啓蟄や溢るる青春南口     大沢 反平

啓蟄や溢るる青春南口     大沢 反平 『合評会から』(酔吟会) 睦子 就活の子らが駅の出口からあふれ出て来る景が目に浮かびます。北口ではなくてやはり南口なんでしょうね。 双歩 北口だと四文字ですからね~ 鷹洋 これは新宿の南口ですよね。新しく出来たバスターミナル「バスタ」に若者が集まっています。 春陽子 新宿バスタは就活の為に深夜バスで来た人たちでごった返しているようですね。その様子を青春と詠んだのはいいと思います。           *       *       *  大胆に「南口」と詠んだのが大成功。全国各地に「南口」を持つ駅は数あれど、今や南口と言えば新宿が真っ先に浮かぶ。甲州街道に面し、巨大バスターミナルを擁し、JR東日本の本社、高島屋、紀伊國屋、東急ハンズの入る巨大ビル。さらには都庁のある西新宿方面、昔からの繁華街の伊勢丹方面へと、四通八達。新宿の顔は今や南口に移ったようだ。あちこちから春の虫のように人間がうじゃうじゃ湧いて来る。それも若者が圧倒的。まさに啓蟄。(水)

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目借時テレビを前に半跏思惟     前島 幻水

目借時テレビを前に半跏思惟     前島 幻水 『季のことば』  「目借時」という季語は「蛙の目借時」が正式なのだが、「かはづのめかりどき」ではこれだけで俳句十七音字のうちの九音を占めてしまうので、「目借時」と短縮形で用いることが多い。蛙が鳴き交わす春は、ことのほか眠気を催す季節だが、これは「蛙に目を借りられてしまうからなのだ」という俗説から来たと言われている。しかし、蛙がこの時期に何故人間の眼を必要とするのか説明が無いから、さっぱり訳が分からない。まあ、こんないい加減なところが俗諺たる所以で、昔の俳人たちはそれを面白がって季語に採用した。  さてこの句の「半跏思惟」だが、広隆寺の弥勒菩薩を挙げれば大概の人が「ああ」と頷く。右脚を曲げて左腿に乗せ、うつむき加減の顔に右手を添えるような姿勢で思索にふける姿である。座禅の姿勢の一つなのだが、これを「居眠り」としたところに俳諧味が生じた。  近ごろはテレビをつけっぱなしにしている家がかなり多い。いわゆる「ながら見」である。ずいぶん一生懸命に見ているなあ、と思ったら、なんだ舟を漕ぎ始めたじゃないか。とんだ弥勒さまだ。(水)

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花吹雪テントの中のピアニスト     堤 てる夫

花吹雪テントの中のピアニスト     堤 てる夫 『合評会から』(英尾先生墓参桜吟行) 三薬 国立市は花の期間中は大学通り周辺十カ所にテントの中で自由に弾けるピアノを置いた。飲めや歌えの伝統風景とは一味違う国立の花見。 白山 あの大学路の桜並木の花見は飲食OK。しかしみんな上品でした。特に透明のテントの中でピアノを弾いている花見にはびっくりしました。 二堂 テントの中で春の曲を演奏している。外では花吹雪が曲に合わせるように舞っている。花吹雪が見えるようだ。 命水 花吹雪や突然の雨からピアノや奏者を保護するためなのでしょうか、不思議な光景でした。           *       *       *  八王子霊園の墓参後、近くの森林科学園桜保存林、さらに国立へ出て大学通りの1.5キロほどの桜並木を吟行した。花吹雪の真っ最中。桜を見上げて口を開けたら花びらがわっと飛び込んで来た。桜樹の根方にはビニールテントが張られ、中でピアノ演奏。珍しくも優雅なお花見風景を詠み留めた。(水)

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坂めぐり草の芽息吹く麻布山    石丸 雅博

『おかめはちもく』 坂めぐり草の芽息吹く麻布山    石丸 雅博 『おかめはちもく』  作者は東京近辺の史跡めぐりが趣味のようで、大学の同窓生などを案内して歩くこともあるそうだ。この句もそんな時に詠んだのではないだろうか。所属する句会ではあたかも「草の芽」が兼題に出ていた。麻布ではどうか、と注意しながら歩くと案外あちこちに草の芽を見つけることが出来たのだ。  麻布は起伏に富んだ地域である。明治時代から台地は高級住宅地となり、低地は職人の住居や商家と住み分けが行われて、後に外国大使館が続々と作られていった。そんな土地のあの坂、この坂とめぐり歩いているうちに、一帯を「麻布山」とするイメージが生れたのだろうか。そこが問題だった。  麻布には空海の開いた名刹・善福寺がある。この寺号が「麻布山」なのだ。「麻布山」と呼んで善福寺を表すこともあるという。麻布一帯か、善福寺なのか。普通に解釈すれば麻布一帯のようだが、そうではない可能性もある。私は麻布という土地の様子を詠んだと見て、以下のように添削した。(恂)  添削例  坂めぐり麻布界隈草芽吹く

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嘘つきの恋人いとし朧月    藤野十三妹

嘘つきの恋人いとし朧月    藤野十三妹 『合評会から』(日経俳句会) 阿猿 恋人と嘘つきの結びつきが面白い、どんな嘘だったのでしょう。 博明 嘘つきの異性にはなぜか惹かれて、いとおしく感じられるようです。しかもこの句、最後に朧月をもってきて、この恋はこの後どうなるの、と思わせる。 昌魚 恋人の嘘はすぐ分かって、悔しい、憎らしいと思う反面、いとしいという感じ。分かりますね。 誰か 高石(昌魚)先生のコメントだけに驚いた。          *          *          *  欠席投句だった作者に対し、「打ち首とかギロチンとか、凄い俳句ばかり詠んでいたのに」「心境の変化でもあったのかな」など、さまざまな憶測が寄せられた。さらに「嘘つきの恋人という設定に一ひねりがある」「これは“物語の句”だろう」「現実にあり得ることだ」という具合に、合評会は盛り上がった。  ワグナー研究家で、バイロイト音楽祭には欠かさず出かけていく作者。おどろおどろしさこそ我が命、と見定める道もあるのではないか。この句、「“いとし”が甘すぎるなぁ」というのが個人的な感想である。(恂)

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お彼岸や祖母の名前はウメとタネ    谷川 水馬

お彼岸や祖母の名前はウメとタネ    谷川 水馬 『合評会から』 春陽子  これはウメとタネの発見ですね。僕の句だったらせいぜい、キンとギンあたりかな。 誰か マツとタケとか。(笑い) 反平 何といってもユーモラスなところがいい。うちのカミさんも「これが一番」と言っていた。 而云 孫は誰もお祖母さんが二人いるが、一人がウメ、もう一人がタネとは。お彼岸の親族の集まりに梅干しがあって「あっ、ウメだ」。食べたら「今度はタネだ」と大笑い。とても面白い。 博明 本当のことでしょうか。 水馬(作者) 本当の話ですよ。父方がウメ祖母ちゃん、母方がタネ祖母ちゃんです。         *         *         *  ユーモアは身の回りにたくさん散らばっているという。ところが目を皿にしても決して見つけることが出来ない。心にも体力にも余裕があり、受け入れ可能な時にふと頭に浮かんでくるようだ。ユーモアの原義は「湿気」「水分」「体液」。乾ききった精神や肉体からユーモアは生まれ来ないのである。(恂)

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なぜなぜと聞く子のつむじ春の宵   中島 阿猿

なぜなぜと聞く子のつむじ春の宵   中島 阿猿 『合評会から』 定利 つむじがポンと出てきて、面白い。ちょっとぼやけているのと春の宵が合っているような・・・。 ゆり 「なぜなぜ」と聞くのは利かん坊で、つむじ曲がりなのかな。うちの娘はつむじが三つですが。(笑い) 水馬 三歳くらいの男の子でしょうか。幼児はよく「なぜなぜ」って聞いてきますね。お母さんは上から見ていて、つむじがよく分かる。春らしい明るい句だと思います。 杉山 つむじなんて言葉、久々に聞いた。ともかく、つむじと春の宵、いい組み合わせだと思った。 水牛 面白い句ですね。私は小さい頃、「なぜなぜ」と聞くので母に「うるさいわね」って、よく言われた。 悌志郎 皆さんの話、句を鑑賞しているのだとしたら、よく分からない。理解し難い面がある。 大熊 お母さんが幼児の質問攻めに辟易した様子。春の宵との取り合せはリアルです。 阿猿(作者) ワーキングマザーですが、この時は子供と向き合えて、気持ちに余裕があったようです。       *         *         *  皆さんそれぞれの記憶が掲句に繋がっているらしい。それだけに想い出を語ることにもなった。(恂)

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公魚の看板さびし山の湖     杉山 三薬

公魚の看板さびし山の湖     杉山 三薬 「季のことば」  近年、どこの地域でも公魚(ワカサギ)は不漁だという。原因は湖ごとに異なり、さまざまに言われるが、テレビなどでは従前どおり「冬の風物詩」などと呼んで、氷上の穴釣りを紹介している。事情を知らなかった私はそのため、掲句は漁期が終った頃の寂しい風景を詠んだ、と誤解していた。  ところが作者によると、不漁のため釣り人が来ないのだという。「ワカサギ釣り」で知られる湖へ行っても閑散として、古びた看板ばかりが目立つそうだ。一方、句会の選句表には歳時記で調べ、テレビの“風物詩”を見ての、即ち私の句のような作品が並び、頭の中で描いた句が高点を占めていく。  この句は三人の方が選んだので、それなりの評価を得た。選者は公魚の不漁を知っていて、句を正しく評価されたのだろう。とは言え詠もうとする句の状況を正しく知ることはなかなか難しい。車の免許証を返し、動きの取れない者は、穴釣り人のように背を丸め、テレビを眺めているばかりである。(恂)

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鳥帰るスワンボートが池を占め     澤井 二堂

鳥帰るスワンボートが池を占め     澤井 二堂 『おかめはちもく』  あのスワンボートなる乗物の、なんとも不格好だがのほほんとした姿形がいい。春から晩秋の行楽地の湖沼の顔馴染みである。大人も子供も湖のある観光地にやって来ると、なんとなくこれに乗るものだというような気分で乗り、水上の一時をのんびりと過ごす。これぞ命の洗濯という風情である。  作者によると、これは上野不忍池だそうである。あそこにもスワンボートがあり、冬の間は囲いの中に係留されている。蓮が枯れて広くなった池は北方から渡って来た鴨の天国。日がな一日ガアガア、ギャアギャア実に騒々しい。  三月半ばから、鴨たちは次々に北へ向かって飛び立って行く。大体は冬の不忍池で伴侶を見つけており、北国に愛の巣を設けるべく連れ立って羽ばたく。こうして、空っぽになった不忍池のこれからの主役がスワンボートである。  とても面白く、感じの良い句だが、「鳥帰る」と切ってしまわずに、「鳥帰り」と一句一章につなげてしまう方がいいのではないかと思う。ダジャレ好きな作者が「取り替える」と言いたかったのは分からないでもないのだが。(水)

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公魚を公魚のまま揚げてをり     向井 ゆり

公魚を公魚のまま揚げてをり     向井 ゆり 『この一句』  とても面白い句だ。天麩羅にしてもフライにしても公魚はまさにこうなのである。公魚を公魚のまま揚げるとは、なんとも意表を衝いた詠み方だ。  稚鮎も豆鰺も姿のまま揚げるが、やはり公魚が、こう詠まれてみると一番よく似合うようだ。鯊(はぜ)も釣りたてを天麩羅にするが、小さいくせに骨が意外に硬いから、頭も取り去って開きにして揚げるのが普通だ。これに対して公魚は将軍への献上品ということから「公」の字がついたくらい上品な魚で、身も骨も柔らかい。下手に捌くとぐちゃぐちゃになってしまいかねない。というわけで公魚は必ず姿揚げということになったのではなかろうか。  公魚は霞ヶ浦、山中湖、諏訪湖、野尻湖、北海道・網走湖、陸奥小川原湖、宍道湖など全国各地の湖沼で取れる。大昔は海の魚で、鮎やシシャモ(これらと親類関係にある)と同じように産卵のために川や湖に遡上していたのが、いつの間にか淡水に棲み着くようになった。淡白な味で、釣り上げたらすぐに開いて刺身で食べるのが美味いのだが、湖沼の水質汚染であまりお奨めではない。やはり、衣をうっすら付けて「公魚のまま」揚げた天ぷらが一番旨い。(水)

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