莢あけて豆摘む子らに米をとぐ     向井 ゆり

莢あけて豆摘む子らに米をとぐ     向井 ゆり 『おかめはちもく』  「こういう日常の一コマを切り取った句が好きです。お子さんを見る温かい目を感じます。今夜は豆ごはんかな」(百子)、「夕餉支度する家族の幸せが伝わってきます。豆摘むの表現で正しいのかなとは思いましたが」(三代)と、女性会員から賛辞が集まった。ほのぼのとした味の伝わってくる佳句である。「豆」だけでは季語にならないが、この句は百子さんの指摘のように季語の「豆御飯」(夏)を潜ませた詠み方だ。  しかし、やはり言葉遣いに問題がある。「莢あけて豆摘む」という言い方は、間違いとは言えないが丁寧過ぎてくどい感じがする。それに莢は「開ける」のか「剥く」のか、豆は「摘む」のか「摘まむ」のかと、あれこれ疑念を抱かれる。母親と子どもたち皆で晩御飯の支度という、とても良い雰囲気をうたっているのに、こうした表現問題で足を掬われてしまうのはつまらない。  「子ら」とあるから子は二人以上だろう。こういう時、子どもたちは競争で剥いたりするものだ。莢を開けて豆を取り出すなどと説明せずに、子供のそうした動きを取り入れると一層生き生きとするのではないか。  (添削例)  競争で豆剥く子らに米をとぐ         (水)

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鏡見て冷や汗流す我も蝦蟇     流合 研士郎

鏡見て冷や汗流す我も蝦蟇     流合 研士郎 『この一句』  この句には驚いた。まさに私のことを言われたのではないかと思ったのである。腹が出っ張り、まことに不格好な身体になってしまった。前夜の酒が抜けきらず、洗面所の鏡を見て愕然とする毎朝なのだ。瞼は腫れ、アゴまでたるんでいる。なんのことはない、オレはまさに鏡を睨んで脂汗流す筑波山の蝦蟇(ガマ)じゃないか。というわけで、自己嫌悪も極まれりという傑作。  それで何はともあれ採ったのだが、「鏡に映った己が姿にトローリトローリと油汗が…。妙にリアリティがある句」(双歩)と、同じような感想を洩らす人もいた。  自らを一段貶めて笑いを取るのがユーモア精神だというが、これはまさにその骨法を得た句である。ただ、「この句の蝦蟇は喩えのガマガエルであり、季語としての役割を果たしていない」という非難があるかも知れない。でも、そんな難癖を吹き飛ばしてしまう面白さがある。(水)

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翡翠や真一文字の青つぶて     和泉田 守

翡翠や真一文字の青つぶて     和泉田 守 『この一句』  句会に出された元の形は「青つぶて真一文字の翡翠かな」だったが、「ひすいかな」では今どきの読者には宝石の翡翠とごっちゃになり、誤解が生じるのではないかといった意見が出て、作者はそれを取り入れ掲出句に改めた。  しかし「翡翠(ヒスイ)」は元々カワセミのことであり、宝石の翡翠はこの鳥の色から出たという話さえある。古代中国人はこの美しい小鳥を殊の外愛でたようで、「翡」はオスのカワセミ、「翠」はメスのカワセミと区別していたとか。ということであれば原句のままでも十分通用するのだが、「なるべく分かり易い方がいいですから」とあくまで優しい作者である。  「かわせみの飛ぶ姿はまさにこの通り」(涸魚)、「カワセミの素早さを巧く捉えています」(大虫)と、観察力確かなこの句を推奨する人が多かった。  川や池、用水路などに棲む魚や水棲昆虫を食べる翡翠は、水質汚染の日本の田園には住めなくなってしまった。それが近ごろ、また姿を見かけるようになった。自然環境浄化が進んだ結果だろう。嬉しいことである。(水)

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六月の窓に広がる無力感     深田 森太郎

六月の窓に広がる無力感     深田 森太郎 『この一句』  日経俳句会半期に一度の合同句会に出た句で、好評を博した。「共謀罪法案の成立を阻止できなかった無念さを込めたのかも知れませんね。しかしここは、雨が降っているのか曇り空か、梅雨時の鬱陶しい感じを詠んだものとして頂きました」(光迷)という選評があって、なるほどそうした時事句としての側面も感じられるなあと思った。  安倍政権は絶対多数議席を背に、首相始め各大臣の議会答弁には心がこもらず、政策遂行もおざなり、与党議員の不祥事も相次ぐなど、慢心、傲岸のそしりを免れない場面が多々見受けられるようになっている。にも拘わらず、各新聞の世論調査では、安倍政権を支持すると答える人が相変わらず4割台の高率である。これ一重に「他に支持する党が無いから」である。しっかりした野党の無い国は必ず滅びの道を辿る。そんなことを思わせる句である。  しかし、そうした現世の生臭さを忘れて、ただただこの句のうたう575をなぞるだけでもいい。六月という月の、気だるい、やる気の起きない雰囲気を十二分に伝えている。(水)

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六月は薄い長袖にて外へ     井上 庄一郎

六月は薄い長袖にて外へ     井上庄一郎 『季のことば』  六月は急に暑くなったかと思えば、妙に肌寒くなったりする、気候がまことに落ち着かない月である。月の前半は初夏らしい陽気が続き、気持良く晴れ上がる。こうなると日中は半袖がいいのだが、朝晩はかなりひんやりする。後半は梅雨に入り、降ったり止んだり、じめじめした天気が続く。しかし、数日降り続いた後はお日様が顔を出し、いわゆる「五月晴れ」となる。  というわけだから、六月の外出は「薄い長袖」に限るのだ。と、ただそれだけを述べた句である。それなのに、読み返しているうちに、何とも愉快な心持になってくる。「六月は」で一呼吸置き、「薄い長袖にて外へ」と開放感をうたい、不思議なリズムも感じられる。  雨上がりを待ちかねての外出だろうか。ともあれ「六月」という実に難しい季語をとても上手に詠んだものよと感じ入った。このように、何でもないようにすっと詠んで季節感を言い尽くすのは、やはり年輪の積み重ねがもたらすものではなかろうか。作者は当年卒寿。(水)

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ぼうふらに運動不足なかりけり     横井 定利

ぼうふらに運動不足なかりけり     横井 定利 『季のことば』  夏の声を聞くや、池や川の澱み、どぶ、人家の水溜りなどに、いつの間にか湧き出すぼうふら。落葉やゴミ、昆虫の死骸など腐敗した有機物を餌に、卵から孵ってわずか一週間でサナギになり、数日で脱皮し、成虫の蚊になる。蚊はすぐに交尾し、産卵のために栄養を蓄えようと人でも犬でも猫でも何でも、動物の血を吸う。そしてほんの少しの水たまりがあれば直ぐに産卵、たちまちそれが孵ってボウフラになり・・・。  しかし、ぼうふらは見て居ると実に面白い。「棒振り」とも言うように、水面近くに垂直に立ち、一日中身体をくねくねさせている。漢字で書くと「孑孑」。これも水中でくねくねやっているのを観察した古代人が考え出した字に違いない。こいつが憎らしい蚊になるのかとは思えない、ユーモラスな恰好だ。  この句の作者も閑人らしい。ぼうふらを見て感心している。クネクネ、クネクネ・・・、水槽の縁を叩くと一斉に沈んで見えなくなり、しばらくすると二匹、三匹、十匹、二十匹・・・後は勘定できないほど上がって来て、また、クネクネ、クネクネ・・。確かにメタボのぼうふらはいないね。(水)

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六月の花嫁元気に車いす    澤井 二堂

六月の花嫁元気に車いす    澤井 二堂 『おかめはちもく』   日経俳句会・酔吟会の合同句会に投句された一句である。選んだ句には事前のコメントを求められていたので、私はこの句を選んだ理由を次のように書いた。「『車椅子』で素晴らしい光景が見えてきた。『元気に』は一工夫欲しいが、なおかつ選びたくなる句である」。実に心温まる場面だと思う。  六月に結婚する花嫁(ジューンブライド)は一生幸せに過ごすのだという。その花嫁が車椅子に乗っていたのだ。怪我などによる一時的のものではなく、一生を車椅子で過ごす人なのだろう。しかし作者は「六月の」と詠んで、この女性が夫に愛され、素晴らしい人生を送るであろうことを暗示した。  「元気に」がちょっと残念である。結婚式のどういう場面なのかが分からない。例えば青空の下のテラスとか芝生の庭を想像させたらどうか。両家の親族や友人たちが待ち構えているところに車椅子の花嫁が現れる。一同は彼女の美しい笑顔を見て、歓声を上げ、一斉に拍手を送ったのではないだろうか。  添削例  六月の花嫁まぶしき車椅子   (恂)

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酔ひざめの厠の小窓明け早し    大澤 水牛

 酔ひざめの厠の小窓明け早し    大澤 水牛 『合評会から』(番町喜楽会) 百子 飲んで眠ってしまうと早くに目が覚めますよね。のどが渇いたりして。身につまされる句です。 正裕 これはまさしく私自身が詠むべき句でした。今朝も四時半に目が覚めトイレに行ったのですが、窓の外はすでに明るくそのまま眠れずに起き出したんです。 大虫 「酔ひざめ」「厠の小窓」と具体的なので、いいな、と思いました。 誰か そうか、水牛さんの家は厠に小窓があるんだ。 別の誰か しかし厠とは古いなぁ。最近のマンションのトイレには小窓はないし、昔の句みたいだね。 水牛(作者) いつも飲みすぎると四時頃トイレに行くんです。最近の句だから「トイレ」がよかったのかな。いやぁ、トイレとはしたくない、とも思いますね。             *          *  「トイレ」か「厠」か「便所」か。昔は「御不浄」や「はばかり」も使われていた。現在は「トイレ」が一般的だが、俳句では「厠」が優勢だと思う。小窓があるくらいなら「厠」の使用は何らはばかることはない。(恂)

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五月闇遠く昭和のカーバイト    野田 冷峰

五月闇遠く昭和のカーバイト    野田 冷峰  『季のことば』  五月ほど人々に好かれる月はない。ある老境の人は「あと何回、五月に会えるのか」と語っているほどだ。ところが旧暦に従っている俳句の場合、事情が大きく変わって来る。立夏、すなわち夏の初めは、太陽暦の五月五日頃。季節の到来は一カ月ほど早く、旧暦の五月は梅雨の季節なのだ。  そんな陰鬱な頃の「五月(さつき)闇」。夜の闇のほかに、昼なお暗い森の中などの形容にも用いられている。この句はどちらにも通じるが、夜中に神社とか寺の脇を通りぬけた場面を想像したい。参道の奥にちらつく明りを見て、作者は祭や夜店でお馴染だったカーバイトの灯を思い出したのだ。  カーバイトは炭化カルシウムの俗称だという。第二次戦後間もない頃、これを燃料としたランプが夜店の灯りなどに用いられ、妙な匂いを発していたような記憶がある。作者は闇の奥の灯りにカーバイトランプを思い出し、心の中に昭和時代が甦ったのだ。平成も残り少ない。昭和はますます遠くなる。(恂)

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夏来たる散歩に歌ふ祖父と孫    田村 豊生

夏来たる散歩に歌ふ祖父と孫    田村 豊生  『この一句』  俳句に「孫」は禁物だと言う。句会では「孫」の一字を見ただけで、その句は選ばない、という俳人もいるそうだ。孫可愛さの余り、祖父や祖母自身が目を細めるような句を作ってしまうからである。「“孫俳句”のどこが悪い」と力んだ友人が自作を見て、「やっぱり脇が甘いなぁ」と語っていたのを思い出す。  この句はしかし、祖父と孫との関係を客観的に描いている。作者が日課のウォーキングに励んでいたら、祖父と孫と思しき二人が何か歌を歌いながら元気よく歩いていた、というような状況が考えられよう。老幼コンビはとても仲がよさそうで、いかにも初夏の朝に相応しい光景だが・・・。ここまで考えて、ふと気付いた。  句の作者は、もしかしたら祖父ご本人なのではあるまいか。「孫俳句」への苦言は、もはや俳句の常識である。そこで作者は孫との様子を客観視したように見せかけたのかも知れない。老獪な作戦とも言えるが、作品そのものはすっきりと出来上がり、孫へのデレデレ感は明らかに薄れている。私もこの手で行くか、と考えた。(恂)

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