秋風に踊る草木の軽さかな     加藤 明男

秋風に踊る草木の軽さかな     加藤 明男 『季のことば』  「秋風」は初秋、仲秋、晩秋と「三秋」を通しての季語」である。しかも万葉時代から詠まれ続け、「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」(藤原敏行・古今集)で益々重要な歌材となり、芭蕉がそれを下敷きに「あかあかと日はつれなくも秋の風」(奥の細道)と詠み俳句でも重要季語となった。  しかし、秋風は詠むのになかなか苦労する。俳句の初秋は八月で気分的には夏真っ盛りである。まあ下旬になると芭蕉句のように、相変わらず日差しは強いが風はもう秋だと詠むのがせいぜいだ。仲秋の九月になってようやく秋を感じさせる風が吹く。そして十月に入るとあれよと言う間に木の葉を色づかせ、コートが必要になる晩秋の風が吹き出す。一筋縄ではくくれない厄介な季語と言える。  この句の秋風はいつごろだろうか。草木が軽く踊るとあるから仲秋の末から晩秋であろう。夏場にはあれほど旺盛に茂っていた草や木の葉も、十月に入ると瑞々しさを失い、何となくすがれて来て軽くなったような感じになる。それを舞わせ、もてあそぶような秋風を作者はすっと詠んでいる。(水)

続きを読む

海へ落つ能登の棚田や秋高し     須藤 光迷

海へ落つ能登の棚田や秋高し    須藤 光迷 『合評会から』(番町喜楽会) 的中 こういう風景が能登にあるのかよくわかりませんが、海へ落ちる棚田の重なりの情景が綺麗で、しかも見上げると「秋高し」。絵画的で語調の良い句ですね。 命水 私も能登の棚田を見た事がありませんが、急傾斜のところに棚田があって、働く人は大変でしょうが、大変美しい収穫の秋の風景が広がっている。そんな句だと思っていただきました。 可升 私も見たことがなくて、要するに選んだ三人は誰もこの風景を知らない(大笑)。しかし、さぞかし美しいだろうと思います。ケレンの無いストレートな句で、捻った句の多い中にこういうのを見つけると嬉しく思います。           *       *       *  「能登半島に世界農業遺産の千枚田があります。一見の価値がありますよ」と旅行好きの作者推奨の風景。観光ポスターのようだという悪口が出そうな気もするが、「現場を知らない」三人が絶賛するほどだから傍から文句を云う筋合いは無い。素直に見たままを詠めばこうなるという見本のような句である。(水)

続きを読む

曼珠沙華遺品整理の嫁二人     向井 ゆり

曼珠沙華遺品整理の嫁二人     向井 ゆり 『この一句』  この句は句会で大いに注目を集め、さまざまな意見が出た。“もの余り時代”とも言うべき今日この頃だから、高齢で逝ったオバアチャンは着物や宝飾・小物類をはじめ、先に逝ったオジイチャンの書画骨董に至るまで、ありとあらゆる物を遺した。ほとんどはガラクタと言っていいような物ばかりだが、中には貴重品もあり、家族にとって大切な思い出の品もある。まずは「遺品整理」を行いゴミを処分し、価値ある物を家族や親類縁者、知人へ配る「形見分け」を済まして一件落着となる。  その第一段階の整理作業が大仕事なのだが、「やりましょう」と言う人がいない。男どもはこういうことになると全く無能。実の娘は他家に嫁に行ってその家に根を生やした年月の方が長く、実家の様子には疎くなっている。結局は長男次男の「嫁二人」が引き受けることになる。  「初彼岸の前後あたりでしょうか。嫁二人が残暑に汗をにじませながら、せっせと故人の遺品を片付けているさまを彼岸花がそっと見ている。生き残った人たちは忙しい」(阿猿)という評がその情景を端的に述べている。(水)

続きを読む

荷を降ろし下る坂道秋楽し     斉山 満智

荷を降ろし下る坂道秋楽し     斉山 満智 『合評会から』(番町喜楽会) 冷峰 僕は高校時代ボッカのアルバイトをやりました。山小屋に重い荷を下ろすと帰りはルンルン気分です。僕の青春時代を詠んでくれた句だと思いました。 水馬 私は神社かお寺の帰り道を想像しました。精神的な「荷を降ろし」たのではないかと思いました。いろんな事を想像させるいい句です。           *       *       *  句会では、「一体どんな荷を運び上げたのか」「いきさつがよく分からない。運送屋か」「荷を降ろすとは、何か厄介払いのような意味に取れる」などと、あれこれの解釈が飛び出した。  私は素直に、大荷物を目的地に運び上げ満足感に浸っていると受け取り、楽しい気分を歌い上げたのがいいなと思った。作者の自解によれば、「『お役目』という意味で『荷』を使いました」ということである。  となると、「下る坂道」と急に具体的になってしまう写生的叙述がどうなのかという疑問も生じるが、ま、いいだろう。精神的な重荷も下ろせば、後は気楽な下り坂だ。冷峰、水馬ご両人の句解がいずれも当てはまる面白い詠み方だ。(水)

続きを読む

砂浜のふやけしサンダル秋の声    石黒 賢一

砂浜のふやけしサンダル秋の声    石黒 賢一 『おかめはちもく』  海水浴客で賑わったのは、もう一か月以上も前のこと。海の家は取り払われ、人影もまばらだ。そんな砂浜にサンダルが落ちていた。ビーチサンダルか、町で見かけるようなサンダルか。いずれにせよ海水か雨水によって膨らんでいる。いかにも「秋の声」が聞こえてきそうな情景である。  問題は「ふやけしサンダル」だと思う。中八については人によって考えが違うらしいから、この際は気にしないことにして、サンダルの状況を問題にしたい。サンダルは砂浜に長らく置き去りにされていたのだ。ふやけている、というより、乾いて色褪せだ、とした方が適切ではないか。  ただし「色褪せしサンダル」では“中九”となり、これはまずい。「褪せた」だけでも「色が褪せた」の意味があるのだが、「色が」がないと、どうもしっくりこない。そこで砂浜に長く置かれたまま、と思わせる状況にしてみた。添削例「砂浜にサンダル片方秋の声」。これでどうだろう。(恂)

続きを読む

大鷺(だいさぎ)の白悠然と秋の風    堤 てる夫

 大鷺(だいさぎ)の白悠然と秋の風    堤 てる夫  『この一句』  ダイサギとは? さっそくネットで調べた。日本のサギ類ではアオサギと並んで最大級とある。全身純白、体長九〇センチだという。両翼を広げれば一暖召砲發覆襪世蹐Δ。特徴の一つに「口は目の後方まで大きく裂けている」というのがあった。口裂け女のようで、ちょっと不気味だ。  別のネット情報では、二羽のダイサギが口を開けて飛んでいた。なるほど目の後ろまで口が裂けているようだ。しかしさほどの違和感はなく、立派な鳥という印象である。ふわりと秋風に乗った感じで、コウノトリ、トキなどに似た雰囲気。「白悠然と」という表現が実にぴったりだ。  写真は二羽だったが、句のダイサギは一羽のように思える。秋風の中を行く一羽の真っ白なダイサギ。その向こうに澄み切った青空が見えてくる。オス、メスのどちらだろうか。私はオスだと初めから思い込んでいたような気がする。「悠然と」という表現によるものかも知れない。(恂)

続きを読む

旅立ちのアサギマダラや天高し    谷川 水馬

旅立ちのアサギマダラや天高し    谷川 水馬 『合評会から』(番町喜楽会) 双歩 アサギマダラ(蝶)に「天高し」はすごくマッチしている。いい句です。 哲 澄み切った秋空にアサギマダラがよく似合う。「がんばれ」と声を掛けたくなる。 幻水 奄美大島で、アサギマダラが海を越えてくる、と聞いて驚いた。(「もっと遠くまでも」の声) 百子 この蝶はフジバカマが好きです。あんな繊細な花に来る蝶が海を越え、何千キロも行くのですね。 而云 アサギマダラは季語かも知れないが、天高しとの季重なりは問題にすべきではない。 水牛 この蝶は吉野光久君(故人)の小説で重要な役割を担った。そのことを思い出しながら選んだ。 正裕 吉野氏はいい句をたくさん作っていたね。この句を見て彼のことを思い出した。 冷峰 私も彼を偲んで選びました。 春陽子 私はあの本の表紙をデザインしたこともあり、アサギマダラの名を聞くと感慨深い。            *          *  今は亡き句仲間の小説が、句を選ぶ動機になっている。俳句は座の文芸・・・。結構ではないか。(恂)

続きを読む

秋風や山城址に井戸の址    広上 正市

秋風や山城址に井戸の址    広上 正市 『この一句』  山城に行くと、なぜこんな急峻な場所に、という疑問が起きてくる。登るのがたいへん、水も食料も求めにくい。そのため殿様や武士たちは平時、城下の平地に住み、普通の生活を送っていたらしい。しかし強敵の来襲によって劣勢に陥った時は城に登り、籠城して耐えることになる。 もちろん山城も一様ではない。戦国時代は絶えず戦が続いていたため、山城にも長期戦への備えが必要になる。食料や武器をしっかり備えるのは当然だが、水脈の豊かな山を築城の第一条件とし、深い井戸を掘って水を確保することになる。「山城址に井戸の址」。むべなるかな、と思う。 ある城巡り好きの話では、井戸址を見つけるかどうかが、山城見学の一つのポイントになるという。見つければ「この井戸で何日くらい耐えたのか」などと腕を組む。その辺がこの趣味の醍醐味で、いまファンが増えているとのこと。山城址に立つ人たちは、秋風がよく似合いそうだ。(恂)

続きを読む

人伝の友の訃報や秋の風     高石 昌魚

人伝の友の訃報や秋の風     高石 昌魚   『この一句』  この夏、かつての会社の同僚が亡くなった。遺族はさまざまな事情から出来るだけ小さな葬儀、つまり家族葬を望んだ。その結果、連絡の届かなかった友人・知人が大勢いて、葬儀の後、「私の恩人だったのに」「なぜ知らせてくれなかったのか」などという連絡が入ったという。  そんなこともあり、この句の訃報の人と作者はどんな関係にあったのか、と考えてしまった。勝手読みかもしれないが、句からさほどの深刻さは感じられない。人づてに友の死を知り、「いい奴だった」と往時を静かに回顧するくらいで、故人への思いはやがて薄らいで行ったように思われる。  そんな風に考えたのは「秋風」という季語のせいかも知れない。五行説による秋の別称に「白秋」があり、「色なき風」という秋風の別称も生まれた。秋風は即ち、涼やかな淡い風である。「君子の交わりは淡きこと水の如し」(荘子)。よき人との付き合いは淡く、別れもまた同様なのだろう。(恂)

続きを読む

風一閃もろこし畑の葉擦れ音     吉田 正義

風一閃もろこし畑の葉擦れ音     吉田 正義 『おかめはちもく』  蕭々たる秋の風がもろこし畑を吹き過ぎる。葉擦れの音がさやさや、ざわざわと波のように、遠くから近くへ、そして遠くへと渡って行く。北海道か、あるいは中国大陸か、広大な沃野が浮かんで来る。  雄大な感じがしてとても良いのだが、「一閃」という言葉に引っ掛かる。「閃」は門の中を人がさっと過ぎるのが見えるという会意文字で、瞬間的に何かが見える、ひらめく、きらめくといったことを意味する。稲妻の形容にも使われる。  言葉と文字には、それぞれ固有の意味合いがある。「アサ(朝)」と言えば夜が明けての一日の始まりを言い、「メシ(飯)」と言えば穀類特に米を炊いたもの、そこから敷衍して三度の食事を意味する。こういう風に言葉と文字は万人共通の表象であり記号になっている。従って、言葉と文字の持つ意味合いを自分勝手に変えてしまうのは慎まねばならない。  「風一閃」というなかなか魅力的な音韻に引きずられたことはよく分かるが、ここは「風立ちぬもろこし畑の葉擦れ音」くらいにしておいた方が余韻も生じる。    (水)

続きを読む