ジーパンの二本干されて冬の空     中村 哲

ジーパンの二本干されて冬の空     中村 哲    『合評会から』(番町喜楽会) 幻水 マンションで時々見る光景です。子供がいなくて共働きのご夫婦でしょうか。 正裕 今年は寒いので、時事句として頂きました。暖かいパンツに履き替え、ジーパンを干している景でしょう。 二堂 冬空にジーパンが二本翻っている。夫婦の二本か、子供の二本か。ジーパンがなぜか寒々と感じます。 哲(作者) 近所のアパートの手すりに干してありましてね。本当は綿パンだったのですが、ジーパンの方が句として合いそうな気がしまして。           *        *  作者の言葉を聞いて「なんだ、そうなの」とがっかりした人がいたのではないか。まずジーパンではなかった。手すりに干されていたら、冬空に翻ることはない。読み手の描いた風景はあっけなく消えていく。  芭蕉や蕪村の頃は、句の全てがフィクションと言えるほどだったが、現代の句会はどうか。景色を詠めば「それ何処?」、幼児のことなら「お孫さん?」と問われてしまう。想像力を大きく羽搏かせるべき俳句という文芸が、ドキュメントになっていきそうだ。作者のコメントは“事実第一主義”への警告と捉えたい。(恂)

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のどぐろや濁音優し加賀言葉      大澤 水牛

のどぐろや濁音優し加賀言葉      大澤 水牛 『合評会から』(逆回り奥の細道拾遺・金沢吟行) 哲 「濁音やさし」の言葉から、心のこもった宿のもてなしが思い出される。 而云 宴会で急きょ「のどぐろ」を季語と認定したのだが、濁音に着目、何とも巧みな句に仕上げた。 双歩 加賀言葉の特徴が濁音にあるのかどうか。ともかく雰囲気の出ている句だ。 *         *         *  旅館の宴会に「のどぐろ」の焼き物が出た時、「おー」という声が湧き上がった。街の店なら一尾いくら、と値踏みしたくなる高級魚。「のどぐろは季語か」「季語ではないが、冬の季語と認定したい」。たちまち起こる「賛成」「賛成」の声。という訳で、この句が登場した。出来栄えは合評会の通りである。  「のどぐろ」は赤い色の美しい魚だが、喉の奥が黒いので日本海側ではそう呼ばれる。太平洋側での魚名は「アカムツ」という。伊豆方面でこの魚を何度か釣り上げた者として、関東でも「のどぐろ」と呼ばれ出したことが気に入らない。この濁音入りの野暮な名が、どうして日本中を席巻していくのだろうか。優しい加賀言葉に「のどぐろ」は何とも不似合いだ。私は句からそんな意味を勝手に汲み取った。(恂)

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しとど打つ加賀の甍や冬の雨     廣田 可升

しとど打つ加賀の甍や冬の雨     廣田 可升 『おかめはちもく』  金沢の寺や古い民家の屋根瓦は黒くてつやつや光っている。これは「能登瓦」という、黒い釉薬が掛けてある石川県の特産品である。釉薬によって表面がすべすべして艶がある。耐寒性があり、雪に強い特性を備えているので、能登地方だけでなく、隣の金沢をはじめ越中、越後でも盛んに用いられている。これが加賀や能登の景観を際立たせる一つにもなっている。  「弁当忘れても傘忘れるな」と言われるほど冬の金沢辺は雨が多い。時には雨がみぞれになり、雪になり、吹雪にもなる。我々が金沢の寺町を廻った時にも強い雨に遭った。この句はそんな金沢の冬の様子をよく表している。しかし言葉のつながり具合が良くない。「しとど打つ」のは「冬の雨」であるはずなのに、「や」という切れ字で分断されてしまっている。常識で判断すれば分かるだろと言われればそうなのだが、このままでは加賀の甍が「しとど打つ」ことになってしまう。「を」という助詞は散文的になるので嫌われがちだが、この場合は「や」の代わりに「を」を置いたらどうだろう。「しとど打つ加賀の甍を冬の雨」。黒瓦をこれでもかと打ちたたく強時雨が彷彿とする。 (水)

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寺町を迷ふ楽しみ冬構     田中 白山

寺町を迷ふ楽しみ冬構     田中 白山 『合評会から』(「逆回り奥の細道拾遺」金沢吟行) 双歩 歩いた寺町は入り組んでいて、はぐれたら迷子になりそうでした。観光協会のボランティアガイド「まいどさん」の黄色い服が頼りでした。  水牛 「迷ふ楽しみ」とは実にうまいことを言うものだ。 百子 いろいろ足早に回りましたが、それはそれとして、知らない町中を歩きまわるのは本当に楽しいですね。 哲  路地伝いに迷路のような寺町を巡ると、民家の庭木に雪吊りがあったりして冬を感じました。           *       *       * 日経俳句会と番町喜楽会合同の金沢吟行での一句。何しろ奥の細道を逆回りに辿るというユニークな吟行会で、5,6年かけて回ったのだが、金沢だけ行きそびれてしまい、この11月末に出かけてようやく「完結」した。だから、金沢でも歩き回るのは芭蕉と当時の加賀俳壇ゆかりの寺町ばかり。入り組んだ寺町の小路を辿り、「迷ふ楽しみ」を十二分に味わった。(水)

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小春日や懐紙に包む金平糖     大下 綾子

小春日や懐紙に包む金平糖     大下 綾子 『合評会から』(日経俳句会) てる夫 昭和の匂いのぷんぷんする句でいい。 而云 茶会だろうか。「小春日」に良く合っている。 悌志郎 懐紙の中に赤、白、緑、黄色などの金平糖があり、お土産に持って帰るのか。金平糖と小春日のほんわかとした雰囲気が出ている。 双歩 懐紙と金平糖で小春日に合って、感じがいい。 哲 金平糖は茶会に出るんでしょうね。 弥生 出ます。生菓子もありますが、金平糖のような干菓子もよく出ますね。           *       *       * とても感じのいい句だ。句会では「小春日の雰囲気にぴったり」という声が多かったが、本当にそう思う。季語との取り合わせ、響き合いがこれほどうまく行っているのも珍しい。場面は必ずしも茶会に限らずとも良かろう。京都など古い習慣を残している処では、客は出された茶菓子を平らげてしまうようなことは決してしない。その場では形だけつまんで、後は懐紙に包んでうやうやしく頂戴する。そんな優雅な趣きも感じる。(水)

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湯豆腐や夢は大方夢のまま     玉田 春陽子

湯豆腐や夢は大方夢のまま     玉田 春陽子 『季のことば』  「湯豆腐」はやはり冬のものである。料理とも言えない料理だが、食通と言われるような人たちに語らせれば、気が遠くなるほど奥の深い食べ物となる。まず豆腐の吟味から始まる。絹ごし豆腐か、木綿豆腐であるべきかで侃々諤々。鍋に敷く昆布の産地まであれこれうるさい。鍋の真ん中に醤油と削った鰹節を入れた筒型の湯呑茶碗を据えるのだが、そこにあらかじめ刻み葱を入れるべきか、いや、葱は豆腐をよそう小鉢に入れるべきだとか、甲論乙駁である。  しかしまあそんな小難しいことを言わなくとも、まずまずの豆腐と昆布があれば、それなりの湯豆腐になる。鰹節も本当は掻いたばかりのものがいいのだが、近ごろは真空パックの削り節も出来が良くなって十分の美味しさである。というわけで、湯豆腐もずいぶんお手軽に出来るようになった。  こうしてささっと仕立てた湯豆腐で一杯やっている。自ずから来し方が次々に浮かんで来る。あれこれ夢を描いたが大方は夢に終わったなあと独りごちする。でもまあこうして安穏に暮らしているのが上出来と言うべきなのかなと。ゆらりと揺れる湯豆腐を見つめながら合点している。(水)

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相棒は子と同い年おでん酒     谷川 水馬

相棒は子と同い年おでん酒     谷川 水馬 『この一句』  「相棒」というのは元々は駕籠屋の前と後ろの二人組、あるいは埋め立て工事のモッコ担ぎの相方を言った言葉である。どちらかが力を抜けばたちまちよろけてしまう。息を合わせてヨイショコラショと担ぎ歩めばうまく運ぶ。こんなところから仕事仲間を指して相棒と言うようになった。相棒が何組か集まってのグループが「同じ釜の飯を食った仲間」ということになる。  その昔の日本は年功序列社会で、職歴を積む毎に職階が上がっていく仕組みだったから、相棒も大体は似たような年頃だった。ところが近ごろはそうではなくなった。年功序列制度が崩れる一方、途中入社や派遣社員が激増している。一次定年後の嘱託社員や、定年後再雇用された高齢社員も増えている。六〇過ぎの人が息子と同年齢の若手社員と組んで仕事することも珍しくなくなった。  仕事の山を越えてやれやれという一夕、親子のような二人組がおでん屋で酌み交わす。パソコンやAI機器の操作で昼間はすっかり世話になった青年に、今度は人生相談に乗ってやる。平成の相棒同士である。(水)

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玄関をポインセチアであたためり     星川 水兎

玄関をポインセチアであたためり     星川 水兎 『合評会から』(番町喜楽会) 幻水 ポインセチアの赤い色と玄関を暖かくしたいという気持ちの組合せがいいですね。 満智 花が玄関をあたためるという表現がとてもいいなと思いました。 双歩 ポインセチアの赤は余り暖かくない赤だと思うのですが、玄関にそれを置いて暖かいと思うその気持ちがいいなと。 綾子 焚火のような感じのする植物ですから、この感じ分かります。 二堂 赤い大きな葉が、回りを明るく暖かくしそうです。冬の玄関は暖房もな く寒々ですから。          *       *       *  中米原産の常緑低木で、十一月頃から茎のてっぺんの葉が燃えるように赤くなるので、クリスマスの飾りによく使われるようになった。日本には明治時代にアメリカから持ち込まれ、伝説の大酒飲みの巨猿猩々(しょうじょう)にちなんで猩々木という和名がつき、冬の季語にもなった。ポインセチアで薄暗い玄関に明かりを灯し、暖めるとは、洒落た感覚の句だ。(水)

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狐火を心の闇に見た気して      澤井 二堂

狐火を心の闇に見た気して      澤井 二堂  『おかめはちもく』  句の手直しはどの程度にしたらいいのだろうか。原句はなるべく尊重せねばならず、直す個所は最小限にすべきである。仮名をたった一字取り替えただけで、句の感じが一変することもある。そのような時こそが添削者の最も嬉しい時で、「やった」と会心の拳を突き上げる人もいるのではないか。  当欄が始まって以来、私は以上のような気持で添削に臨むのだが、時にはままならないこともある。実はこの句がその例で、句を見た瞬間、「灯りたり」という下五が浮かび、「これで行こう」と決めてしまったのだ。という訳で今回は「添削例」を早々と提示したい。「狐火の心の闇に灯りたり」である。  作者は狐火を心の闇の中に「見たような気がした」のだ。このような時、俳句では「見た」と言い切るべきだ、とも言う。ならば、心の闇に「灯った」としても意味はさほど変わらない。ただし上五の「の」を含めて、十七音中の六音、即ち三分の一以上を替えてしまった。やり過ぎだったのだろう。(恂)

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瘡蓋のごと年重ね暮れてゆく    廣田 可升

瘡蓋のごと年重ね暮れてゆく    廣田 可升 『合評会から』(番町喜楽会) 満智 瘡蓋(かさぶた)のように年を重ね…。何となく分かります。 而云 傷があるから瘡蓋が出来る。傷を覆い、見かけを繕い、そんな風にしながら年を過ごしていく。政治も、大相撲も…。いろんなことを考えさせられる。 水牛 汚らしい感じもするが、言っていることは分かりますね。 数人から 「しかしこの句、ムードがないな」「治りきっていないから、瘡蓋があるんだ」などの声も。         *          *  瘡蓋は見た目がよくない。剥がれれば痛いし、血も出てくる。しかし瘡蓋の働きがあって人間は生きてこられた。日本という国にも瘡蓋があちこちに出来上がっている。ひどい政治が代表的な犯人で、世の中のあちこちに傷がつくのだが、瘡蓋の役割を担う人々がいて、傷を繕いながら、年を重ねていく。 この句、季語は「歳暮るる」である。ただし一年だけではない。去年も今年も、そして来年も、という意味をくみ取ることができよう。見た目は汚らしくとも含蓄のある、瘡蓋のような句である。この句は。(恂)

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