砂浜に砂地の戻り秋の声     印南 進

砂浜に砂地の戻り秋の声     印南 進 「おかめはちもく」  「砂浜に砂地が戻り」。はてな、と考えているうちに次の句に目が移り、そのまま読み進んでしまった。句会では百句前後の句を見るのが普通だから、このようなことがよく起こる。じっくり考えれば分かったかも知れない。砂浜の上にあった何かが、なくなってしまったから、と気付くかどうかだった。  夏の間の海水浴場には海の家が並んでいたが、秋になって取り払われて、本来の砂浜に戻った。広々した砂浜、誰もいない海・・・。なるほど秋の声が聞こえてきそうである。しかし私の他にも、この省略に気づかなかった人がいたようだ。俳句は省略の文芸、というものの、少々、やり過ぎだったか。 それに「砂浜」と「砂地」の重ね方が成功したとは言い難い。海岸に延々と続いていた海の家が消えてしまった、という状況が秋の到来なのである。即ちここは「海の家砂地に戻り秋の声」でいいのだろう。省略はややもすれば「やりすぎ」となる。人の句を見るような、客観的点検が必要である。(恂)

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黍畑鬼が迷子の隠れん坊     田村 豊生

黍畑鬼が迷子の隠れん坊     田村 豊生 『合評会から』(三四郎句会) 照芳 隠れん坊の鬼が迷子に。ほかの子を捕まえる役目なのに、鬼がどこかに行っちゃった。実はボクもこういう句を作りたかった。うまく詠んでいると思う。 久敬 黍は丈が高いから、子供だと完全に隠れてしまう。面白い句ですね。 而云 鬼一人が行方不明になって、どこかで泣いているのかも知れない。しかしこの黍畑、沖縄の砂糖黍畑なのかな。今の子は観光のヒマワリ園で隠れん坊をやっているらしいが。              *           *  「玉蜀黍(とうもろこし)」が兼題だった。句の「黍(きび)」だと別の季語になってしまう。まずいかな、と思ったが、すぐに気づいた。雑詠として「黍畑」を詠んだとすれば全く問題はない。作者は満州育ちである。少年時代に遊んだ大陸の広大な黍畑を思い出しながら、この句を詠んだのかも知れない。敗戦から引き揚げへの苦難は言葉に尽くせないものがあったはずだ。しかし七十年以上も母国で暮らすうちに、大陸の記憶の多くは、懐かしいものに変わっているのではないだろうか。(恂)

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晩学は牛歩がよろし鰯雲     岡本 崇

晩学は牛歩がよろし鰯雲     岡本 崇 『この一句』  よく言う「手練れの句」に属する、と私は思う。晩学とは何なのだろうか。作者の句歴や実力を考えれば俳句のことではなさそうだが、いや、やっぱり、と思わせるところもある。あらゆる勉学にゴールはない、と心得た上で「牛歩がよろし」と述べる態度に、円熟に達した時期のゆとりも感じられよう。  さてこの句、「上五・中七はよく分かるが、それと鰯雲の関係がよく分からない」と言う人が何人かいた。これはもちろん「取合せ」の句で、関係なさそうな二つの事物を並べて、新たな感興を呼び起こすという狙いを持つ。「晩学はゆっくりでいい、と思う。見上げる空に鰯雲」という訳である。  「鰯雲人に告ぐべきことならず(加藤楸邨)」。昭和の初期にこの句が発表された頃、プロの俳人にも「分からん」と述べた人が多かったという。近年は「取合せ」が退潮気味で、句会内にもこの手の句を理解できない人が出てきたようだ。その辺りを考えての一句か。作者は手練れ、と思う所以である。(恂)

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終活を主業と決めて秋の声      深瀬 久敬

終活を主業と決めて秋の声      深瀬 久敬 『この一句』  ちょっと古い辞書で引くと「しゅうかつ」の項は「就活」だけだったが、近年では「終活」が加わっている。ネット情報によると平成二十一年ごろから世間に広まった言葉だという。終活の専門誌も出版されており、月刊誌、週刊誌などの特集も相次いでいて、一種の社会現象になっているようだ。  周囲を見渡すと、誰も彼もが終活を始めているような雰囲気だ。ふと昔の受験勉強を思い出した。成績のいい奴ほど早く始め、最後までしっかりと勉強を続けている。それに対して成績の悪い私などは勉強に取り掛かるまでが長い。やっと勉強を始めたと思うと、すぐに飽きて漫画を読んだりしている。  句の作者が判明し、皆は顔を見合わせた。六十歳過ぎではあるが、句会の中で下から二番目に若い。「えっ、君が?」「しかも主業とは」などの声を聞きながら、私は頷いた。彼は大学の理系学部を優秀な成績で卒業し、スパコン「京」の開発にも参加していたという。優等生は終活でも優等生なのだ。(恂)

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姥捨の田毎に揺れる秋の色     後藤 尚弘

姥捨の田毎に揺れる秋の色     後藤 尚弘 『合評会から』(三四郎句会) 正義 棚田の秋の風景ですね。夕日が射しているのかな。 敦子 列車で信州の田舎に帰る時、よく姥捨を通りました。田植え前後の「田毎の月」で有名ですが、この句のような様子も見てきました。私の好きな風景です。 而云 姥捨は傾斜地に棚田が千五百枚もあるらしい。大小さまざまで、風の通り方も、日の当たり方も違うから、「田毎に揺れる秋の色」なんですね。上手な句だと思う。 尚弘(作者) 姥捨には何度も行っています。その日、その時々に田毎の様子が違って見えるんです。        *         *  長野県の二つの中心部・長野市方面と松本市方面をつなぐ篠ノ井線の姥捨。ここに行ったことのない人が多いはずだし、駅名「おばすて」(地名・山名などでは「うばすて」とも)を読めない人もけっこういるに違いない。この句は長野県出身の人、この地を知っている人が選んでいたようである。姥捨吟行を行った、例えば日経俳句会、番町喜楽会だったら、何人の人が選んだだろうか、などと考えた。(恂)

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被災地の闇夜に喚声川花火     岡田 臣弘

被災地の闇夜に喚声川花火     岡田 臣弘 『おかめはちもく』  東日本大震災の東北地方か、熊本大地震か、大災害に見舞われた町村で行われた花火大会であろう。苦労の末にようやく復興のめどがついて、地元にちょっぴり元気が戻ってきた。久しぶりの打ち上げ花火に喜びの喚声が湧き上がる。  とは言ってもまだまだ問題は山積している。家を建て直せないままだったり、職を失って心ならずも地元を離れた人たちも多い。被災地の闇は深い。花火大会にはそうした鬱屈を晴らすねらいもあるのだろう。轟音が腹に響く。  華やかさの裏に、しんみりとしたものを感じさせる良い句なのだが、中七の字余りが何としても気になる。こういう句は五・七・五のリズムを保ってこそ真価を発揮する。何故わざわざ「闇夜」と字余りにしなければならないのか。どう考えてもその必然性が思い浮かばない。恐らく「やみよ」という使い慣れた言い方につられて、何の気無しに、ということなのではないだろうか。そもそも花火大会は夜に決まっているし、これも「夜」を取ってすっきりさせたい。  「被災地の闇に喚声川花火」で句はすんなりと納まる。 (水)

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秋澄むや外階段を降りる音     星川 佳子

秋澄むや外階段を降りる音     星川 佳子 『合評会から』(酔吟会) 睦子 非常階段を降りる音が秋の澄んだ空気をよく表していると思います。 光迷 秋は水だけでなく空気も澄む。この感じよくわかります。僕の家の近くには大学や集合住宅がたくさんあって、トントンと階段を降りる音がよく響いています。 反平 日常どこにでもありそうな状況を敏感にとらえている。この人は詩情豊かな人ですね。 而云 今トントンと降りてきたのは女の人かなあ、何階の人なんだろうなどと、住民の様子をいろいろと想像している。物語が生まれそうな句ですね。           *       *       *  マンションもオフイスビルも、建物の外側に鉄骨鉄板むき出しの外階段の設置が義務付けられている。中々来ないエレベーターを待つよりもこれを使った方が早いし、気持がいいと言う若い人もいる。しかし、この階段は実によく響く。秋の澄んだ夜などは尚更だ。「秋澄む」という伝統的な季語に、現代生活の一コマを配して、絶妙な句に仕上がった。(水)

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逆さ霧太郎山に降る午前九時     高井 百子

逆さ霧太郎山に降る午前九時     高井 百子 『季のことば』  「逆さ霧」とは一体どのようなものだろう。さっぱり分からないが、山から霧が降って来るというのが面白い。霧というものは山間部に発生し、山肌を這い上って行くのが普通の景色だが、その逆というのは珍しい。  作者の句解を聞いて納得した。これは長野県上田市の北に屏風のように立つ太郎山(1164m)に発生する現象で、大昔から上田名物とされてきたのだという。上田市は北側を太郎山や虚空蔵山などが取り巻いている。ここに日本海からの湿った空気が風に乗ってやって来て突き当たり、押し上げられる。上空で急激に冷やされた湿った空気は凝結し雲霧となり、山頂から南斜面を滝のように降りそそぐ。これが「逆さ霧」なのだ。秋に多く、春にも見られるそうだが、いつ発生するか分からない。  大規模なものになるとナイヤガラの滝以上の迫力で神秘的だそうな。なるほどこういう環境で真田十勇士の霧隠才蔵が生まれたのだ。縁あって上田に住むようになった作者はせっせと地元の風土を詠んでいる。この句などまさに「天恵」であろう。(水)

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ほっこりとお隣りさんから南瓜椀     藤野 十三妹

ほっこりとお隣りさんから南瓜椀     藤野 十三妹 『この一句』  「こんなもの煮たので、お口に合わないかもしれませんが・・」。隣の奥さんが南瓜の含め煮を持ってきてくれた。実に懐かしい。煮南瓜とは何年ぶりだろう。喜んで押し頂いた。  「向こう三軒両隣」の昔はいざ知らず、防犯カメラのついたマンション住まいでお総菜の遣り取りとは、実に珍しい。ほのぼのとした気分になる。まさに上五の「ほっこりと」がぴたりとはまる句である。  昭和も四十年代半ばまでは、下町には木造の長屋が沢山残っており、山手の住宅街でも台所口や縁側は開けっ放しだった。今ではマンションにせよ一戸建てにせよ、玄関口のボッチを押してピンポーンと鳴らし、内側ではモニター画面で訪問者を確かめ、やおらドアを開けるといった状況。  この句を見た時、「嘘だー」と思った。しかし読み返すうちに、満更ウソでもないような気がしてきた。もしかしたら、隣近所全て高齢家族で自然に“隣組”が再現したのかも知れない。隣が誰だか分からないのがちっとも不思議では無い今日の都会の一隅に、こうした一コマがあると思っただけでほっとする。(水)

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助手席にシートベルトの大南瓜     玉田 春陽子

助手席にシートベルトの大南瓜      玉田 春陽子 『合評会から』(酔吟会) 涸魚 先日、運転しようとしたら警報音がピーピー鳴る。なんだろうと見回したら、助手席に大きな荷物が載っていたんですなぁ。助手席にある程度の重さがかかると、シートベルトを締めないと警報音が鳴るんですね。それが南瓜とはね・・・。面白い。 水馬 僕も涸魚さんと同じ経験をしたことがあります。大南瓜からシートベルトにもっていくとは、いいところに目を付けたと思います。 而云 南瓜はごろごろしちゃうからシートベルトを着けたのだと思いました。面白い句ですね。 正裕 助手席の南瓜とは、発想が実にユニーク。 反平 ユーモアがあって正しい俳句です! てる夫 安全運転上か。品評会用の大南瓜かな?           *       *       *  実際の光景か、大南瓜を見て思いついたのか。ウイットとユーモア溢れる、唸るばかりの句だ。(水)

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