早朝の風切るバイク五月かな     池内 健治

早朝の風切るバイク五月かな     池内 健治 『この一句』  五月の早朝の空気が伝わって来る。東の空が明るみ始めた頃、風を切ってバイクの走って来る音がする。しばらくすると、書斎の開けた窓の隙間から、外の石段を勢い良く駆け下りて来る足音が伝わってきて、郵便受けにモノが放り込まれたかたんという音がする。そうか、もう新聞が来たんだなと、取りに出る。  まだお日様が昇って来ない、かはたれ時の空気は初夏とは言えひんやりする。パソコンに向かって原稿を書いていてつい夜更かししてボーッとなった頭には気持がいい。うーんと伸びをして、朝刊の一面をざっと眺めて、やおら寝床に潜り込む。普通の人たちがそろそろ起き出す頃合いであろう。  とまあ、この句を見てそんなことを考えたのだが、ちょっと待てよと思う。  もしかしたら、この早朝ライダーは作者自身なのではないか。「早朝の風切る」と来て、「五月かな」。つまり身体全体で明け方の五月の風を受けて、三、四月とは違う、「やはり五月だなあ」と感じる。こう取った方が徹夜よりよっぽど健康的ではある。  『田一枚植て立去る柳かな』立ち去ったのは早乙女か観察者の芭蕉か──そんな論争の句も思い起こさせる、二通りに取れる面白い詠み方の句だ。(水)

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葉桜に上野は元の上野かな     澤井 二堂

葉桜に上野は元の上野かな     澤井 二堂 『季のことば』  彼岸桜やソメイヨシノは別として、山桜や大島桜など大概の桜は花時から葉をはやす。ソメイヨシノとて花が散るのももどかしく葉を噴き出す。というわけで、東京近辺では晩春四月下旬には立派な葉桜になっているのだが、俳句で「葉桜」と言えば夏の句となる。これは五月に入って陽ざしが日に日に強くなり、それが若葉に照り返したり、葉の隙間を縫って地上に降りそそぐ陽光が印象的なことから、初夏の季語に定着したのである。  この句は「花の上野」の後日談。花見時の上野の山の騒々しさといったらない。昼も夜もキチガイザタである。花見に浮かれている人はいいが、展覧会に行こうとする人や、地元の人たちにとってはうんざりだ。それが葉桜になった途端、いつもの上野山に戻ったというのである。  「葉桜に全くひまな茶店かな 近藤いぬゐ」という句もあるように、飲食店などは雑踏が消えて困るのだろうが、ここを日常散歩コースにしている作者にとってはほっとする季節に違いない。上品な諧謔をたたえた佳句ではないか。(水)

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菜を洗ふ水の軽さよ風光る     岡田 臣弘

菜を洗ふ水の軽さよ風光る     岡田 臣弘 『合評会から』(日経俳句会) 而云 感じのいい句で「水の軽さ」と「風光る」が合っている。「風光る」とはこういうことなんだろう。 誰か 「顔洗う」でも成立するかな。 作者 家内の留守の昼に台所でレタスを洗ったんです。 悌志郎 台所じゃ「風光る」はどうかな、屋外のイメージだから。 明男 「水の軽さよ」という表現に感心しました。「風光る」の季語とピッタリ合っています。 万歩 リズムがよく心も軽くなる秀句。           *       *       *  「風光る」は歳時記によっては仲春三月の季語とされている。春らしさが定まった晴れた日にやわらかな風が吹き渡ると、万物が輝いているように感じられるからであろう。しかし、肌寒い初春の風だとて、北風には無い光がある。晩春四月の駘蕩たる風もまばゆい。取り合わせるものによって三春それぞれの趣のある句になる。「風光る」は三春に通じる季語とした方が良さそうだ。(水)

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多摩川の古墳のまもり濃山吹     池村 実千代

多摩川の古墳のまもり濃山吹       池村 実千代 『季のことば』  東京近辺では四月、ソメイヨシノが散る頃に山吹が咲き始める。山裾や池の端、庭園の片隅などにこんもりと浅緑の茂みを作り、鮮やかな黄色の花を次々に咲かせる。  渋谷から東横線電車で横浜方面に向かうと、多摩川駅の左右はこんもりした山になっており、その南側は多摩川に面して切り立つような崖になる。この山は武蔵野台地の西南端に当たり、河岸段丘を利用した古墳である。線路際の前方後円墳「浅間神社古墳」「亀甲山古墳」から、多摩川の上流へ向かって第三京浜玉川インターチェンジ近くまで、古墳が十数個連なっている。  この辺一帯は四世紀から六世紀にかけて、大和政権と拮抗する勢力が存在したらしい。上野下野(かみつけしもつけ=現在の群馬栃木)に王国があり、この多摩川が西への最前線だったという説もある。多摩川は今でこそ治水設備が行き届いたせいで、川幅は極端に狭く、水流も実に情けなくなっているが、大昔は大河だった。古代人はこの川を船で上下し、時にはここから船出して海に出て遠洋航海したのだ。その勇者達の眠る墳墓を山吹が健気に守っている。(水)

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日の入りを惜しみて飛ぶや初燕     谷川 水馬

日の入りを惜しみて飛ぶや初燕     谷川 水馬 『合評会から』(酔吟会) 睦子 日が伸びて来て、初燕が颯爽と飛ぶ。美しい光景だなあと思いました。 操 爽やかさですね、この季節の・・。それを最も強く感じました。 涸魚 何の技巧も凝らさず、見たままをさあっと詠んだだけという感じの句なんですが、初夏の感じをよく伝えるいい句ですね。 てる夫 燕は虫を捕っては巣に運び、また飛んで、と非常に忙しい。それを「日の入りを惜しみ」と夕方に持って来て、そういう生態を表したところに新鮮さを感じました。生きものの性(さが)というんでしょうか、それぞれの生態がありますが、この句は燕の様子をよく伝えています。           *       *       *  昨十三日に行われた酔吟会でトップ賞に輝いた句。皆さんが評したように、燕の様子を描き切っている。私も真っ先に採った。何と言っても「日の入りを惜しみて飛ぶ」という措辞がいい。この日暮れ時が羽虫はじめ空中を浮遊する虫が最も多くなる時間帯なので、燕にとってはかき入れ時でもあるのだ。縦横十文字に飛び交い、目が回るようだ。(水)

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残されし枝の空き巣や柏餅     高井 百子

残されし枝の空き巣や柏餅     高井 百子 『おかめはちもく』  最近、二つの句会に「柏餅」の兼題が出て、この季語は取合せが豊富にきく、と感じていたが、掲句に関しては初め、「どうかな」と思った。「枝に残る鳥の空き巣」と「柏餅」の取合せは「離れ過ぎ」ではないだろうか。ところが句を何度か眺め直しているうちに、一つの情景が浮かんできたのだ。  広い庭があり、大きな木があり、その高枝に何かの鳥の巣が残っている。縁側か窓際の部屋に作者が座っていて、「あんな所に鳥の巣が」に気付く。枯葉は落ち尽し、新芽が伸び始める頃。皿の上の柏餅に手を伸ばし、葉を取り、賞味しながら、まだ鳥の巣を眺めている。季節感もあって、悪くない、と思う。  ただし読み直して上五と中七に違和感が残った。「残されし」と「枝の空き巣」のつながりが何となくすっきりしない。まず上五は、「高枝に」と行くべきだと思う。そうすると芽立ちの始まった頃の大きな庭木の向うに、五月の空が見えてくるのではないだろうか。ふと気づけば鳥の空き巣が――。(恂)  添削例  高枝に鳥の空き巣や柏餅

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鎌倉の小町小路に燕来る     井上 啓一

鎌倉の小町小路に燕来る     井上 啓一 『季のことば』  四季があって二十四節気があり、さらに七十二侯も・・・。中国から渡来したという気候の区分は実に細分化されている。その二十四節気の中の「清明」を三区分した最初が七十二候の「玄鳥至」(つばめ来たる)で、四月の五日頃になる。念のため「玄鳥」は黒い鳥、すなわち燕のこと。  句の作者は先ごろ鎌倉に出掛け、鎌倉駅前の小町通りを歩いていると、頭上を燕が通り過ぎて行ったという。もう五月だから、燕が飛んでいても不思議はないが、作者にとって「初燕」であり、「燕来る」なのである。「おっ、燕」と新鮮味を感じたのは東京に燕が少なくなっているせいだろう。  鎌倉の小町通りは八幡宮への本道・若宮大路の脇道だが、昨今は外国人など観光客でごった返すほどの状態。そういう混雑の中で燕を見つけたのも一興である。なお「玄鳥至」はもともと中国周代の「礼記」あった言葉。始皇帝時代以前の季節感が、現代の日本にまで延々と通じていた。(恂)

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鍛ふべき男の子は生さず柏餅    高瀬 大虫

鍛ふべき男の子は生さず柏餅    高瀬 大虫  『季のことば』  柏餅はさまざまな思いや思い出につながる和菓子であるようだ。番町喜楽会(五月八日)から拾った例を挙げてみる。新聞紙で折った兜、鬼ごっこ、厨の母、コンビニに変わった和菓子店、缶蹴りの缶の行方、縁側のあった昔の家――。どの句にもちょっと立ち止まって考えたくなるものがあった。  掲句は長いスパーンを持つ思いを述べている。結婚し、子供は出来たが、男の子は遂に生(な)さなかった。女の子がいて幸せだが、男の子を厳しく指導し、勉強を教え、我慢強さを身につけさせたい、と描いていた夢は実現出来なかった。柏餅を食べながら「これも我が人生か」と思うのだろう。  三月の雛祭が終わり、四月も半ばを過ぎる頃、街の和菓子店に柏餅が並ぶようになる。「あれを買おう」という目的がなくても、何気なく買ってしまうのが柏餅の特徴でもあるという。桜餅の葉とは違う、ごわごわした無骨な柏の葉。あの葉の内側にはやはり、男の思いが宿っているらしい。(恂)

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山峡に十軒の屋根濃山吹     廣上 正市

山峡に十軒の屋根濃山吹     廣上 正市 『合評会から』 哲 映像的な句ですね。峠を登って行って眼下に十軒くらいの村があり、農家の庭先に山吹が咲き乱れている、という風景ですね。のどかな雰囲気が感じられます。 反平 同じような風景を見たことがありましてね。房総の方に行たら、谷が切れ込んでいて、人家があった。句にしようと思ったが、うまく纏まらなかった。この句は上手いですね。 正裕 「十軒」というのがどうですか。数えるのに時間がかかりますよね(笑い)。二、三軒ならいいけど。まあ、それはさておき、いい句だなと思いました。 万歩 春雨にけぶる山峡の里の景が浮かんできました。                * *  山峡は「やまかい」あるいは「やまあい」と読む。山と山の間のことだが、万葉集の作例には「山間の人里」といった雰囲気があった。句は山道から見下ろした一部落の風景なのだろう。十軒ほどの農家が固まっているが、人は見えず、山吹の黄が濃い。日本画的な雰囲気が浮かび上がってくる。恂)

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春深しますます目立つ厚化粧     植村 博明

春深しますます目立つ厚化粧     植村 博明 『この一句』  「連想」は俳句作りの一つのポイントである。芭蕉の昔から言われた「取合せ」とか「配合」によって生じるのだが、対応する二つの言葉を見てすぐに「なるほど」と納得するようでは余り面白くない。しばらく句を眺めていると、じんわりと心の中に生れてくる、理屈を超えた連想が最上ではないだろうか。  この句から、私はそんな類の心の反応を得た。紫外線が強くなって来る頃だから、女性は厚化粧する、というようなことではない。「春深し」と「厚化粧」。何となく共通点がありそうで、なさそうで・・・。やがて往く春を思う年配女性といった具体的な解釈に進みがちだが、さらなる奥があるように思える。  句会の合評会でのこと。この句に対して「都知事ではないか」という声が飛び出したので、非常にびっくりした。言われてみれば「ますます目立つ」あたりには、確かにそんな雰囲気も感じられよう。俳句は「言葉足らず」の文芸である。そのために生じる連想の数々も俳句の奥深さ、と思うことにした。(恂)

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