日脚伸ぶ千歩加へしウォーキング  前島 幻水

日脚伸ぶ千歩加へしウォーキング  前島 幻水  『季のことば』  前欄に続いて「日脚伸ぶ」について、ヤブ睨み的な季語論を書かせて頂く。歳時記などでこの季語の作例を見ると、春の雰囲気を持つ作品が並んでいる。そのためは春の季語だったか、と勘違いしそうになったが、実は冬の季語であった。冬至から節分まで。これが「日脚伸ぶ」の時期なのだ。  一方、歳時記では「日脚の伸びを実感できるのは立春過ぎから」などと説明している。これ、矛盾ではないだろうか。冬の季語であれば、畳の目一つずつ伸びる、という、非常に微妙な冬の間の日差しの変化が句の対象にならなければならない。そんな難しい季節感を詠む、ということである。  ところが俳句作品はずっと大らかに詠まれていく。前欄、そして本欄の句を例に挙げてよさそうだ。私は二つの句ともに「日脚伸ぶに相応しい感じのいい句だ」と思った。その後に「冬の季語だった」と気付き、考え込んでしまった。日脚伸ぶはいっそ、春の季語と決めたらどうだろう。(恂)

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父と子の背の並びたり日脚伸ぶ   野田 冷峰

父と子の背の並びたり日脚伸ぶ   野田 冷峰 『季のことば』  「日脚伸ぶ」は冬至が過ぎた後の季語だが、そのことを実感するのは二月の立春を過ぎた頃からではないだろうか。最近は毎朝、同じ頃に起床すると、二、三日前より間違いなく朝が早くなっていて、なるほど日が伸びている、と納得する。季節の進行とはこのようなものだろう。  さてこの句、子供の背丈は日ごとに伸びていくのだが、父親の身長はもはや伸びる可能性がない。親は次第に子に追い付かれ、やがて抜き去られることにもなるが、その事実と季節は全く関係がない。しかし親子の背丈と「日脚伸ぶ」に何の関係があるのか、と作者に絡むのは筋違いである。  俳句は感覚や気分を詠むもので、理屈を主張するものではない。日脚が伸びる頃、父子の背丈のことに気付いた、という季節感に、読み手がどう反応するかどうかなのだ。私にはフィーリングの合う句であった。その一方で「日脚伸ぶ」は春、冬どちらの季語だったかな、と考えていた。(恂)

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公園のいつもの場所にクロッカス  田中 白山

公園のいつもの場所にクロッカス  田中 白山 『季のことば』  敗戦からしばらくたった頃、東京の住宅地では小さな庭に草花の球根を植えるようになった。一度、植えれば何年も咲いてくれる、という経済性によるものだろう。我が家の近辺では、和洋の水仙が多かったが、“洋館”が一部屋あるような、少し裕福な家ではクロッカスを咲かせていた。  ブロック塀が全盛を極める前の頃である。子供らは垣根を透かして人の家の庭を覗き、クロッカスがあれば「金持ちだ」などと噂し合ったものだ。毎年、見ていると庭の変化も分かった。ある家ではクロッカスが勢力圏を広げ、例えば枯芝の中に黄色や白の花を点々と咲かせていた。  掲句を見て「そう、そう。いつもの場所だ」と同感した。その一方で、植えたままにしておくと、別の場所に移動して行くのではないか、とも思った。近年は公園や幼稚園でクロッカス見たことがあるが、一般家庭ではどうだろう。ブロック塀の内側は、覗こうにも覗くことが出来ない。(恂)

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縄文も弥生も丈余の雪の下  大沢 反平

縄文も弥生も丈余の雪の下  大沢 反平 『季のことば』  秋田県鹿角市に「大湯環状列石」という約四千年前、縄文時代の遺跡がある。草地に大小さまざまの石を並べた二重ドーナツ型の列石が二つあって、大きい方が直径四十八辰曚鼻青森・三内丸山遺跡あたりにいた縄文人が次々に南下し、このあたりに住み付いた人たちが作ったと考えられている。  縄文人はなぜ、南へ移動してきたのか。約千年間にわたって寒冷化が続いていた。気温は二、三度低下、冬の寒さは次第に厳しくなってくる。三内丸山の頃のような活発な経済活動はもはや望めない。小人数の集落に分散、雪が積もる頃になると、あまり活動せず、質素に暮らしていたようである。  彼らは活動期になると七舛睥イ譴寝聾兇ら石を運び、環状列石を作り、墓地とした。その滑らかな柱状の石は、水に濡れると緑色を発するという。「なぜ緑色の石を?」。私の問いに現地の研究者はこう答えた。「若草への憧れでしょう」。掲句を読んだとたん、あの環状列石を思い出した。(恂)

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雪をかく「よく降りましたね」と笑み交し     須藤 光迷

雪をかく「よく降りましたね」と笑み交し     須藤 光迷 『おかめはちもく』  1月22日と2月1日、東京近辺に雪が降った。特に1月22日は都心でも10数センチ積もり、雪に弱い首都圏のJRは大混乱を来した。北国の人たちからは憫笑を買うような雪だが、ひ弱な都会人には「よく降ったもんだなあ」となる。この句は翌朝の東京の時ならぬ雪掻き情景を軽妙に詠んで、中々いい。  ただ、カギカッコがどうしても気になる。現代俳句は「読む」鑑賞の仕方が盛んになったせいか、近ごろカギカッコ俳句がよく出て来るようになった。しかし、元々俳句というものは句会に出て、「読み上げ、聞く」文芸である。「雪をかく、カギカッコ、よく降りましたね、カギカッコ閉じ、と笑み交わし」では、シラケてしまうだろう。カギカッコなどを使わずに、話し言葉であることを分からせる工夫が大切だ。話し言葉をそのまま句に仕立てた傑作に、正岡子規の『毎年よ彼岸の入に寒いのは』がある。彼岸だというのにずいぶん寒いと子規がこぼしたら、母親がこう言ったのを聞いて、そのまま句にしたのだという。  掲出句も、「雪掻きや降りましたねえと笑み交す」で良いのではないか。「を」などという余計な助詞が省かれて、口調もずっと良くなる。(水)

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山小屋の夕餉に響く遠雪崩     池内 的中

山小屋の夕餉に響く遠雪崩     池内 的中 『この一句』  「雪崩の音を聞いた事がないから想像するしかないが、これは怖い体験でしょうねえ。不気味なところがよく出ている」(てる夫)、「実体験に裏打ちされた句ならではの強さがある」(綾子)、「最近、本白根山の事故があったりしたのでタイムリーな句」(木葉)など、句会では珍しい体験を詠んだところに賛辞を送る句評が多かった。  「夕餉」と言っても山小屋のことだから豚汁に握り飯くらいのところだろうが、雪の山道を必死に歩いてようやく日暮れ方に山小屋に辿り着き、夕飯にありついた。人心地がついた頃合い、地鳴りと共に雪崩の音が響いた。もしかしたら数時間前に通過した場所ではないか。思わずどきっとした。  作者によると学生時代の体験で、山小屋の夕飯は粗末なライスカレーだったが、実に美味かったという。私は本格的な冬山登山の経験が無いが、高校時代、丹沢の雪中登山で迷ったことがあり、その時の怖さを今でも思い出す。この句はもっと本格的な冬山登山のようだ。臨場感と安堵の気分がよく出ている。(水)

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クロッカス試しに背負うランドセル     塩田 命水

クロッカス試しに背負うランドセル     塩田 命水 『合評会から』(番町喜楽会) 百子 春が待ちきれない子供の姿がよく表されています。これはジジが作った句なのか、ババが作った句なのか、などと思いながらいただきました。 木葉 これから伸びる子供とクロッカスのイメージがよく合っています。 哲 春先に咲くクロッカスと入学を待ち望む子供の気持ちがよく合っています。 大虫 注文したランドセルがクロッカスの開花とともに届いた。 双歩 「ランドセル」は句の中で使いやすい言葉ですが、こんな句を詠まれたらこれから使いにくくなるなあ(笑)。           *       *       *  作者の話では、気に入りのカバン屋に頼んでいたのがやっと孫の家に届いて、背負っている姿がフェイスタイムで送られてきたのだという。お孫さんはいよいよ一年生。大喜びでぴかぴかのランドセルを背負ったり下ろしたり。入学式が待ち遠しくてしょうがない。その動画に相好を崩している幸福そうなオジイチャンの顔も浮かんで来る。気持の良い「孫俳句」だ。(水)

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熱燗にゆるゆる溶ける癇の虫     齊山 満智

熱燗にゆるゆる溶ける癇の虫     齊山 満智 『季のことば』  「熱燗」は真冬の呑兵衛には抗し難い吸引力を持つ言葉である。熱燗と聞けば少々の義理を欠くくらい何でもないといった気分になる。この句はそういう熱燗の本意を実にうまく詠んでいる。熱燗が喉元を通り過ぎて、はらわたに落ちて行く、納まるところにおさまると、ふうっと一息つくのだ。  この句はよほどの呑兵衛の句に違いないと踏んでいたら、なんと女の人の句だと分かってびっくりした。いつだったか、歳時記で見たのか俳誌で読んだのか記憶が定かでは無いが「熱燗やわが腹わたのありどころ」という句を見て、ああ熱燗を実にうまく詠んだものよと思ったら、これも女性の句と知って驚いたことがある。近ごろは本当に酒を味わって飲む女性が増えてきたのだなあと思う。  ただ、「癇の虫」の第一義は乳幼児の原因不明の引き付けのことなので、「癪の種」の方がいいかななどと思っていた。しかし、それが大人にも使われるようになり、腹が立つことを言うようになったことを考えれば、「癇の虫は・・」などと小理屈を並べることは無かったのだ。番町喜楽会で圧倒的に支持されたのもむべなるかなの句である。(水)

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三が日客なき家の赤絵皿     河村 有弘

三が日客なき家の赤絵皿     河村 有弘 『この一句』  年始の客というものは、来てくれれば賑やかになって嬉しいが、あまり大賑わいとなるのも疲れる。と言って、誰一人現れないというのは実に寂しい。ほどほどがいいのだが、そうはこちらが願うようにはいかない。  現役を退いてからの一、二年は元の会社の後輩などが訪ねて来るが、三年、四年とたつうちに閑古鳥が啼く。子供たちも独立して一家を成しているから、結局の所、赤絵の大皿など飾っても蘊蓄を語る相手も無く、老夫婦二人だけの靜かなお正月ということになる。  そういう閑雅な状態を可しとするか、寂しくてたまらないと感じるかは、当人の心持ち次第である。どちらが良いと決められるものではないし、決める必要もない。靜かな三が日を悠悠と過ごしたいのなら、むしろ誰も来ない方が良くて、ひとり床の間の赤絵皿と対峙するのが良かろう。ぱっと賑やかにと望むなら、名品の赤絵皿に山海の珍味佳肴を盛って人寄せしなければなるまい。この句は「赤絵皿」を据えて、いろいろな味を味合わせてくれる面白い句である。  なんで今頃、三が日の句かという声もあろうが、届いて間もない三四郎句会報で目に付いた佳句なのだ。それに、旧暦では今日はまだ十二月二十日、新年が来る前に春になる「年内立春」。旧正月はまだ十日先である。(水)

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この時を選ぶ不思議や寒桜     星川 水兎

この時を選ぶ不思議や寒桜     星川 水兎 『合評会から』(日経俳句会) 而云 言われてみると確かにそうだなあと思う。なんでこんな時期に咲くのだろうと。 哲 寒桜を見つけた感動、それを不思議という言葉でうまく言い表わした。 綾子 冬桜を見ると、作者と同じことを思います。 青水 しっかりと実景が見えてくる。季語が生きている。 双歩 桜は時期を選んだわけではないので、その辺がひっかかった。 冷峰 植物の開花は全て自然の摂理の中で行われている。取り上げれば全てが不思議な事で、なにも寒桜に限ったことではないのではないか。 而云 春ならいいのに、なんでこんな寒い時にと思ったのだろう。           *       *       *  桜は葉桜になるともう翌年の花芽を育て始める。ときどき早く咲いて帰り花になってしまう。帰り花ばかり咲かせるヒガンザクラの一種が突然変異で固定してしまったのが寒桜だ。俳句では桜は春の花の王者と決まっている。それが寒中に咲く「不思議」を素直に詠んだ。(水)

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