友逝きて桜蘂降る風の道     流合 研士郎

友逝きて桜蘂降る風の道     流合 研士郎 『合評会から』(日経俳句会) 水馬 大虫さんへの追悼句。「風の道」が寂しさを表している。 昌魚 まったく同じ感想で「風の道」がいいですね。 双歩 「風の道」が常套句みたいな感じがするのだが・・。 庄一郎 風に揺られて桜蘂降る道を行くと、亡き友のことが甦る。まさに同感。 哲 風に降る桜蘂に託し、友との別れの悲しさが伝わってくる。 十三妹 大虫さんのことをしみじみ想う様子がよく現れている。           *       *       *  句会では「風の道」が良いと言う人が多かった。しかし、桜蘂は風には関係無くひっきりなしに降る。だからこそ、「ついこの間までの爛漫たる情景はどこに」という呆然とした気持を抱くのだ。わざわざ「風の道」を持ち出さなくても、と思った。しかし、それは理屈というもので、もっと素直に受け取るべきであった。風の吹き抜ける道こそ、桜蕊は一層激しく降るに違いないのだ。(水)

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めでたしで終る童話や柏餅     星川 水兎

めでたしで終る童話や柏餅      星川 水兎 『この一句』  この句を見てつくづく「懐かしいなあ」と思った。童話も昔噺も、最後は「めでたしめでたし」である。「桃太郎」でも「花咲爺さん」でも、「シンデレラ」など西洋ものでも、おしなべてハッピーエンドになっている。艱難辛苦の末に幸せがやって来なくては救いが無い。実際には苦労しても幸せになれるとは限らないのが現実世界なのだが、だからこそ誰しもこうしたハッピーエンドの物語を語り継いで慰めとして来たのだろう。  そういった教訓めいたことを詠んでは全く句にならないのだが、これは無駄な説明を一切省いて、「めでたしで終る」とあっさり言い切ったところが良かった。これで「そういえばそうよねえ」という読者の共感を呼べる。それに配するに「柏餅」というのが実にいい。  同じ夏の季語の水羊羹とか笹粽(ささちまき)、心太(ところてん)、茹小豆など、どれを持って来てももう一つしっくりしない。柏餅の姿形や味わい、雰囲気が童話世界とぴったりだ。そんな取り合わせの妙をも感じさせる。それになんと言っても柏餅は、桃太郎や金太郎が活躍する五月の節句の菓子である。(水)

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花冷えに居座る屋台の目黒川     池内 的中

花冷えに居座る屋台の目黒川     池内 的中 『おかめはちもく』  最近、テレビで活躍する俳句の先生が増えて来たのは実に喜ばしいが、「中八はダメ」と口癖のように言う方がいて、ちょっと気になっている。中八、つまり十七音の真ん中が八音の句は確かにリズムに緩みが出がちだが、全てが「悪」とは言い難い。中には許されるものもある、くらいに考えたい。  とは言え「中八」のこの句、やはり「中七」に直してあげた方がよさそうだ。理由の第一は「屋台の」の「の」が、どう考えても不要であること。さらに、上五も中八もすべて最後の「目黒川」にかかってくる言い回しも重く感じられよう。俳句はともかく、すっきりと詠み上げたいものである。  近年、桜の名所として名を上げてきた東京の目黒川。川沿い四キロに八百本のソメイヨシノが連なるが、花冷えの日は花見客が肩をすぼめて行き過ぎていくばかり。句は客の寄らない屋台の様子を「居座る」と詠んで同情を呼ぶが、調子がイマイチ。「花冷えに屋台居座る目黒川」くらいでどうだろう。(恂)

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瀞渡る風に遅れて花吹雪     玉田春陽子

瀞渡る風に遅れて花吹雪     玉田春陽子 『合評会から』 命水 「風に遅れて」という表現に魅かれました。実況中継を見ているようです。美しい情景ですね。 幻水 花吹雪の様子をよく観察していますねえ。感心します。 百子 状況がよく分かりませんが、雰囲気があるのでいただきました。瀞に風が吹いて、その後に花びらが瀞に舞ったのですよね。素晴らしい雰囲気の句だと思います。 而云 瀞(とろ)に風が渡っていく。最初の風に遅れて花吹雪が追いかけてくるのでしょう。 可升 風が吹いたと思ったら、花吹雪を運んで来た。瀞は長瀞か瀞八丁でしょうか。絵になる情景です。              *       *       *  「瀞(とろ)」は河川の流れの静かな場所で、多くは淵になっていて、その上を風が渡っていく。途中、桜が散っていれば、花びらも風に乗ってひらひらと後を追い出すのだが、空気の抵抗が多い分だけ、風よりも遅れてしまう・・・。散文ならこのような説明になるが、俳句は理屈などこねず、「風に遅れて」ですべて完了となる。人によって句の解釈に多少の違いが生じても、これまた俳句の味わいなのだろう。(恂)

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拝啓と書きて続かず目借時     須藤 光迷

拝啓と書きて続かず目借時     須藤 光迷 『季のことば』  「目借時」は「蛙(かわず)の目借時」の略。この季語については芭蕉の頃から諸説・異説が相次いでいた。季は「暮春」か「初夏」かの問題。「“目借時”だけの省略は不可」「長すぎる。省略はやむを得ない」。眠いのは「蛙が人の目を借りにくるから」「いや、人が蛙の丸い目を借りるのだ」などなど。  春の季語には「魚氷に上る」「獺魚を祭る」「鷹化して鳩となる」「龍天に登る」など中国の故事に由来する長い字数のものが多い。そんな中で「蛙の目借時」は日本生まれとされるが、本来の意味に「蛙の妻(め)狩時」と正反対の「蛙の妻離(めかり)時」がある、というのだからややこしい。 文章作成で適切な語を捻り出すのは、人間の難作業の一つだろう。「拝啓」と書き出してすぐに眠くなるのがその証拠である。掲句はまさしく人間の脳の実情を掲出していると思う。この文を書いていてただ一度だけ「目がパッチリ」とした。「蛙の雌雄が包接する現象」という説明に出会った時である。(恂)

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かげろへる線路を都電酔ふやうに   大倉悌志郎

かげろへる線路を都電酔ふやうに   大倉悌志郎 『合評会から』(日経俳句会) 反平 都電の走り方は、本当に酔っているように見えます。線路は普通の道より熱しやすいから陽炎がよく立つ。余計、ゆらゆらと見えるのですね。 三薬 そうですね。陽炎の中を走ると、都電のゆらゆら感が増します。 二堂 「酔うように」がいいですね。ただ都電が線路を走るのは当たり前、この点がどうかな。 青水 このような都電の動き、テレビの旅番組でよく見ます。それを「酔うように」と。感心しました。 阿猿 敢えて切字を使わずに詠んだことで、ゆらゆら感が増幅されています。 冷峰 都会の街並みを酔うように行く都電。いつか見たような光景が再現されている。 広上 陽炎の立ち上る中を都電がゆっくり走って行く様子が目に浮かびます。 十三妹 都電そのものが今やバーチャルランドのような感じ。まさに「酔うように」ですね。 悌志郎(作者) 都電・荒川線に乗り、あちこちへと。いま陽炎の中を走っているのだな、と・・・。 *        *        *  作者の話を聞くと都内探訪のプロかと思うほど。その見聞+機知から名句、佳句が生れてくる。(恂)

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花冷えの病棟静か母眠る    斉山 満智

花冷えの病棟静か母眠る    斉山 満智 『合評会から』(番町喜楽会) 百子 「病棟静か」によって「花冷え」の雰囲気がよく出ていると思いました。 木葉 「母眠る」ですが。「お母さんはまだ生きているのかな」などと、ちょっと心配になりました。 冷峰 僕もそう思います。この句だと「お母さんは逝っちゃった」のかなぁ、と心配です。 而云 そうですか。本当に亡くなったなら、こういう詠み方にはならないのでは、と思いますが。 光迷 「病棟」はいつも静かですね。特別に「静か」というからには・・・。私も不安になりました。 満智(作者) 母はまだ生きております(笑)。でも、いろいろ勉強になりました。有難うございます。           *          *         *  作者は母上の様子をごく普通に詠んだのだが、そのために誤解を生んでしまった。句の表現に難点があるとは思えない。一方、「亡くなった」と解釈する側が悪いとも言えない。誤解を生まないような表現は重要だが、それを意識しすぎると味わいが薄れてしまうだろう。ではどう変えるべきか。しばらく考えたが、名案は生まれてこなかった。十七音の短詩・俳句の表現とは何とも難しいものである。(恂)

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川沿ひにゆらり流るる花筏     山口 斗詩子

川沿ひにゆらり流るる花筏     山口 斗詩子 『おかめはちもく』  桜の花びらが散って、池の面や川面を帯のように毛氈のように覆う。それがゆっくりと流れる様は、まるで花の筏のようだと歌や俳句に詠まれるようになった。「花筏」とは実に美しく、いかにも春爛漫ののどけさを歌う季語である。この句もそうした雰囲気を素直にそのまま詠んでいて、好感を抱く。  しかし、上五の「川沿ひに」が何としても余分である。わざわざ「川沿ひに」流れて行くなどと言う必要はないのではないか。私も日ごろ「分かり易く」を心掛けて句作し、人にもそう勧めているせいで、ついつい説明し過ぎてしまう癖がある。しかし当然のことだが、余分な説明が入るとくどくなり、詩情を削いでしまう。  この句も「ゆらり流るる花筏」の口調はそのまま生かし、上五を少し離れた言葉にした方がいいようだ。「朝の陽に」でもいいし「昼休み」でもいいだろう。あるいは「喜寿の声」などとうんと飛んでもいい。「人の世や」と思い切って気取ったっていいのではないか。(水)

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受験生見送る母にVサイン     久保田 操

受験生見送る母にVサイン     久保田 操 『季のことば』  「受験」(入学試験)は「卒業」「入学」と並んで若者にとっての春の季語の三幅対である。当人は言うまでも無いが、それを抱えた両親兄弟にとっても気もそぞろになるビックイベント。オジイチャン、オバアチャンも可愛い孫の成功を祈るや切である。この句は入学試験当日朝の情景を見事に切り取っている。しかもまさに現代っ子の様子を活写した。  「頑張ってね」とか「しっかりね」などという言葉を言いすぎると、子供をますます緊張させてしまうからと、母親は言葉少なに送り出す。子供は十歩ほど行ったところで振り向き、笑みを拵えてVサインをしてみせる。なんの屈託も無く、あっけらかんとしているように見えるが、その実、子供の方もかなり緊張しているのだ。そんな母子の微妙な感じがうかがえる。  少子化時代とあって、私立中高校が潰れたり、「大学全入時代」などと言われるようになったが、そうなればなったで学校、大学ごとの格付けがやかましくなる。人気上位の学校に入りたい、入れたいと願うのが人情だから、「受験」のはらはらはいつまでたっても無くならない。(水)

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春の浜少し動いた砂模様     植村 博明

春の浜少し動いた砂模様      植村 博明 『この一句』  最初に見た時、この句は「春の浜」でなくとも、夏、秋、冬どれをつけても成立するのではないかと思った。  しかし、それは評者の早とちり。何回か読み返しているうちに、やはりこれは「春の浜」がいいなと思うようになった。四季それぞれ海辺の砂は風によって動き、さまざまな模様を描く。だから何も春には限らないと思ったのだが、日々風向きが変わる春こそ、「砂模様」の百面相を眺めるにふさわしい季節に違いない。  春風と聞けば「そよそよ」と形容される優しい風を真っ先に思い浮かべるが、「春一番」という南風や貝殻を吹き寄せる西風など、小型台風並みの強風が吹くこともしばしばある。強風の吹き荒れた翌朝は砂山が移動していることもある。  この句の風はさてどの程度の風だったのか。砂模様が「少し動いた」ということからすると、さほど強いものではなかったのだろう。のんびり散歩できるくらいのような感じがする。とにかく観察が行き届いていることと、素晴らしい言語表現に感服した。(水)

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