大腸を廻(めぐ)るカメラも十二月    横井 定利

大腸を廻(めぐ)るカメラも十二月    横井 定利 『合評会から』(日経俳句会) 正裕 「大腸カメラ」と「十二月」は関係ないと思うのですが、何となく合うような気もする。一年の納めに検査したということだろうか。 睦子 先日受けたばかりなので実感がありますね。見つかったポリープは来年取ります。 青水 「も」が気になるものの、季語と物語がいい緊張感で成立している。 弥生 十二月の忙しさを詠み込んだシュールな一句、と評します。            *           *  内臓の検査ともなれば、どんな施設でも一ケ月以上も前からの予約が必要だろう。検査前はカレンダーを見るたびに「あと何日」と数えていた。年末の最も重要な予定がこの検査だった。検査台に横たわり、覚悟を決める。カメラが腸内を動き回っている。一昨年、昨年も十二月に大腸の内視鏡検査を行っていた。  三年目になると心が落ちつき、検査を客観的に見つめる余裕が生れている。またカメラが動き出して、ふと気づく。芭蕉ら著名俳人の大方は内臓検査なんてしたことがない。この体験を句にしない手はないぞ。(恂)

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連日の冬日を吸ふや敷布団     金田 青水

連日の冬日を吸ふや敷布団     金田 青水 『おかめはちもく』  十二月の晴天日は抜けるような青空が眩しく、日差しはかなり強く、湿度が極端に低く、実に気持がいい。この句にもそういった気分が横溢している。  しかし、「連日の冬日」という言い方が問題である。「連日の冬日を吸ふや」とつながると、この敷布団は毎日干され続けているのかと思ってしまう。恐らく晴天続きだということを「連日の冬日」と言ったのだろう。十分考えた末、計算づくで「連日の冬日」としたのだろうとは思う。しかし、どう読み返してもこの措辞の効果がうかがわれないのだ。  もっとあっさり詠んでみたらどうだろう。「連日の」という上五は思い切って取っ払い、きりっとした感じの冬日を一杯に吸い込んだ敷布団を呈示するだけで、読者は良い気分になるのではなかろうか。  たとえば「きらきらと冬日を吸ふや敷布団」。オノマトペを嫌うなら、「思ひきり冬日を吸ふや敷布団」あたりはどうか。「常識的すぎる」と思われるかも知れないが、こういう和やかな句はむしろありきたりと言われる詠み方の方がいい。大げさを好むなら「冬日吸ひ倍にふくらむ敷布団」だが、これは直し過ぎ。(水)

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眠る子がふいに笑へり冬銀河     向井 ゆり

眠る子がふいに笑へり冬銀河     向井 ゆり 『合評会から』(日経俳句会合同句会) 臣弘 よくある光景ですよね。面白い。眠りながら「ふふふっ」て笑っている子、考えれば考えるほど深みのある句。 冷峰 なんで笑ったのか疑問に思うことがある。夢見て笑っているのだろうか。「ふいに笑へり」が気に入った。 二堂 いい夢を見ているのかな、「冬銀河」とあるから星が好きなのかな、いろいろ想像させる。 而云 何考えているのかなと思った時、前世を想っているのか、宇宙の成り立ちを考えているのかなとも。そういうこともあるなと思いながら選んだ。 弥生 一瞬の笑顔と「冬銀河」を合わせたことで、大きな幸福感が出ている。 光迷 今の時期ならサンタクロースの夢か…。楽しい思いに誘われます。温もりのある室内と冴え冴えとした屋外の取り合わせもいい。           *       *       *  子供はよく夢を見るようだ。時には怖い夢にうなされることも。これはきっと幸せな夢なのだろう。その寝顔を見つめるお母さんも幸せになる。(水)

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横綱も宮司も人よ帰り花     杉山 三薬

横綱も宮司も人よ帰り花     杉山 三薬 『この一句』  大相撲の横綱日馬富士が後輩の貴ノ岩の態度に怒って暴行を加えた事件と、江戸三大祭の一つ深川富岡八幡宮の宮司姉弟の殺人事件を詠んだ時事俳句。見る人にいろいろ物思わせる「帰り花」という季語に、こうしたショッキングな事件を取り合わせたところがとても面白いし、効果的である。「上手く詠んだなあ」と感心した。特に「人よ」と言ったところが出色だ。尊敬される地位にある横綱や宮司だって、やはり弱い人間なのだというのである。  しかし、この句は数年すると、印象がぼやけて来そうな弱味を持っている。わずか一月経つかたたない現時点でさえ、日馬富士の殴打事件はまだしも、「宮司」の神社が富岡八幡とすっと言える人が百人中何人いるか、ましてや宮司の名前など誰も覚えていまい。五年後十年後は推して知るべしである。「時事俳句」にはそういう弱味がある。しかし、世間の動きを注視して「その時、その出来事」を詠む癖をつけると、やがてそうした句の中から百年経っても生き生きと輝く作品が出て来るはずだ。その句によってその出来事と時代が読者の脳裡に甦る。お互いがんばって、そんな時事俳句を詠みたいものだ。(水)

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誘はれて谷中寺町帰り花     久保田 操

誘はれて谷中寺町帰り花     久保田 操 『季のことば』  「帰り花」は旧暦十月、今の暦で言うと十一月から十二月初め頃の季語である。ものみな枯れ果ててしまった中に、桜、桃、ツツジ、山吹などが、突然二三輪の花を咲かすことがある。これが「帰り花」で、俳人たちは喜んで句に仕立てた。  ちょうどこの時期には寒い日が数日続いた後に、春のようなぽかぽか陽気になることがある。これを「小春」とか「小春日和」と言う。「帰り花」は、この陽気に誘われて咲き出すのかも知れない。春の本格的な花と違って地味な咲き方だが、自然界に色彩の薄れた頃合いだから、その可憐さは人目を惹く。  「谷中散歩の雰囲気が良く出ていて、しみじみとします」(百子)。「リズム感が心地よい。季語が生き生きとしています」(弥生)と句会で人気を集めた。  この「誘はれて」というのが面白い。友達に散歩に誘われたと解するのが自然なのだろうが、私はこの句を反芻しているうちに、作者は「小春日和」に誘い出されたのではないかと思うようになった。人通りの途切れた昼下がり、温みを感じる谷中の小路にひっそりと帰り花が。それを見つけた嬉しさは一入だ。(水)

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抜け殻の蒲団そのまま朝支度     深田 森太郎

抜け殻の蒲団そのまま朝支度   深田 森太郎 『合評会から』(日経俳句会合同句会) 昌魚 景がよく分かります。このところ家内の調子が悪いのでベットも布団の始末も私がやっており、こういう状況です。身につまされていただきました。 三代 朝のあわただしい感じがよく出ています。この句は「抜け殻」ですが、「かまくら」と詠んだものもありました。皆さんいろいろ考えてますね。 博明 朝のせわしなさがよく想像できます。           *       *       *  春眠は暁を覚えずだが、冬場は暁どころかすっかり明るくなっても、もう少し、もう五分などと蒲団にくるまっている。またうとうとして、はっと気がつき、慌てて起きて、身繕いして、あれこれ必要なものを整えて・・。蒲団などは敷きっぱなしということになる。若い頃は大概の人が経験したことだろう。ところが近ごろはオジイサンと呼ばれる年頃にこういう人がかなり多いようだ。全てを委せきりにしていた連れ合いを亡くしたり、病気をされたりすると、どうもいけない。陸に上がった河童でちぐはぐなことばかりやっている。(水)

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蒲団干す太陽系の片隅に     嵐田 双歩

蒲団干す太陽系の片隅に     嵐田 双歩 『合評会から』(日経俳句会合同句会) 水馬 「太陽系」と「蒲団干す」、大小の落差がいい。 春陽子 「太陽系の片隅に」、意外性にびっくりしました。 哲 「蒲団」がいきなり「太陽系」に飛んで、さらに「片隅に」と視点が飛躍しているところに感心した。 阿猿 遠近感です。銀河系でもよいのではとも思ったけど、太陽が干すのだからやっぱり太陽系ですね。 好夫 最初見落としたが、見直したらこれはすごいなと採らざるを得なかった。 正裕 「太陽系の片隅に」よくこういう言葉が出てきたなと。 光迷 自分のことだけでなく太陽系にまで心を配る姿勢は、どこかの大統領などに心して欲しいものです。 青水 季語が生きている。俳句巧者が閃いた表現力の勝利。           *       *       *  物凄い奇想天外なことを詠んでいるように見えるが、実は自分の煎餅布団をさりげなく干している。この諧謔がいいね。(水)

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狐火や母の記憶の手の温み     前島 幻水

狐火や母の記憶の手の温み     前島 幻水 『おかめはちもく』  まず、普通の文中の「の」の数のこと。「上野のパンダの様子は」といった、二つの「の」まではいいのだが、三つも重ねると煩わしくなる。ところが俳句を含む詩歌なら、佐々木信綱の有名な短歌「ゆく秋の大和の国の薬師寺の―」のように、「の」を連ねても却って心地よい感覚が得られる、とされる。  ただしこのような「の」に関する“常識”は感覚的ものだけに、一例を以て「正しい」とか「間違い」だと決めることは出来ない。掲句の場合、「母の記憶の手の」と三つ重ねである。俳句なのだから三つの「の」もOKのはずだし、句会では一応の評価を得ていた。これでいい、という人も少なくないだろう。  しかし私には少々の違和感が残った。幼い頃、狐火のようなものを見た。怖い、と思い、母の手を握ったら、握り返してくれた。手は暖かく、安心した覚えがある。母の記憶はたくさんあるが、その一つが「それ」なのだ。その点を踏まえ「母の記憶に」としてみたい。理屈ではなく、感覚的な添削である。  添削例 狐火や母の記憶に手の温み    (恂)

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湯豆腐や葱は嫌ひと言ふ男      須藤 光迷

湯豆腐や葱は嫌ひと言ふ男      須藤 光迷  『この一句』  句仲間の誰かのことを詠んだ句が、句会にたまに登場する。褒めるのなら無難だが、けなしたり揶揄したり、というのは相当難しく、句会に出すにはためらうような場合もあるだろう。この句、投句に勇気が必要だったかも知れない。なにしろ該当すると考えられる人物は、句会の主宰者だったのだ。  合評会のコメントから「そのこと」を知る人は案外少ないことが分かった。「湯豆腐の薬味の葱が嫌い? そんな人がいるのか」「我儘に育ったのかな」「そういう人がいてもいいとは思うが」「この人、私はあまり好意的に捉えていません」。という訳で、この句の評は句中の人物評が中心になったのであった。  主人公は誰なのか? 句を選んだ人の思いはおおよそ同じらしい。それともう一つ、誰の作かも気になるところであった。作者が「すみません、私の作でした」と白状した。すると主人公は「湯豆腐や冷奴には、私も葱を使いますよ」と真相を明かしてあっけらかん。数人が「なんだ、つまらない」と反応した。(恂)

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湯豆腐の踊れば止まる愚痴話     徳永 正裕

湯豆腐の踊れば止まる愚痴話     徳永 正裕 『季のことば』  かつて鍋物研究で、湯豆腐について十人ほどから話を聞いた時のこと。「あれは単なる“モノ”でしょう」と言った若者の言葉が忘れられない。「お湯の中に、何の味もしない柔らかなモノが入っているだけ」というのだ。焼肉、ラーメン、ハンバーガーを好む世代がそっぽを向くのは当然である。  ところが人間、中年を過ぎて老年期に差し掛かると果然、湯豆腐の微妙な味わいを理解するようになる。「霙(みぞれ)にも、雪にも、いつもいいのは湯豆腐だ。この味は中年にならないと分からない」(泉鏡花「ゆどうふ」)。豆腐は初め“木綿”好みだが、やがて柔らかな絹ごしに嗜好が変わっていくようだ。  風采の冴えない男が二人、湯豆腐を前に差し向い、話し合っている。「来年おれ、定年だよ」「お互い様だ」。湯がたぎり、豆腐が揺れ出すと、二人の愚痴話がぴたりと止んだ。この句、「湯豆腐の踊れば―」が巧みである。話はやがて老後の楽しみなどに移っていくのだろう。熱燗を追加して、至福のひと時。(恂)

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