散り散りにやがて一つに花筏     嵐田 双歩

散り散りにやがて一つに花筏     嵐田 双歩 『季のことば』  「花筏(はないかだ)」とは何とも美しい言葉ではないか。満開の桜は盛大に散る。吹雪や嵐にたとえられるほど、すさまじい勢いで花びらを散らす。見事と言うよりほかに無い散り際である。前の大戦ではそれを「潔い大和魂の象徴」と持て囃し、若い命を無造作に捨てさせた。そんなこともあって昭和一桁生まれには「桜は好きじゃない」という人がめずらしくない。それももう遠い昔。今はただその美しさを素直に愛でる、有難い世の中になっている。  しかしそれもいつまで続くことやら。総理大臣が「北朝鮮はサリンを弾頭につけたミサイルを打ち込んで来るかも知れない」と軽はずみに言い、国民を不安に陥れる世の中である。  さはさりながら、このサクラの国の民は累卵の危うきにあることも全く意に介さない。そう、そんなことを思いわずらっても詮無いことなのである。ちりぢりに散る桜のなんと美しいことよ、水面に落ちた花びらはやがて流れるままに一所に集まり、豪奢な花のベッドを作る。そこにそっと横たわって西方浄土に運ばれましょうか・・・。双牛舎俳句大会の第2位「地」賞の句である。(水)

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春耕の一鍬ごとに土生まる     徳永 正裕

春耕の一鍬ごとに土生まる     徳永 正裕 『この一句』  四月十五日に行われたNPO法人双牛舎総会・俳句大会で見事「天」賞に輝いた作品である。「『土生まる』の表現が素晴らしい。冬の間、乾燥して白く固まっていた畑の土が、春先に耕され、黒々とした土が現れる。それを『生まれる』と見た作者の感受性の豊かさと、春の喜びが伝わってくる」(中村哲)という選評にすべてが言い尽くされている。  作者は千葉県佐倉市の住人。東京のベッドタウンとして市中心部は住宅密集地になっているが、ちょっとはずれるとまだまだ畑や田圃や林が残っている。素晴らしい歴史博物館のある佐倉城もある。散歩コースには事欠かない。その折の写生であろう。  春耕の真っ盛りは二月、三月。まだまだ寒い。鍬が打ち込まれ、掘り起こされると、真っ黒な土が顔を見せる。冷たい外気に触れた黒土が真っ白な湯気を立てている。まさに新たな命を吹き込まれたように見え、感動を覚える。この句によってみんなの心の中にしまわれていた原風景が甦ったせいせあろう、会場は盛大な拍手に包まれた。(水)

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屋久島の春の残雪紀元杉     渡邉 信

屋久島の春の残雪紀元杉     渡邉 信 『おかめはちもく』  屋久島に春の雪! 九州の最南端・佐多岬から70舛眄茲療腓覆里法△箸咾辰りするが、別のことにも気付かざるを得ない。「残雪」は春の季語なのだ。淡雪、陰雪、雪間、雪崩なども同類である。「雪解」であれば「春かな」と思うが、それと同類の解け始めの雪はほとんど春の季語になっている。  句会でそんな注意をしたら、「へぇ」と驚く人が何人かいた。一カ月置きの句会で、準初心者クラスもいるから、仕方がない面もあるだろう。ともかく「春の雪」か「残雪」のどちらかを選らばねばならない。「屋久島の縄文杉に春の雪」ではどうか、と提案したら「それはだめです」とのこと。  紀元杉までは行き易いのだが、縄文杉までは、そこから山路を往復十時間も歩くので「私には無理です」という。「俳句にはフィクションもOK」とは言うものの、この場合はさすがにまずいだろう。そこで春雪を所どころにまとった屋久の大杉の様子を描いてみた。紀元杉を見上げる感じが出ているだろうか。  添削例 「春の雪キラキラ屋久の紀元杉」  (恂)

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まんまるに頬膨れたる木の芽かな    宇佐美 諭

まんまるに頬膨れたる木の芽かな    宇佐美 諭 『この一句』  「あるなぁ、こういう木の芽」と思った。しかし思い描く芽が何の木の芽なのか分からない。落葉樹であることは確かなのだが、それから一歩も先に進んで行かない。公園の樹木など、家の近くに生えている樹木を思い浮かべてみたが、木の名称そのものを知らないのだから話にならない。  作者は木の芽を見て「おや、まん丸だ」と思ったのだろう。続いて乳幼児の頬のようだ、と気付いたに違いない。この「頬」の一字が大手柄で、だれもが乳幼児の可愛らしい笑顔を思い浮かべるはずだ。「まんまるに膨れ上がった・・・」だったら、イメージは木の芽に留まったままに違いない。  一種の擬人法かも知れないが、「お花が笑った」のような作意が感じられない。木の芽を見て、ごく自然に幼児の頬に思い至ったからだろう。この文を書いている時、部屋の窓の下を保育園児の列がわいわいがやがやと通って行った。丸い頬のような木の芽ももう葉になっていく季節である。(恂)

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春の泥どかどかと来る選手達      田中 白山

春の泥どかどかと来る選手達      田中 白山 『この一句』  この句を見たとたん、若い頃に取材していた大学運動部の部員たちの様子がありありと浮かんで来た。スポーツ有力大学の練習場や合宿所はおおむね本部から離れた郊外にあり、この時期になると、野球、ラグビー、サッカーなどの選手たちは春泥をものともせず、グラウンドを走り回っていた。  そしてこれは、彼らが練習を終えた後、合宿所に帰る時の様子だろうと勝手に思った。合宿所はグラウンドのすぐ脇であったり、数百辰睥イ譴討い燭蠅靴拭そこまでは舗装されていない道があり、合宿所の敷地がぬるみ状態になっている所もあった。選手たちはそんな所をどかどかと帰っていくのである。  何十年も前のことだ。グラウンドも施設もおおむねよくなっているが、今も大差のない所もあるようだ。この句に「語順を変えたらどうか」というコメントがあった。「どかどかと選手らの来る春の泥」「春泥やどかどかと来る選手たち」・・・。人の句だが、気に入っているので、いろいろやってみている。(恂)

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春愁を炭酸で割る午後のバル      廣田 可升

春愁を炭酸で割る午後のバル      廣田 可升 『合評会から』(番町喜楽会) 百子 「炭酸で割る」がいいですね。春愁を断ち切る感じがします。 光迷 カンパリソーダかな。それにおいしい生ハムがあれば、春愁なんてどこかへ行ってしまう。 大虫 炭酸とバル(南欧風の軽い居酒屋)ですか。もやもやはすぐに晴れるでしょう。 誰かと誰か 「しゃれている」「そうですね」の声。 冷峰 春愁を炭酸で割ると、どうなるのかな。私は「午後のバル」に乗りましたが。 *          *  「春愁」は歳時記に「三春」とある。初春、仲春、晩春のどれにも適応する季語ということだが、行く春を惜しむ気分とどこか通じているようにも思われる。洒落た居酒屋に独り、例えばイタリアのリキュール、カンパリを注文し、ソーダ水をグラスに注ぐ。グラスの中に潜む春愁は、プツプツと湧き上がる気泡とともに空中に消えて行くのだろう。バルに客はちらほら、薄めのカーテンから洩れる光は初夏を思わせるほど。合評会の「しゃれてる」の声はまさにその通り。「午後のバル」も確かに効いている。(恂)

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片づかぬ書架に春愁いすわりぬ     玉田春陽子

片づかぬ書架に春愁いすわりぬ     玉田春陽子 『合評会から』(番町喜楽会) 冷峰 よく分かる話ですね。私も同様で、上手に詠んでおられると思いました。 可升 私も本棚の前に座り、考え込むことがありますよ。 双歩 会社勤めが終わる頃、誰でもこういうことになるんじゃないですか。 てる夫 どちら様も同じようですね。ホッとしました。 光迷 書架は大げさすぎると感じましたが。 春陽子(作者)「本棚」は一音多く、中七に収まりにくい。「書架」はまあ、苦肉の策ですかな。        *         *  「句会は一つの世代の集まり」とある俳人が語っていた。確かに俳句会にはその傾向があり、この「合評会から」のコメントにも同世代の色が濃く表れている。句会で最高点のこの句、もしメンバーに若い人たちが揃っていたらどうだったか、と考えた。彼らも「やがては自分の姿」と理解し・・・・。いやそれ以前に、若い人は自分たちだけで句会を作ってしまうのではないだろうか。(恂)

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蓬餅朱の箸買ふや城下町     水口 弥生

蓬餅朱の箸買ふや城下町     水口 弥生 『おかめはちもく』  うらうらと春の陽ざしを浴びながら城下町を歩いている。近頃ブームの「お城巡り」の旅かも知れない。のんびりとした感じが伝わってくる良い句だ。  しかしこの句は、句作上よろしくないと言われる「三段切れ」になっている。「蓬餅」で切れ、「朱の箸買ふや」でまた切れ、「城下町」と名詞止め。上中下いずれにも句切れがある。このような形ではぶつ切れで印象散漫になってしまいがちなので、「三段切れはまずい」と言われるわけだ。しかし、それを逆手に取って、軽快なリズムを強調し効果を発揮する場合もあるから、一概にダメとは言えないのだが、まあこうした詠み方は避けた方が無難である。  では、この句はどうすべきか。蓬餅とか朱の箸とか、どうでもいいようなものを買ってしまいたくなる雰囲気が味を出しているのだから、大きくいじってそれを壊したくない。ここは切れ字の「や」をはずすだけでいいのではないか。さらに「も」を置けば口調が整い、蓬餅が「主」で朱の箸が「従」であることがはっきりして、スムーズに流れる句になるのではなかろうか。     蓬餅朱の箸も買ふ城下町          (水)

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手分けして家族七人蓬餅     廣上 正市

手分けして家族七人蓬餅     廣上 正市 『季のことば』  餅は節季ごとに拵えては神仏に供え、家族揃って食べる、日本古来なじみの食物である。正月の雑煮餅に始まって鏡餅、鶯餅、椿餅、草餅、雛祭りの菱餅、桜餅、柏餅・・と年中何らかの餅がある。そうした中でも、草餅、蓬餅の季節感は飛び切りだ。「いよいよ春だ」という喜びがほとばしり出る感じである。  この餅を作るために、まず蓬を摘む。川原の土手を吹き行く風はまだ冷たいが、家族揃って蓬摘みをするのはとても楽しい。採って来た蓬はお婆ちゃんやお母さん、姉さんが手分けして掃除して熱湯で湯がく。真っ青に茹で上がった蓬をトントンと包丁で刻む。一方、蒸篭には練った上新粉(米粉)が蒸し上がる。大きなこね鉢か臼に蒸し上げた餅と蓬を入れて、擂り粉木でつんつん搗き混ぜ、こね上げる。目にも鮮やかな緑色の餅が出来上がる。これをピンポン球くらいに取って伸ばし、小豆餡を包み、香り豊かな蓬餅の完成。  親子孫合わせて七人家族ともなれば、蓬餅を作るのも食べるのも、さぞかし賑やかなことだろう。元気で、ほのぼのとした一家団欒風景が浮かび上がる。(水)

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木々の芽の妻の介護の窓辺かな     岡本 崇

木々の芽の妻の介護の窓辺かな     岡本  崇 『この一句』  しみじみと、情感溢れる句である。今や用語として定着した「老老介護」の一場面。作者は「妻の介護続きで、窓辺の木々の芽が印象的でした」と述べている。  傍から見れば「夫婦愛」の現れとか何とかいうことになるのだろうが、当人同士はそんなものはとっくに超越している。片方が病んで助けを必要とすれば、もう片方が助ける。自然にそうなっているだけで、いわば成り行き。これがまあ「連れ合い」というものなのだろう。  それはともかく、妻に倒れられてしまった男は哀れである。炊事洗濯はじめ家事一切を何十年も任せ放しにしてきたツケがどっと回ってきて、呆然としてしまう。飯を炊き、味噌汁を作るくらいはなんとかなるが、おかずとなると難儀だ。デパ地下やコンビニで買ってきた惣菜で済ませ、妻に食べさせる。妻が施設に入れば入ったで、自分の衣食をこなして、世話をしに行かねばならぬ。  この句の良さは、そんな苦労をしているに違いないのに、惨めったらしさの無いところである。木々の芽生えにふと心やすらぐ作者の、安心立命の境地といったようなものが伝わって来るせいかも知れない。(水)

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