春光や挨拶交はす犬どうし     高橋 ヺブラダ

春光や挨拶交はす犬どうし     高橋 ヲブラダ 『季のことば』  「春光」という季語は字面通り春の日差しを言うのだが、やわらかな春の太陽に照らされて浮かび上がる春景色をも表している。さらにはそれにつれて漂う、のんびりした気分をも含むという説もある。この「気分」は厳密には春光という季語に備わるものとまでは言えないのだが、春光を据えて句を詠んだ時に自ずからそういう感じが湧き出して来るのである。そこからすると、この句はまさに春光という季語の働きを十二分に生かしたと言えそうだ。  「春光」と置いて、冬とは違った周囲の景色をうたう句が多い。それも悪くはないのだが、どうしてもどこかで見たような句になりがちである。しかしこの句は犬同士が鼻をくっつけ合ってふんふん嗅いだりしているところを詠んで、春光の雰囲気を醸し出した。  「『犬どうし』という言葉を用いたところが新鮮だ」(庄一郎)、「犬を連れた人間同士が話をしている情景が春めいてきた感じで、いいですね」(昌魚)、「人間も喜んでいる景なんですね」(綾子)と、合評会では飼い主を引っくるめての春を喜ぶ風情の句として称揚する声が多かった。ユニークな春光句。(水)

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春光やもう子分持つ四歳児     今泉 而云

春光やもう子分持つ四歳児     今泉 而云 『合評会から』(日経俳句会) 阿猿 「春」は成長ということを思う。四歳児が早くもお供を従えている様子と、ずいぶん大きくなったなという感じがよく合う。 木葉 四歳児でも上下関係が出来るんですね。面白い。 てる夫 年中組、集団生活に溶け込んでいる年頃なんで、けっこう生意気。 睦子 自我がはっきり芽生えてくる時と、春光のキラキラ感が相まって微笑ましく可愛い。 三薬 げに恐ろしきは人間の権力欲。そんな観察力も感じられます。 万歩 家にこもりがちだった子どもが春になって外に飛び出すと、もういっぱしのガキ大将になっている。春光と成長の早さがうまく重なっている。           *       *       *  我が家のすぐ下に公園があり、近所の幼稚園、保育園の保母さんが子供たちを引き連れて遊ばせている。確かにこういう子がいてあれこれ指図したりしている。この句はそういう子どもたちの様子を「もう子分持つ」と言って、生き生きと描き出した。(水)

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新弟子の全身春の光あり      野田 冷峰

新弟子の全身春の光あり      野田 冷峰 『おかめはちもく』  始めて裸の力士を見た時、人は何に最も驚くのか。肌の色つやだろう、と私は思う。男でもそう話す人が多いのだが、特に女性の場合、お相撲さんの肌はこんなに美しいものか、と目を丸くするらしい。近年の相撲人気は若い女性ファンの増加によっているのも、むべなるかな、である。  ジョージア出身の栃ノ心が渾身の力で相手を引き付けると、真っ白な肌が一気にピンク色に染まっていく。これも見ものだが、それに勝るとも劣らないのが、稽古を終えたばかりの若手力士の肌の色だ。大きな息をつきながら表に出てきた時は、まさに流汗淋漓。朝日を浴びた肌を想像して頂きたい。  作者はそんな場面を見たのだろう。「全身春の光りあり」は見事な詠み方だと思うが、客観的描写である点が惜しい。新弟子の全身を見た瞬間の驚き、感激を句に少々加味して頂きたい、と思うのだ。難しいことではない。最後の「あり」の代わりに常用の切字を置いてみたらどうだろう。  添削例  新弟子の全身春の光かな      (恂)

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椀の底病棟食の若布かな      大熊 万歩

椀の底病棟食の若布かな      大熊 万歩 『この一句』  最近、一週間ほど入院生活を送っただけに「椀の底の若布」に感じるところが多い。「食事は全部食べましたか」「薬はきちんと飲んでいますね」。看護師は患者一人一人にここまで気を配るのか、としみじみ思わされた。もちろんルーティンワークなのだが、食べ物はうかつに残せない。  点滴が外され、一人で歩けるようになると、配膳車から自分で食器のプレートを取り、病室まで運んで食べることになる。食器を返す時、看護師とすれ違うと、「食べ残し、見つかったか」と肩をすくめてしまう。椀の底の若布の切れ端を気にする作者の気持ち、「まことに同感」である。  合評会で「床頭台(ベット脇の台、テーブル)までの多くの人の労苦を思う」(好夫)というコメントがあった。今は神楽坂でクリニックを開業されているが、かつて病院の院長を務めた人の言。粛然たる気持ちになった。以来、「病院のメシ? 美味いはずが・・・」なんて言葉は謹んでいる。(恂)

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