祖父またも苦学を話す柏餅     今泉 而云

祖父またも苦学を話す柏餅     今泉 而云 『合評会から』(酔吟会) 双歩 子供の日の頃になると一家でおジイさんのところに行く。柏餅を前に祖父が孫に苦学した昔話をしている。この孫は作者の息子でしょうかね。 冷峰 孫のところに行くと、倅が「親父、親父の苦労話を息子に聞かせてやってよ」なんて言うんですよ。だけど孫にはよく分からないようだ。「じいじ、早く帰れば」なんて言われちゃう(笑)。とにかくこの句の通りです。 木葉 これは作者が中学や高校の時に祖父から聞かされた思い出でしょうか。昔の「苦学生」の苦労が垣間見えますね。 てる夫 僕は父方母方双方の祖父を知らないから苦労話は聞けなかった。今、自分の孫に昔の苦労話をしても理解されないだろうなぁ、と思っています。           *       *       *  作者によると、これは父親が作者の息子たちに若い頃の苦労話を聞かせている図。「昔はなぁ、小さな蒲団一枚で寝ていたもんだよ。こうやって二つに折ってね、柏餅と同じだよ」。すると今どきの子は「どうして蒲団一枚で寝たの」と聞く。てんで通用しないのだ。幸せな平成時代である。(水)

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新緑へカード一枚風まかせ     金田 青水

新緑へカード一枚風まかせ     金田 青水 『季のことば』  「若葉」「新樹」「新緑」という、初夏のみずみずしい緑をもてはやす三つの類縁季語がある。「若葉」は春に芽吹いた葉が黄緑からやや濃くなった頃合いで、実に新鮮な感じだ。芭蕉が唐招提寺の鑑真和上の像を拝んで詠んだ「若葉して御めの雫ぬぐはばや」という句にもうかがえるように、若葉には病や傷を癒す霊力があると信じられてきた。萎えたもの、傷んだものを甦らせるというのである。それを木全体にまとったのが「新樹」で、まさに精気溌剌。さらに「新緑」となれば、緑の野山すべて一望といった気分である。さらにさらに、そこを吹き渡ってくる風が素晴らしい。「薫風」である。  憂き世のしがらみから抜け出して、新緑の世界に飛び出したい、羽を伸ばしたいと誰しも思う。そんな思いがゴールデンウイークなどという連休を生み出した。この句の作者もその一人。リュックもカバンも持たず、身一つで目的地も定めずに行き当たりばったりの電車にでも乗ってしまったらしい。まとまったお金は持っていない。しかしままよ、カードがあるじゃないか。現代版瘋癲老人はいざとなっても路頭に迷うことはない。(水)

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七曲り遠見の滝の真白かな     水口 弥生

七曲り遠見の滝の真白かな     水口 弥生 『この一句』  「七曲り」は「つづら折り」「羊腸」とも言い、坂が幾重にも折れ曲がった所を指す。一直線ではきつくてとても登れない山道の傾斜を緩くするための知恵で、古代から存在する。日光いろは坂は七曲がりどころか四十八曲りもあるが、これを代表に、日本全国に「七曲り」は沢山ある。どこも複雑な地形故に景勝地となり、滝のある場所も多く、大概観光名所になっている。  この句はどこの七曲りを詠んだのだろう。やはり日光だろうか。そしてこれは上りの景色か、あるいは下りだろうか。どちらを想像するかは読者任せである。  車窓にかなり大きく見えていた滝がカーブを曲がると見えなくなり、次のカーブを曲がるとまた見えてくる。そしてまた次の曲りで消え、次ぎにまた現れる。そうしているうちにあんなに大きかった滝が、小さくなってしまった。今や新緑の中に白く輝く一本の剣のようだ。──さようなら、さようなら。私は下って行く時の光景と読んだのだが・・・。とても面白い句であり、そしてとても美しい。(水)

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滝眺むしばし時間の止まりたる     大熊 万歩

滝眺むしばし時間の止まりたる     大熊 万歩 『合評会から』(日経俳句会) 木葉 滝の句として標準的な句だ。じっと見ていると確かに時間が止まり、見ていて飽きない。そんな情景を詠んでいる。 哲 滝のしぶきがゆっくりと落ちて、まるで止まっているようだというのと、水がつぎつぎと落ちてきて循環し輪廻しているように見えるという両方がある。これは後者で、永遠に時間が止まっている様な感じを受けたのだろう。 明男 確かに滝を目の前で見ていると、他に何も聞こえない、時間が止まったように感じる時がある。それも滝が大きく、轟音の大きいほどそんな感じになる。作者もそうした感じを受けたのだろう。 正市 景も、作者の想いも見えて来る。これからより、これまでがスライドショーのように脳裏を走ったに違いない。           *       *       *  木葉氏の「滝の句として標準的」という評が面白い。誰もが感じる「滝の水のストップモーション」を呈示して、何事かを感じさせる句に仕立てた腕前を褒めているのだ。(水)

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大空にダリの口ひげ夏つばめ     岩田 三代

大空にダリの口ひげ夏つばめ     岩田 三代 『合評会から』(日経俳句会) ゆり ダリの髭がつばめに似ているのと大空の青さが見えた。 好夫 私も以前からつばめをダリの髭のようだと思っていた。 二堂 ダリの口髭というのがぴったり。よくこれを思いついたなと思った。 反平 ほんとに上手いこと思いついたものだ。 臣弘 ダリの髭が大空に動いている。上手い考えに感心するばかりだ。 木葉 同感。しかし「ツバメ」は平仮名の方がいいのではないか。(原句は片仮名だった) 而云 ダリの髭はくるくる巻いている。だから燕が空中でくるっと回っている様子も想像できる。素晴らしい句だ。 万歩 飛燕の残像をダリの口ひげと見たてたところが超絶技巧。 睦子 飛ぶ速さと三日月のような姿形が美しいですね。           *       *       *  作者は何とかして燕の飛ぶ様子を詠みたいと考えていて、ふとダリの髭を思いついたという。こういうのを「ひらめき」と言うのだろう。(水)

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夏めいて老母気になる痩せ具合     深瀬 久敬

夏めいて老母気になる痩せ具合     深瀬 久敬       『おかめはちもく』  作者はこのように語っていた。「夏になって親が半袖を着ると、こんなに痩せていたかと驚きます」。一人がこう話した。「私も痩せてきたが・・・。ただこの句の“気になる”は不要でしょう」。その通りだと思う。「気になる」などと言わないで、その気持ちを表すのが、俳句的な表現と言えるだろう。  年を取った親の体調を気にしない子供はいない。病気ではなくても、元気がない、テレビばかり見ている、など心配のたねは尽きない。目で直接、確認すると余計、気がかりになるものだ。ところがそのことについて「心配だ」などと直接、言ってしまうと、句の味わいが失せてしまいがちだ。  親が痩せてきたとしよう。太り過ぎの場合はともかく、痩せた人がさらに痩せるとかなり気がかりになる。そのような場合、ただ見たままの状況を述べてみる手がある。例えば次のように詠んだらどうか。「夏めいて老母の痩せのまた少し」。親を思いやる子供の気持ちが、滲み出てくると思う。(恂)

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マリーナはブルーに白の夏景色      印南 進

マリーナはブルーに白の夏景色      印南 進 『合評会から』(三四郎句会) 正義 江の島あたりの感じかな。いかにも夏来ると思わせる。 久敬 先日、仲間と葉山に行ったら、本当にこういう感じでした。 雅博 作者の色彩感覚を感じますね。ただ、ブルーに白、という言い方はどうなのか。 而云 五七五にするためでしょう。違和感はそれほどでもないが。 *         *         *  友人のヨットに乗せてもらっていた頃、三浦半島のマリーナに行って「あっ、夏になった」と感じたことが何度もあった。冬の間、マリーナはマストが林立し、木の椅子に腰を下したベテランが、海を見つめながらパイプをふかしたりしている。ヨットが次々に沖へ乗り出していくのは五月から、と言っていいだろう。  「ブルーに白」の文字を見て頷いた。色彩も夏になると一変するのだ。青い空と海。波頭は白い。クルーのシャツにもブルーや白が目立つ(と、私も書いてしまった)ようになる。青に白。ブルーにホワイト。何十年も前のマリーナを思い起こしながら、どちらもしっくりこない、と首を捻っている。(恂)

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夏めく日遂に二人か我がすみか      石丸 雅博

夏めく日遂に二人か我がすみか      石丸 雅博 『季のことば』  句を選んだ人が言った。「娘がお嫁に行っちゃって、ふと気づくと奥さんと二人になっていた。それが夏めいた日だったのですね」。作者は答えた。「大体そういうことです」。簡単に作ったね、と思った。私なら「春めく」「秋めく」など上五を変えてみて「季が動くかな」などと考えるだろう。  兼題「夏めく(夏兆す)」には、いかにも夏らしくなってきた、という句が多く詠まれた。「雲の色」「ワイシャツの袖」「木陰の風」・・・。逆に夏らしさとは無関係と見えて、じっくり鑑賞すると「なるほど」と感嘆するような句もあって、高点を獲得。俳句の本質ここにあり、という評も生まれてくる。  掲句はそのどちらでもない。我が家に自分と奥さんの二人だけ、と気付いたのが夏めいた日だったのだ。ところが句を見つめていると、作り物ではない現実感がじわじわと浮かんでくる。作者にとって「夏めく」は動かし難く、それだからこその季節感も生まれる。俳句とは不思議なものなのだ。(恂)

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葉の上の目二つ動き飛び上がり      後藤 尚弘

葉の上の目二つ動き飛び上がり      後藤 尚弘 『この一句』  合評会でこの句はもちろん問題になった。季語がない。すなわち兼題の青蛙(雨蛙)が、言葉として現れてこない。これはまずいのではないか、という疑問が呈せられたのは当然である。一方、分かればいい、面白い、という少数意見もあった。私(筆者)は、その中間といったところだろうか。  俳句という短詩は省略によって成り立っている、と言えよう。たった一つの単語や短いフレーズからさまざまな想像が生み出され、大きなロマンを思い描かせることもある。ただしこの句の場合、省略が最も重要な語にまで及んでいる。ユーモアが感じられ、面白いけれど、大賛成とも言い難い。  優れた点は、青蛙の特徴や生態を正しく捉えていることだ。皮膚の色が保護色であることも伝えている。是か非か、と考えているうちに、ナゾナゾが一つ浮かんできた。「葉っぱの上に目が二つ。突然、ぴょんと飛び上がった。これなぁに?」。作者は子供の心を持つ人なのだ、と思った。(恂)

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木漏れ日の揺れてまぶしげ青蛙      吉田 正義

木漏れ日の揺れてまぶしげ青蛙      吉田 正義 『合評会から』 久敬 青蛙のいる情景が、いろいろ詠まれているが、これが一番かな。木漏れ日が生きています。 雅博 そうですね。木漏れ日の中の青蛙は印象的だ。 基靖 とても分かり易い句だと思う。句に詠まれた様子が鮮やかに浮かんできた。 崇 美しい景ですね。青蛙のまぶしげもいい。 而云 青蛙はよく木の枝や葉に止まっているからね。そんな様子を上手く詠んでいる。 *            *         *       * 青蛙(雨蛙)は小型の蛙で体長は4堕?戞メスがやや大きいという。近年、都会近郊の公園などにはいると言われるが、めったに見かけない。周囲の緑色に紛れているのかも知れない。よく木に登り、葉に止まっていたりするので、「枝蛙」という別名もある。掲句はそんな様子を巧みに詠んでいると思う。 「青蛙おのれもペンキぬりたてか」(芥川龍之介)。この句を理解できない人が多くなったらしい。青蛙を見たことがない。それに塗料はすぐ乾き、「ペンキ塗り立て」の注意が不要になったからだという。(恂)

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