春光や舟道残す片瀬浜     鈴木 好夫

春光や舟道残す片瀬浜     鈴木 好夫 『この一句』  川の中や遠浅の海岸には、舟を通すために水路を穿った所がある。これを「舟道(ふなみち)」という。海岸や川岸にこしらえた船着場で客を乗せた通船や荷を積んだ艀は、この舟道を通って、沖がかりした本船に客や荷を運ぶのだ。  遠い昔、鎌倉幕府が置かれた時代には材木座・由比ヶ浜からこの江の島近くの片瀬海岸まで、各所に波打ち際から沖合まで舟道が掘られ、時にはもっと大規模に浚渫した船だまりが築かれた。そこには近在の小舟だけではなく、遠くは中国大陸や朝鮮半島からの船まで迎え入れていた。  三代将軍源実朝は宋との交易を盛んにするために此処で大船を建造しようと計ったが、遠浅で大規模な舟道をつくることが出来ずに断念したという話が伝わっている。この句の片瀬浜の舟道はそうした昔のものの断片なのだろうか。あるいはヨットやモーターボートのレジャー用船着場として、現代になって作られた舟道かも知れない。それはとにかく、この句には春の気分がよく表れていると同時に、遥かな歴史ロマンにまで思いが広がってゆく、悠々然とした感じがある。(水)

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引っ越す日庭の水仙咲き始む    竹居 照芳

引っ越す日庭の水仙咲き始む    竹居 照芳 『おかめはちもく』  新年度を控えて転勤のシーズンである。内示を受けた人はあたふたと引っ越しの準備をし、明日は馴染んでいた我が家から去っていかなければならない。春先に芽を出した水仙がどんどん葉を伸ばし、つぼみがそろそろ開きそうだ。さて、その翌日、家族が身支度をして、いよいよ、という時に・・・  ふと庭を眺めたら、水仙が開き始めていた。「咲いたよ、咲いたよ」と子供や奥さんが喜びの声を挙げている。この家に住んで五年、毎年、この時期になると水仙は律義に花を開いてくれた。これが見納めになりそうだが、家族の引っ越しに間に合うように一生懸命咲いてくれたようでもある。  じーんとくるような場面を詠んでいるが、気になる点がある。水仙が「庭」に咲く、と言わなくてもよさそうだ。「引っ越しの日に水仙の咲き始む」で状況は十分に理解できるのではないか。俳句は省略の文芸だという。省略してもきちんと解釈できるなら、その方がいいことになる。(恂)

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嫁ぐ日を控えて朝の若布汁   向井 ゆり

嫁ぐ日を控えて朝の若布汁   向井 ゆり 『この一句』  この句は二つの場合が考えられよう。結婚式の近づいた日、娘が「朝のお味噌汁、若布にしてね」と母上にお願いする。母の若布汁を味わっておきたかったのだ。もう一つは母が娘の作る若布汁の味を確かめておこうと考えたケース。ともに我が家の味を新婚家庭へ、の思いからである。  私にとって、どちらの場合も好ましい。料理など家事のもろもろは、女系とするのがいい、と考えているからだ。旧家に嫁入りして、という場合もあるだろうが、普通の家庭なら家事は奥さんに任せる方が絶対にうまくいく。なぜか、と問う必要はない。男性に任せたらどうなるか、考えれば明らかだ。  「若布」は句会の兼題であった。最も身近な食材だけに、詠まれた状況は実に多彩だった。茹で挙げた際の翡翠色、酢若布や若布サラダの味、病棟食の汁椀の底に、というのもあった。そしてこの句。娘の結婚や女系の家事までへと、海底の若布が立ち上がるように、考えが膨らんで行くのであった。(恂)

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風光る鯉と分け合ふパンの耳     横井 定利

風光る鯉と分け合ふパンの耳     横井 定利 『合評会から』(日経俳句会) 阿猿 氷が融けて、冬の間隠れていた鯉が出てきたので、パンの耳でもあげようかなというところでしょう。春の嬉しい気持ちが「風光る」の季語とともに詠まれています。 庄一郎 「パンの耳」が上手い。自分が食べた切れ端を鯉にやったのですね。 ヲブラダ なんとものんびりした気分になる句ですね。パンをちぎる所在なさげな仕草が目に浮かびます。 正市 季語が動くかも知れないが、浅春の感じがよく出ていますね。 *         *          *  パンは、耳を切り落としていないサンドイッチだろう。柔らかくて白い部分は食べ、硬めの端が残っている。句の主人公はここで眼前の池を眺めて「さて」と考えた。鯉が群れていた。残っていたパンの耳の半分ほど「分けてやろう」と池の鯉に投げたが、残りは自分がもぐもぐと食べてしまった。句の意味はそういうことになる。  こう解釈し「笑われるかな」と思った。しかし「耳も食べるの?」と問われたら、私は「そうだ」と胸を張りたい。敗戦後の食糧難の頃、耳も御馳走だった。ようやく鯉と分け合う時代になったのだ、と。(恂)

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草の芽の土手で仰ぐや大飛球    中村 哲

草の芽の土手で仰ぐや大飛球    中村 哲 『この一句』  河川敷の野球場である。東京近辺なら多摩川、荒川、江戸川などの土手に腰を下し、草野球を見下ろす、という構図になるだろう。特定のチームを応援する人はグラウンドの傍に座を占めるが、ぶらりとやって来た“土手席”の人々は勝ち負けにこだわらず、のんびりとプレーを眺めている。  この句では何はさて措き「大飛球」に注目したい。この一語によって、選手の動きや土手の上で戦況を見守る人たちの様子が、鮮やかに浮かんでくるはずだ。「草野球」などの語は使わずとも、広々とした河川敷の野球が目の前に現れる。まさに「省略の効いた句」と言うべきだろう。  三、四十年も前、どこかの句会で選んだ一句を突然、思い出した。「摘み草の手を止めて見る草野球」である。さらにこの「草野球」という語は、掲句に倣って「大飛球」に替えてみたい、とも考えた。作者や句会のことは、全く思い出せないのに・・・。俳句とはこういうものなのだろう。(恂)

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草の芽や戛々とゆくハイヒール   大澤 水牛

草の芽や戛々とゆくハイヒール   大澤 水牛 『この一句』  作者の投句の中で、掲句より高点の「草の芽」の句が他に二句もあった。しかし私は選句表の中から最初にこの句に目を止め、「これは逃せない」と◎印を付けている。「戛々」(かつかつ)という、道を歩いて行く女性の靴音が耳に響いてきたのだ。当欄に載せよう、と最初から決めていた。  句の描く世界は、私の住む東京都中野区あたりでよく見かける状況で、加えて朝によく聞く「音」でもあった。晴れた日なら私はその後、外へ出る。草の芽を見つけるのは、塀の際かアスファルトの割れ目と相場が決まっている。「草の芽」を詠むなら、まずその辺りからの発想になってしまうのだ。  辞典によると「戛々」は「物と物が相撃ち合う音」だという。句の場合は、最寄りの駅に急ぐ出勤女性の靴音である。女性は草の芽に目もくれないのか。いや、視野の端には萌え出た緑色が映っているに違いない。「あら、去年と同じ場所に同じ雑草の芽が」。足取りが変わることはない。(恂)

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春光やシャンパン注ぐ神楽坂     流合 研士郎

春光やシャンパン注ぐ神楽坂     流合 研士郎 『おかめはちもく』  神楽坂には不思議な雰囲気がある。JR飯田橋駅を出て外堀通りから牛込に上る坂道で、江戸時代から大いに賑わった。山手でありながら下町的な庶民的な味わいのある町である。外堀通りを背に坂の右側一帯が大正から昭和にかけて全盛を誇った神楽坂花街の跡で、入り組んだ路地がそこはかとなく色気を残している。  今では神楽坂も小さなマンションや住宅のひしめき合う町になってしまったが、その中に洒落たレストランや小料理屋がごく自然にしっぽりと溶け込んでいる。そうした一軒で作者は親しい人とシャンパンを酌み交わしていると見える。思わず飛び出しそうになる「このヤロー」などという下品な言葉をぐっと抑えて、冷静にこの句を吟味する。  神楽坂とシャンパンとの取り合わせはなかなか面白い。昔から日仏学院はじめ神楽坂とフランスの相性は良い。洒落た感じがする。しかし、「注ぐ」が散文的で良くない。「神楽坂はシャンパンもいいですよ」と言うのであれば、「春光やシャンパン似合ふ神楽坂」と言い切った方がすっきりする。(水)

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春光る根元の雪を消しながら     高瀬 大虫

春光る根元の雪を消しながら     高瀬 大虫 『季のことば』  この句は「春光」という春の季語に「雪」を重ねている。型にはまった考え方の旧弊な結社だと、「季重なり」の一言で捨てられてしまうかも知れない。しかし、こういう景色は春まだ浅い庭先などによく見られる。夜の内に降り積もった雪が、うらうらとまばゆい陽の光りに照らされて溶けてゆく。真っ先に溶け始めるのが木や草の根元である。木肌や草の根元は熱をよく吸収して温かいのだろう。観察のよく行き届いた句である。  このように自然界には歳時記で春夏秋冬に分別された季語があれこれ入り混ざることがしばしばある。「季重なりはダメ」と、そういうものを一切詠めなくしてしまうと、俳句はずいぶん窮屈なものになってしまう。  一方、季語というものは大勢の俳人が代々用いて行くうちに、いろいろな意味合いが付与され、独特の「詩語」に育った特殊な言葉である。だから、そうした存在感のある詩語が二つ同居すると、句がばらばらになってしまう危険がある。それで「季重なり」が嫌われるようになったのだ。そんなことを念頭に、「季重なり」を承知の上で詠めば、こうした感性豊かな句も生まれる。(水)

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み仏の千の手妖し春燈下     徳永 木葉

み仏の千の手妖し春燈下     徳永 木葉 『合評会から』(日経俳句会) 臣弘 「おいでおいで」と見る人を誘っているような、春灯の下の妖しげな感じ。 哲 弱い光で千手観音の手が揺らめいているのを「妖し」と言って春の情景を伝えている。 十三妹 千手観音、不気味じゃないですか。そうかと言って慈悲深い。春燈下に妖しさと気高さが一体となっているのが素敵。 大虫 手が何本もあるとそれだけでも妖しいが、持っている物も妖しげ。「春燈下」は「春灯し」がいいかなとも思ったが、春の妖しさを表現していい。 而云 春灯が効いていて、いかにも妖しい。「み仏の千手妖しき春燈下」とやった方がいいかなとも思ったが。 万歩 「春燈」の季語の力で、仏像の持つ官能的な側面が上手に表現されている。           *       *       *  灯明にぼんやり浮かぶ千の手を見ていると、動き出すような気がして来る。作者によると駅に張ってあった仁和寺展のポスターを見て詠んだということだが、すごい腕前だ。幻想世界に引き込まれる感じで、とてもうまい。(水)

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脇道がおいでおいでと春の色     星川 水兎

脇道がおいでおいでと春の色   星川 水兎 『合評会から』(日経俳句会) 木葉 毎日散歩する道に小さな脇道があって、そこには花が咲きかかっているのか、芽吹いているのか、「来てみなさいよ」と誘っている。情感があっていいなと。 青水 春の日を浴び、その冷たさや爽やかさの心地よさをどう表すか。誰もが悩むところだが、「脇道」を発見して無理なく口語調に擬人化した名作。 万歩 春めいてきてなんとなく気持ちの浮き立つ日。そんなそぞろ歩きの雰囲気がよく出ている。 三薬 そう、春は放浪心をくすぐるんですよね。呑み助なら居酒屋を見つけてふらり。私なら偏屈そうなオヤジの店でラーメンと餃子かな。           *       *       *  春らしくなって来ると、なんとなく気分が浮き立ち、散歩もいつものコースではなく回り道をしてみたりする。そういう感じを実にうまく詠んだものだ。擬人法というものは、得てして技巧が見え透き、わざとらしい感じになったりするのだが、この句はそんなことはない。いかにも「脇道」がいつになく目を引いて、誘うような風情なのだ。これも春の為せる業なのであろう。(水)

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