者によると、これは夏物のブラウスとのことであった。  老人の私は疑うことなく和服ととった。母親から譲り受けた越後上布か何かを、衣替えが近づいて箪笥から取り出してみたら、うっすらと黄ばみが浮かんでいた。大事にしてきたつもりなんだけど、やはり年月がたつとこうなってしまうのか。と、思いやりながら、この着物にまつわる数々の思い出を手繰り寄せている。なんとも趣き深い、優雅な句ではないかと感心した。  もちろん夏用のブラウスだって十分成り立つ。シルクシフォンやレースをあしらった逸品だ。夏物はどうしても汗を吸っているから、入念にクリーニングしてもらっても年月を経れば黄ばみやシミが浮いて来る。しかし、愛着を持つ衣服には、長年の思い出が詰まっている。「黄ばみ」こそが値打ちと言ってもいいくらいなのである。(水)

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筍の歯ごたえ欲しく歯科通い     澤井 二堂

筍の歯ごたえ欲しく歯科通い     澤井 二堂 『おかめはちもく』  この句から「一句の中の因果関係」を見出すことが出来るだろう。「筍の歯ごたえ欲しく」。すなわち、筍を噛んだ時の歯ごたえが欲しいので、歯科医師通いをしている、というのだ。歯痛に悩まされ、筍をおいしく頂くことができない。そのために・・・、ということがまともに提示されている。  この句が登場した句会の兼題に「夏めく」があった。作品の上五は「夏めくや」と「夏めきて」が多くなるのだが、「夏めきて」の場合は説明調のため、意外性の少ない句になりがちである。俳句は手品や推理小説と似ている面があり、種明かしはなるべく後に残した方が効果的なのだ。  掲句の場合、例えば「歯ごたえ欲しや」とすれば、下五との間に僅かな断絶が生れる。、「く」から「や」にたった仮名一字を変えただけなのに、下五になって「作者(句の主人公)は歯痛だったのか」という意外性が生じてくる。私は筍の“歯ごたえ好き”だけに、一言言わずにいられなかった。(恂) 添削例  筍の歯ごたえ欲しや歯科通い

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滝音を包む新樹の光かな     廣田 可升

滝音を包む新樹の光かな     廣田 可升 『この一句』  「滝音を? 新樹の光が・・・?」。選句の際は深く考えず、「ちょっと分かりにくい」と読み飛ばしてしまった。選句の初め、この句は選ばれなかったのだが、半ばを過ぎて三人がたて続けにこの句を読み上げた。合評会では「ちょっと考えてしまった」など解釈上の疑問も提示されていた。  作者はこんな風に説明した。「新樹の光が滝の音を包んでいるというイメージですが」。滝の音が一塊りとなって滝壺から立ち上り、その周囲を新樹の光が取り巻いている・・・。普通の感覚では思い描きにくい情景だが、何となく心を刺激するものがあり、理解出来ない、と切り捨てることは出来ない。  中原道夫の句「瀧壷に瀧活けてある眺めかな」のような諧謔性はない。アイディアは新奇だが、作り方は正攻法である。滝の音は結局、どうなるのだろうか。新樹の光が滝音を包もうとしても、音は広がっていくばかりなのに。やがて気づいた。理屈優先型だから、このような句が作れないのだ、私は。(恂)

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ひょろひょろの茄子苗二本頑張れよ     大澤 水牛

ひょろひょろの茄子苗二本頑張れよ     大澤 水牛 『合評会から』(番町喜楽会) てる夫 こういう句材だと固有名詞が特定されそうですが、ご苦労を偲んで頂きました。 冷峰 私も同じような状況を何度も体験しています。それだけに茄子が出来た時の感激は大きい。こんなに大きな茄子になるのか、と思いますね。句の二本の苗も大きく実ってもらいたい。 光迷 ウチでも野菜の苗を植えますが、添え木して「頑張れ」と声をかける。作者の気持ちはよく分るなぁ。 水牛(作者) いかにもひょろひょろと弱々しかった。毎年、そう感じますが、特に今年の茄子の苗は「大丈夫かな」と思いました。このところ殊に風が強く、ビニールで防風スクリーンを考案したりして・・・。            *        *        *  苗に呼びかけた「頑張れよ」が効いている、という声が多かった。全くその通りである。さらにもう一つ「ひょろひょろ」という表記の効果も挙げたい。俳句の表記は“小さい字”も「ひよろひよろ」のように普通の字で書く、という取り決めのようなものが通用しているが、意味のある、守るべき慣習とは思えない。句材や詠み方(例えば掲句のような口語体)によっては、現代に相応しい表記を用いるのが当然と思う。(恂)

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登校の列は背の順百千鳥     塩田 命水

登校の列は背の順百千鳥     塩田 命水 『合評会から』(番町喜楽会) 春陽子 小学生の登校時の光景だろう。「背の順」は大きい順か。ともかく「百千鳥」とよく合っている。 満智 子供たちの列と「百千鳥」がいい。可愛らしいなぁ、と思いました。 水牛 「百千鳥」の季語が効果的です。こんな景に本当にふさわしいですね。新一年生が一番後ろかな。新一年生はランドセルが歩いているみたいなんだ。 綾子 囀りが聞こえる中、黄色い帽子を被って背の順に登校する子供たち。かわいい絵のようです。 哲 上級生を先頭にした集団登校でしょう。子供たちのおしゃべりと百千鳥が響き合う。  (誰か) 背は低い順じゃぁないの? (誰か) いや、上級生が先でしょう。一年生が先だと危険なんじゃないかな? 命水(作者) わが家の下を歩く小学生の光景です。上級生が先頭でした。 *        *         *  戦時中の私の体験では先頭が六年生で、その後は一年生からの学年順。いい並び方だったと思う。(恂)

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