一日ごと賑はふ沼や渡鳥     前島 幻水

一日ごと賑はふ沼や渡鳥     前島 幻水 『おかめはちもく』  「鳥さんようきたね、という優しさが漂う句です」(水馬)、「葛西臨海公園は私の俳句作りの場所の一つなんですが、そこに目立たない沼があります。それが渡り鳥の季節になると、まさしくこんな感じになるんです。鳥が毎日毎日増えていくんですよ。そうした情景がよく表現されています」(白山)、「確実に増えていくんですね。それを見ている楽しさが伝わって来ます」(てる夫)、「鳥が来ることによって沼が蘇るのがおもしろいですね。えっ、ここに沼があったんだ、なんて」(水兎)、というように称賛の声が次々に寄せられた。  句の良さはこれらの句評が余さず伝えているのだが、あえて注文をつければ、「一日(ひとひ)ごと」という口調の悪さを何とかすれば、もっと良くなるように思うのだ。「一日」は、ルビの助けを借りないと「いちにち」と読まれがちである。ここはやはり聞き慣れた「日ごと」という言葉の方が読者の頭にすっと入って来るのではなかろうか。  添削例:「鳥渡る沼は日ごとに賑はへり」     (水)

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冬めくや鬼も濃い目のルージュ引く     野田 冷峰

冬めくや鬼も濃い目のルージュ引く      野田 冷峰 『この一句』  「意味がよく分からないのだが、イメージが鮮やかで何かを訴え掛けてくる」(涸魚)、「メスの鬼?あるいは女社長(笑)?自分のことかな?それは自分なりに考えればいいのでしょう。印象的な句だ」(而云)、「女房に鬼を見ているんだ」(臣弘)、「鬼と『ルージュ引く』の取り合わせがシュール」(正裕)などなど、句会を大いに沸かせた。  確かにこの「鬼」は、みんなそれぞれが思い描けばいいのだろう。極めて現実的に、テレビのバラエティ番組などに出て来るけばけばしいタレントだっていいし、電車の中で傍若無人、一心不乱に塗りたくっている女性を思い浮かべてもいい。幽霊伝説の妖艶な鬼女でもいい。しかし、あれこれ考えているうちに、そうした余計な解釈をぐたぐた並べる必要なんて無いんだ、ただ字面通り受け取ればいいのさと思えてくる。  もしかしたら作者にだって「鬼」の姿ははっきり見えていないのではないか。それでもいい。ふと頭の中に浮かんだフレーズが口をついて出て句になった。だからこそこういう不可思議な力を備えた句になった。(水)

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初霜の畑に残る菜屑かな     徳永 正裕

初霜の畑に残る菜屑かな     徳永 正裕 『合評会から』(番町喜楽会) 冷峰 菜屑は来年の肥料になるんですね。そんな意味がある情景をよく詠んでいると思います。 白山 「初霜」がいいですねぇ。これは実際に作ったことのある人でないとわからない情景でしょう。私は、疎開時代を思い出しました。 百子 田舎に住んでいると、こんな景に出くわします。葉っぱに降りる霜は美しい。菜屑であっても。 大虫 白菜か。霜が降りる頃、菜の甘味が増す。うまい漬物ができるでしょう。 可升 菜屑が散らばっているだけでは、いい景ではないけれど、その上に霜が降りている。「初霜」という季語で風情がぐっと出てきますね。 二堂 菜屑の散らばっている畑は、うまい野菜が収穫できた証拠でしょうか。         *       *       *  出荷するために外側の一、二枚を切ってきれいにする。畑には菜屑が残る。そこに霜がかかる。土の黒と菜の黄色、霜の白、汚らしく乱雑な菜屑を美しいものに仕上げた手腕は見事。(水)

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空を嗅ぐホッキョクグマや冬隣     谷川 水馬

空を嗅ぐホッキョクグマや冬隣     谷川 水馬 『合評会から』(番町喜楽会) 正裕 「空を嗅ぐ」。季節の移り変わりを「そら」で感じているのだと思います。 而云 本当に熊はああいう格好をしますね。それを「嗅ぐ」ととらえたのが秀逸。 大虫 冬に入る頃になると、相手を探すんじゃないですか?「めす」の匂いを空に嗅いでいるのでは、ともとれますね。 てる夫 何といってもホッキョクグマを出演させたのがいいです。 可升 「空を嗅ぐ」、僕だけが「くう」と読みました(笑)。やっぱり「くう」がいいなぁ。まぁ好みの問題でしょうけれど。 哲 すごい句です。「冬隣」というのは「晩秋」から「冬」にかけてのことですよね。それをホッキョクグマを持ち出して、「俺の季節が来る、待ちどおしいなぁ」と、「空を嗅ぐ」で表現した。           *       *       *  白熊の仕草をうまく句に仕立てたてたものよと感心した。素晴らしい句だ。ただ「ホッキョクグマ」とカタカナで書くと理科の教科書みたいだ。個人的な趣味と言われるだろうが、白熊で詠むか「北極熊」として欲しかった。(水)

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足湯する子らの歓声秋の雲     加藤 明男

足湯する子らの歓声秋の雲     加藤 明男 『この一句』  「足湯」なるものは元々は脚湯(きゃくとう)と言って温浴療法、つまりは療治の一つだった。怪我をしたり、筋違いを起こしたりして、その治療の一環として温泉場に籠もってやったものだ。  しかし、これはやってみるとなかなか気持のいいもので、別にどこが悪いというわけではない人でも、両脚を温泉に浸していると癒される。ということもあって十数年前からこれが流行り出し、ハイキングの途中や帰り道に家族連れで楽しんだりするようになった。温泉観光地はどこも「足湯」施設を拵えて、観光客を集めるスポットにしている。温泉場を控えた鉄道駅も続々と足湯を拵えている。  この句もそういった施設なのだろう。一家そろっての秋のハイキングか紅葉狩りか。大喜びの子どもたちがはしゃぐ声が谺する。まあ多少羽目を外しても、他のお客さんの迷惑にならなければ、滑って転んだって浅いから溺れることもない。若い両親はすっかりくつろいでひと時の安楽に浸っている。(水)

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秋冷や足の裏にも運命線     嵐田 双歩

秋冷や足の裏にも運命線     嵐田 双歩 『合評会から』(日経俳句会) てる夫 面白い句。年を取ると靴下をはくのも苦労するのに、この人はアクロバティックな人で(大笑い)、思わずニヤリとした。 博明 足裏に運命線があるのかどうか知りませんが、秋冷時に足裏をじっと見るのは分かる気がします。 万歩 胡坐の裸足が冷えてきたので、ふと目を落とすと運命線があった。足相を発見し句に仕立て上げたところに脱帽。 定利 何の気なしに足の裏を見た。風呂に入る前か。ずっと見る、寒いのに。 阿猿 そろそろ裸足だと冷えるなという時にふと見た足の裏。なんだか手のひらに似ている。運命線まであるんだ、フーンというささやかな発見の一瞬が切り取られていて面白い。           *       *       *  全くバカバカしい人を食ったような句だが、実に面白い。前足後足と言うように、人間だって元々は手も足も同じ出来具合だったのだから、手相があるのなら足相もあるはずだ。風呂に入って、ゆっくり眺めてみよう。(水)

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喉を過ぐ奥能登の牡蠣ほのあまし    須藤 光迷

喉を過ぐ奥能登の牡蠣ほのあまし    須藤 光迷 『おかめはちもく』   番町喜楽会(略称・番喜会)という句会には全国唯一と思われる“催し”がある。主宰者(水氏)が自作も含めた百数十句全てを講評、しかもそれを文にし(今句会は8ページ)、全員に配るのだ。作者不明の時点での講評だから、名手の作にも酷評があって、それが面白く、実にためになる。 掲句がその一つ。「過ぐ」は終止形、「過ぐる」としなければ、と説く。そして「字数を整えるために文法を無視するのはよくない、とし、「喉越しのほのあまきこと能登の牡蠣」の添削例を示した。作者は実力者の一人。私(恂)などは「彼の句では」と当欄への掲載をためらいそうだ。 しかし「水氏がやったのだから」と尻馬に乗り、私案を示したい。この句を見た時、「奥能登の」からスタートとしたいと思った。即ち上五を下五に移し「奥能登の牡蠣ほの甘し喉を過ぐ」とするのだ。番喜会の句会は遠慮なし、侃々諤々の論戦が特徴。この文は合評会の続きのつもりで書いた。(恂)

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それぞれに故郷のあり鳥渡る    中村 哲

それぞれに故郷のあり鳥渡る    中村 哲 『合評会から』(番町喜楽会) 双歩 「それぞれに故郷」が渡り鳥のことだとすると、つき過ぎの感がある。取り合せの句とみなしたい。 可升 「渡り鳥には故郷がない」と書いた本があった。それで、これは人間の故郷、と納得した。 命水 私もそのようなことをどこかで読みました。 冷峰 「それぞれ」が気に入った。故郷を離れてもそれぞれに我が家がある。 斗詩子 私もこんな句を作りたかった。  哲(作者) 人間の望郷の句、と考えています。              *          * この句、俳句の初心者や未経験者なら「渡り鳥にはそれぞれの故郷がある」と解釈するに違いない。しかし俳句に馴染むにつれて、「故郷のあり」で句は切れて、それぞれに故郷があるのは人間のこと、と受け取るようになるだろう。この作り方(約束ごと)が「取り合せ」であり、わずか十七音の中に「二つの世界」が出来上がることになる。数ある“俳句文法”の中の、最も重要なものの一つだと私は思っている。(恂)

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ハロウィンや小悪魔たちの声高く    池内 的中

ハロウィンや小悪魔たちの声高く    池内 的中 『季のことば』  先月(十月)の末、我が家の周りから子供たちの賑やかな声が聞こえてきた。二階の窓からそっと覗くと、三角帽子やマントなど、ハロウィンの衣装を身につけた幼児たちが集まっている。家内によると、これから近所の家々を廻り、キャンディなどを貰いに行くところだという。  「見に行きたいけれど」と家内。「トリック・オア・トリート」(お菓子をくれないと、いたずらするぞ)と口々に言われてしまうらしい。「来年からお菓子の用意をしなくては」と呟いていた。日本でのハロウィン騒ぎは十数年前からとのことで、すでに「クリスマスを上回る」の声もある。  さて、この句、「ハロウィンは歳時記にない」の声が聞こえてきそうだ。しかし歳時記の時代遅れは皆様もご存じの通り。ネットでこんな質問・回答を見つけた。「ハロウィンは俳句の季語にしていいですか」「これだけ普及しているのだから、いいのじゃないでしょうか」。全くその通りだと思う。(恂)

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秋冷を来て卓上の山の幸      大下 綾子

秋冷を来て卓上の山の幸      大下 綾子 『季のことば』  「秋冷」はほとんどの歳時記で「冷やか」の傍題とされている。元来は「秋冷の候」と、季節の挨拶に用いられ、やがて俳句の季語に加えられたようだ。しかし「秋冷」は同じ傍題の「ひいやり」「冷え冷え」「冷たし」はもちろん、主季語の「冷やか」以上に俳句的な語と言えるだろう。  「秋冷を来て」とは巧みな言い回しである。この表現が可能なのは漢語(漢字の熟語)であるからで、「冷やかを来て」「ひいやりを来て、」では格好がつかない。同じような使い方の「炎天を来て」「豪雪を来て」などを見た記憶があるが、掲句は澄明な空気を感じさせ、いかにも秋である。  一読、季節の雰囲気を大掴みにした句と思えたが、「卓上の山の幸」によって具体的な状況が見えてくる。鉄道の駅で降り、けっこう長い道を歩き、山荘を訪れたのではないだろうか。凍えかけた手に息を吹きかけながら部屋に入ると、色とりどりの山の幸が大皿に盛られていたのである。(恂)

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