若鮎の命の苦み酒に溶く     藤野 十三妹

若鮎の命の苦み酒に溶く     藤野 十三妹 『合評会から』(酔吟会) 反平 写生句であるのだが、その中に作者がいる。「命の苦み」の中に作者がいるような気がする。それを「酒に溶く」とはねぇ。すごいなぁ。  正裕 どういう飲み方をしたのかなぁ。焼いたのか、ワタだけを酒に入れたのか…などと考えちゃいましたけど、雰囲気のあるいい句です。若鮎の命の短さにも「苦み」を感じているのでしょうね。 水牛 「酒に溶く」というのは、鮎のワタを食べて口中に残った苦みを、酒を一口含んでしみじみ味わったということなのだろうと・・。 而云 どっちかなぁと思って採らなかったんですよ(笑)。でもいい句だと思います。(僕も選句対象に入れていたんだという声多数) 水馬 俳句は「命」や「生きる」を詠むものだと思うんです。だから「命」などと大きな言葉をそのまま俳句の中に入れちゃぁまずいじゃないかと。           *       *       *  確かに水馬氏の言う通りだろう。ただ、鮎の腸のほろ苦さを味わっていると、やはりこうした感じが湧いてきて、「命」を使いたくなる気持も分かる。(水)

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薄氷に透けて見ゆるや巨大鯉     井上 啓一

薄氷に透けて見ゆるや巨大鯉     井上 啓一 『おかめはちもく』  鯉は十一月ごろ、水温が10度近くまで落ちてくると動きが鈍くなり、餌も食べなくなるという。それから翌年の三月末あたりまで、じっと水底に潜み、本格的な春の到来を待つ。池に氷が張るような地域では、薄氷になっていく時期に、「そろそろ腹が減ってきた」と動き出すらしい。  この句はまさに、そんな時期の鯉を詠んでいる。「巨大鯉」というのだから体長は八十造發△襪里世蹐Α6腓諒薫狼いらすれば緋鯉ではなく真っ黒な真鯉なのだろう。そんな鯉がいよいよ水面近くに浮いてくるようになった。公園の池の薄氷を眺めていたら、その下に鯉がやって来たのである。  春先の池や鯉の様子を詠んで、なかなか魅力のある句だと思うのだが、注文が一つある。氷の下の鯉が「透けて」いるのだから「見ゆる」はなくてもよさそうだ。代わりに目が覚めた頃の鯉の動きを加えてみたらどうだろうか。もちろん巨大鯉の、もの憂いような動きである。そこで・・・  添削例  薄氷に透けてゆらりと巨大鯉   (恂)

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朧夜の大地うごめく気配かな     嵐田 双歩

朧夜の大地うごめく気配かな     嵐田 双歩 『合評会から』(番町喜楽会) 白山 「うごめく」と「朧夜」の組合せの醸し出す、なんとなく不気味な感じがいいですね。 健治 「うごめく」が動的で、虫や動物などの生命が土の中から出てくる気配があるでしょう。それと「朧夜」の対比が漱石の「夢十夜」のような、おどろおどろしい世界を作っています。 斗詩子 「朧夜」と「うごめく」という、春の夜の静けさと動きの組み合わせにとても惹かれました。 光迷 動物も草木も朧夜の空気の中で、何やら動いている感じ。「大地うごめく」と捉えたところがうまい。 百子 朝の庭にモグラの黒い盛り土を見つけ、夜動いているんだなと思う様なことがあります。 可升 私は皆さんと違って、地震の起こる予兆の様なものかと思った。朧夜にはそんな気配もあるでしょう。            *         *  作者の意は「地中に潜む生き物のこと」のようだが、私は可升氏と同様「地震の巣のうごめき」と受け取り、俳句は何と難しい、奇妙な文芸か、と思った。この句はどちらに解釈しても、優れた作品なのだ。そしてまた「朧夜の天地うごめく」としても面白い。「大」の上に線を一本乗せただけなのに。(恂)

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禿頭をすべりゆく風春浅し    大澤 水牛

禿頭をすべりゆく風春浅し    大澤 水牛 『日経俳句会』 弥生 「春浅し」の頃の感触がよく出ている句ですね。文句なしに選びました。 実千代 何と言っても「すべりゆく」という感じ。春先の風にぴったりです。 昌魚 本当にそうですね。これはまさに「春浅し」でしょう。脱帽しました。 悌志郎 風が禿頭をすべっていくというのが上手い。やはり禿頭の人の作だと思う。 正裕 春は浅く風は冷たいが、もうすぐ春風駘蕩の季節になるということを思い起こさせます。 反平 前もって作っていたコメントを読み上げます。「水牛の作か(大笑い)。あるべきものがないと、ことさら風が冷たいものだ。髪の薄くなった頭を小生も実感している」 阿猿 滑り行くと禿頭のコンビネーションがいい。禿頭の人は頭皮の感覚が研ぎ澄まされているようです。 哲 禿頭を叩くでもなく撫でるでもなく、「すべる」という表現に春先の微妙な風の様子が伝わってくる。             *          *   作者には最近、秀句が相次ぐが、当欄への掲載はこの句と決めていた。禿頭を詠んで実に快いからだ。(恂)

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帰りきて雛に挨拶する夕べ     山口斗詩子

帰りきて雛に挨拶する夕べ     山口斗詩子 『合評会から』(番町喜楽会) 百子 お雛様を飾ってみると、分身のような親しみが生まれて、特に一人暮らしだと「ただいま」と独り言を言ってしまう。そんな感じがよく表れていて、いい句だと思いました。 満智 私も家に帰ると、観葉植物などに挨拶するので親しみを覚えました。雛の可愛らしい感じと、それに一人で挨拶するという少し寂しい感じとが相俟って、いいな、と思いました。 水牛 我が家では、家内が帰って来て「ただいま」と言うので、僕が「お帰り」と言うと、「あなたに言ったのじゃない」という様なことがよくあります(大笑)。いい感じの句ですね。 光迷 とても大事にされ、いろいろと思い出もあるお雛様なのですね。そんな感じがよく出ています。 斗詩子(作者) 私の実家の母が作った和紙を張り込んだ五十センチくらいのお雛様で、主人の仏壇の隣りに飾ってあるのです。この時期は仏壇を通り過ぎて、まずお雛様に挨拶します(笑い)。              *         * 散歩か、遠出だったのか。「ただいま、帰りました、お雛様」。そんな声が聞こえてくるような句だ。(恂)

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媼らの昔語りや雛の家     中嶋 阿猿

媼らの昔語りや雛の家     中嶋 阿猿 『この一句』  媼(おうな)は何故、あんなに集まったのだろうか。半世紀以上も前、我が家には母の姉や義姉らが毎日のように来て、おしゃべりを展開していた。集まるのは子や孫が学校に行っている午後。彼女らは年とともに元気になっていく。雛祭は一層賑やかで、「雛祭は婆の日だ」と思ったものである。  この句を句会の何日か後に見直して、また考えた。現在はどうなのだろう。雛祭に例え年配の女性が集まるにしても、立場は昔とは明らかに違っている。私の知る限り、かつてのおしゃべり媼たちは専業主婦か、その卒業生であった。現在なら社会に出て活躍しそうな人も少なくなかった。  彼女らは四十歳を過ぎても、近所の人から「○○さんのお嫁さん」と呼ばれていた。あくまでも婚家に所属し、年を取ると一家を取り仕切る人でもあった。雛祭はそういう女性たちのハレの日だったのだろう。さてこれからの女性と雛祭の関係は? 俳句はいろんなことを考えさせてくれる。(恂)

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墨跳ねのやうに蝌蚪散る池の底     高瀬 大虫

墨跳ねのやうに蝌蚪散る池の底     高瀬 大虫 『おかめはちもく』  蟇蛙(ひきがえる)はガマガエルとも言い、このオタマジャクシは小さくて真っ黒で、無数に生まれ、小川の流れがゆるやかに水たまりのようになった所や、池の縁にごちゃごちゃと塊になっている。何かに驚くとぱっと散り、まさにこの句のようになる。とても面白い句だ。  「墨跳ね」とはあまり一般的な用語ではないが、前衛書道やグラフィックデザインの世界では意識的に墨汁を散らすことで特殊効果を生む技法とされているようである。最近では墨汁を飛ばすことなどせずに、コンピューター操作により、モニター画面上で墨跳ね模様を描き出すことも行われている。  とにかくオタマジャクシが散ったことを墨跳ねと言ったのはとても新鮮だ。しかし、「やうに」がどうであろうか。「何々のようだ」とか「如し」というのはどうしても印象を弱めてしまう。ずばりと言い切った方がいいのではないか。四字熟語を安易に用いるのは好ましいことではないのだが、この場合は逆に強い印象を与えるのではないかと、使ってみた。この段階になると「添削」と言うよりは「好み」の範疇に入るが、まずは参考事例として・・、  蝌蚪散って墨痕淋漓池の底                 (水)

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春浅し紙飛行機で遊ぶ子ら     加藤 明男

春浅し紙飛行機で遊ぶ子ら     加藤 明男 『季のことば』  「春浅し」は立春から二月下旬までの、まだ冬と言った方がいい頃合いの季語である。風が強く冷たく、時には東京あたりでも氷が張ったり、雪が降ったりすることがある。しかし、そんな中にもはっきりと春の兆しがあり、地面にはぽちぽちと草の芽が出ている。  紙飛行機で遊ぶ子どもたちを持って来たところが「春浅し」にとてもよく合っている。紙を折って作った飛行機は、なにもこの時期に限ったことではないのだが、春先の寒風の中で元気に飛ばしっこしている光景がいい。  ただ近ごろの子どもたちがこういう遊びをするのを目にすることは、ほとんど無い。みんな家に閉じこもりゲームに興じるか、あるいは塾通いなのではないか。それに都会では紙飛行機を飛ばす広場を見つけるのが難しい。  昭和四十年代までは、空き地には子どもが群れ、紙飛行機や凧揚げ、ベーゴマ、メンコ、石蹴り、馬跳びなどをやっていた。そこにはいじめっ子もいじめられっ子もいたが、みんな結構うまくやっていた。この句はもしかしたら、貧しかったが子どもたちが生き生きとしていた時代を懐かしんでのものかも知れない。(水)

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朝市の青菜の中の花菜かな     大熊 万歩

朝市の青菜の中の花菜かな     大熊 万歩 『季のことば』  「花菜」とは「菜の花」、つまりアブラナの花である。昔は食用油および上等の灯油原料として全国至る所に栽培されていた。「菜の花や月は東に日は西に 蕪村」という菜の花畑の句は子どもでも知っている。  掲載句は、一読鮮やかな色彩が目に飛び込んで来る。新鮮な緑の野菜が積まれた中に、輝くような黄色の花を二つ三つ咲かせたのを束ねたのが見える。これは油採取用ではなく、「菜花(なばな)」と呼ばれる食用菜である。さっと茹でてお浸しにしたり、辛子和えにすると、まさに春を食べているような気分になる。  というわけで今日では「菜花」が普通になり、わざわざ「花菜」と言うと、観賞用の「菜の花」や「紫花菜」などを思い浮かべたりする人がいる。作者は「菜花」では口調が良くないと、あえて「花菜」にしたのだろう。まあ、京都あたりでは菜花をあっさり塩漬けにしたのを「花菜漬」と言って、春の京漬物の目玉商品にしている。朝市で野菜として売っているのを「花菜」と称しても悪い事はあるまい。早春の朝市の清清しい感じが伝わって来る。(水)

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乗り手待つボートの群れや春浅し     中村 哲

乗り手待つボートの群れや春浅し     中村  哲 『合評会から』(日経俳句会) 実千代  春三月ともなればボートを出すのだけれど、それを待つ早春の池畔の風景がよく描かれています。 二堂  私が毎日散歩する池にもボート乗り場がある。乗り手を待ってボートが今かいまかという顔をしている。「春浅し」と連動している。 正  乗り手が一人もいない早春の景色を「ボートの群れ」と表現したところが面白い。 綾子  水はキラキラしているが、まだ寒い時期の景が浮かんできます。           *       *       *  千鳥ヶ淵や弁慶堀など、三月下旬の花見シーズンともなればボート乗り場には長い列が出来る。春浅き今はそんな賑わいがうそのような寂しさだ。中には修理のために岸辺に引っ繰り返されているのもある。しかし、あたりの空気には徐々に春の近づきを感じる。「乗り手待つボートの群れ」とは、なるほど早春の感じを言うのにふさわしい役者を見つけたものだなと思う。(水)

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