闊歩する女まぶしき夏始     竹居 照芳

闊歩する女まぶしき夏始     竹居 照芳 『季のことば』  「夏始(なつはじめ)」は「初夏」の言い換え季語。夏を三つに分けて最初の一ヵ月を言い、五月ということになるのだが、まあ六月に入っても入梅までの爽やかな気分の頃なら通用する。  とにかくこの時期が一年中で最も過ごしやすい。最近でこそ地球温暖化の影響で夏日とか猛暑日などがあるけれど、七、八月とは違って風は涼しく、街路樹の蔭にでも入ればとても心地良い。  この句はそうした初夏の繁華街を生き生きと描いている。女性の時代と言われて久しいが、近ごろとみにその傾向が強まっている。特に若い世代と高齢世代で女上位が目立つ。若い二人連れなど、どう見ても女の方がしゃんとしている。七〇代以上では、これはもうバアサンが断然である。  「闊歩する女」とうたったのが素晴らしい。銀座通りなどを闊歩する女は昭和二〇年代からいたが、どちらかと言えば肩肘張って闊歩する感じだった。近ごろのは極めて自然に闊歩している。(水)

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薄暑かな桜島背にナポリ祭     流合 研士郎

薄暑かな桜島背にナポリ祭     流合 研士郎 『この一句』  ローカル色あふれ、楽しげな様子が伝わって来る。鹿児島でナポリ祭というお祭りをやっているのだろう。私はそれを見たことはないのだが、鹿児島の中心部にナポリ通りというのがあって、毎年五月、そこを中心にピザやパスタや本場イタリア料理の屋台が出たりして、人気上々のイベントが繰り広げられるらしい。桜島の噴煙を背景に、ヴェスビオ火山のナポリから人を招いて、賑やかに祭を繰り広げている。イタリアワインと薩摩焼酎が飲み放題なんてことも・・。  国際化という時代の流れで、各地で外国の姉妹都市と提携したイベントが行われている。浅草で八月に行われるサンバ・カーニバルが有名で、本場リオから踊り子を招いたり、コンテストをやったりして五十万人以上の人出で物凄い賑やかさだ。  鹿児島ナポリ祭は果たしてどんなものか。「薄暑かな」と頭に季語を置いたこの句からは、それほどのバカ騒ぎではなく、爽やかな催しという感じがする。地名を句に詠むのは難しいものなのだが、この句は「桜島背に」という措辞がとても効いている。(水)

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徒歩なれば色や音ある夕薄暑     金田 青水

徒歩なれば色や音ある夕薄暑     金田 青水 『合評会から』(日経俳句会) 昌魚 去年の春に免許証を返上しました。半年ぐらいは不便だったが、その後は徒歩の方が音とか色とか周囲がよく分かるようになった。「夕薄暑」に掛けて詠んでいるのがいい。 弥生 確かに歩いてみれば色が分かり、気がつくことも多い。夕薄暑に合っている。ただ、「色や音ある」という表現が少し未消化だとも感じました。 実千代 私は「色や音ある」が心にスッと入ってくるのでいいなと思ったんです。 博明 電車やクルマでなく、歩くとわかることが多い。実感です。           *          *          *  初夏の夕方の散歩の気分がよく出ており、句会で人気を集めた句。しかし、「徒歩なれば」という言い方が気になった。「・・・なれば」は、「発見」を大切にする俳句ではしばしば用いられる措辞で、便利なのだが、どうも理屈っぽい感じになってしまう。作者からのメールに最近作として『吟行は徒歩のリズムよ新樹光』とあった。こちらを句会に出してくれていたらなあと思った。(水)

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母の日の残業終へて母走る     今泉 而云

母の日の残業終へて母走る     今泉 而云 『合評会から』(日経俳句会) 実千代 母の日の句として楽しくていい。お母さんの愛情を表わしている。 智宥 「この人、作文したな」と三〇%くらい思った(大笑い)。ただ、だまされてもいいなと思いつついただいた。 水馬 家で子供が待っているのだろう。今風の絵になっているなと思った。 正 パートの主婦だと思う。母の日だから家には子供たちからのプレゼントが待っている。わくわくしながら帰宅を急いでいる情景がよくわかる。 てる夫 このお母さんは、家のことが気になってしょうがない。それで道を急いでいる。お涙ちょうだいの映画シーンになりそうな句だ。 博明 家に急ぎの用事があったのでしょうか。生活感があふれて、いいです。           *       *       *  句会では「母の日は日曜日、それなのに残業とはブラック企業かな」などと言って混ぜ返したが、流通業なら日曜祝祭日の勤務は当然だ。これまでに無い、実に面白い「母の日」俳句である。(水)

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薄暑から雲を隔てて延暦寺     高橋ヲブラダ

薄暑から雲を隔てて延暦寺     高橋ヲブラダ 『おかめはちもく』  選句表の中にこの句を見つけた時、「なかなかの句だ」と感心したのだが、句会では意外に点が入らなかった。「薄暑から」が分かりにくかったようだ。作者は「薄暑の街から」雲を隔てて比叡山の延暦寺を眺めたに違いない。山腹に雲が掛かっていたのだろう。いかにも薄暑を思わせる風景である。  ところが以上の解釈に確信が持てなかった。京都には何度も行っているのだが、市内から比叡山を見た記憶がない。京都へ仕事で行けば、そちらの方に神経が集中している。観光の時は市内のお寺や神社などを見て回るので、比叡山を眺めたことがなかったのだ。果たして京都市内から見えるのだろうか。  ネットで調べたところ「比叡山は京都市内のどこからでも見ることが出来る」と書いてあった。これで状況に間違いはない。句意は「薄暑の京都市内から雲を隔てて」となる。それなら常用の省略法を用いて、上五を「京薄暑」とするだけでいい。比叡山と眺める人の位置関係がはっきりしてくるだろう。  添削例  京薄暑雲を隔てて延暦寺   (恂)

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サイダーの泡のはじけて初夏の風     石黒 賢一

サイダーの泡のはじけて初夏の風     石黒 賢一 『合評会から』 照芳 プチプチという泡のはじける音が聞こえてきそうです。 賢一(作者) サイダーははじけて、顔に当たりますね。あの様子を表現したかったのですが。 而云 サイダーも夏の季語ですが、(初夏との)季重なり感はあまりない。 敦子 いかにも初夏らしい風景。サイダーって本当に懐かしい飲み物ですね。 信 ところが清涼飲料水の中で、いま一番売れているのがサイダーらしいです。(えっ、本当?の声)。             *         *  「泡がはじけて」と「初夏の風」によって、顔に当たった泡が瞬間的に気化していく、あの清涼感が生まれていると思う。「サイダー」は夏の季語で、兼題だった「初夏」との季重なりになるが、作者は気付かずにこのように詠んだらしい。季重なりを避けていたら、泡が顔にはじける感じが生まれたかどうか。 それにしても「清涼飲料の中でサイダーが一番売れている」というのは意外。かつてはラムネより高級感があったが、今では大衆的な夏の清涼飲料の代表格になったようだ。「顔にプチプチ」。いい感じですね。(恂)

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夏初め母亡き庭の草むしり       石丸 雅博

夏初め母亡き庭の草むしり       石丸 雅博 『合評会から』(三四郎句会) 久敬 亡くなったお母さんを偲びながら、庭の草を抜いているのだろう。しみじみとした風景です。 照芳 私も同じように感じました。家にはもう誰も住んでいないのかも知れない。私の場合を言えば、家内の母が独りで住んでいるので、いろいろ考えさせられました。 正義 お母さんが亡くなって間もない感じですが、草むしりや庭掃除は一回やって終わりというものではない。これからは毎年、命日には草を抜きに行くのでしょう。 進 親が亡くなって誰も住んでいない、そういう家が最近、増えているそうです           *        *   かつては自分が育った家なのかも知れない。そこにご両親が住んでいたのだが、何年か前に母親だけになり、今では住む人がいなくなった、という状況を思い描く。初夏は雑草が最も勢いよく伸びて行く季節である。放置しておけば手がつけられなくなるだろう。草むしりはなかなかの労働だが、亡き母との会話が始まるのではないだろうか。「お母さんも、こうして草を抜いていたのですね。秋にまた来ますよ」。(恂)

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生き上手死に上手の人さくらんぼ  横井 定利

生き上手死に上手の人さくらんぼ  横井 定利 『この一句』  生き上手にして死に上手の人。生前は友人や知己と仲良く付き合い、例えば俳句などに親しみ、一生の趣味として楽しんでいた人だろう。さらに老後も元気に過ごし、家族にさほどの迷惑を掛けることなく、別れの言葉を交わすほどの余裕を持ちながらあの世へ旅立った、というような人を想像させる。  そういう人柄であることは分かるが、「その人とさくらんぼの関係が分からない」とある人が言った。さくらんぼを食べながら故人を懐かしんでいるのだろう。奥さんとその人のことを話し合っていたのかも知れない。そういう回想や会話と、さくらんぼの取合せにはなかなか味がある、と私は思った。。  昭和の一時期、「二物衝撃」という作句法が俳句界を席巻したことがあった。「取合せ」「配合」などと言われる手法と同じだが、もっと衝撃的な取合せを意味していた。近年、「二物衝撃はすでに死語」などと説明されている。掲句のような“温和な二物衝撃”も解釈されにくくなってきたのだろうか。(恂)

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本閉じて街の音聞く日永かな     大倉悌志郎

本閉じて街の音聞く日永かな     大倉悌志郎   『この一句』  作者はその日の午後を、読書で過ごしておられたのだろう。「もうこの辺で」と頁に栞を挟み、本を閉じる。気持が書物から離れたとたん、街の物音が耳に入って来たのだ。春も終りに近い、日永の頃である。窓を開け放つというほどではないが、風が少し通る程度に開けていたのではないだろうか。  私(筆者)は長年、ものを書くことを仕事にしてきたので、書物を書棚から取り出すことはもちろん多い。ところが読書に親しむ、という気分を味わったことがほとんどないのだ。原稿を書くために必要なネタを集めるという前提があるので、お目当ての記述を見つければ、本は書棚に元通りなのである。  この句を見て、日暮に近い頃、書を閉じて街の音を聞くとは、格好いいなぁ、と思った。句自体の出来もいいが、それ以上に作者の生活が羨ましかった。私も真似て見よう、と本を読み始めてみたら、習い性がすぐに顔を出した。興味深い個所に出会うと読むのを止め、メモをとってしまうのである。(恂)

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カモのひな一羽ずつ減る池の謎     片野 涸魚

カモのひな一羽ずつ減る池の謎     片野 涸魚 『おかめはちもく』  これは実に不可思議な話で、まさにミステリー。作者の散歩コースにある池のカモが雛を孵した。とても可愛いから、近隣の大評判になって、大勢で見守っている。もちろん作者も毎朝それを見るのを楽しみにしている。  ところが、その雛が一羽ずつ減っていく。あんなに元気にしていたのだから、病死というわけはあるまい。誰かが一羽ずつ盗んで行くとも思えない。「鴉に取られたのではないか」「いや大鯉に吞まれたんだ」「亀に喰われたに違いない」と、いろいろな噂が飛び交うのだが、いずれも現場を見た人は居らず、謎のままなのだという。句会ではこの句を巡ってひとしきり話に花が咲いた。  とても面白い句なのだが、この句には季語が無い。というより、鴨は夏前に北方大陸へ帰ってしまうから、動物園ではいざ知らず、野生の鴨が日本で雛を生み育てることはないのだ。従って「鴨の雛」という季語は存在しない。ただ一種類、渡りをせず一年中日本に居る軽鴨(かるがも)がいる。これは夏に雛が孵り、「軽鴨の子(かるのこ)」という夏の季語になっている。この句もぜひそれを使って欲しい。  軽鴨の子(かるのこ)の一羽づつ減る池の謎           (水)

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