琴の音にゆるやかなりや梅の花     後藤 尚弘

琴の音にゆるやかなりや梅の花     後藤 尚弘 『おかめはちもく』  私の所属するいくつかの句会では最近、会員数が増加傾向にある。大いに結構なことだが、一句会で百何十という数の句を吟味するのはなかなか大変なことで、どうしても一句ごとの読み方が粗っぽくなる。さっと目を通しただけで、これはいい、これはダメ、と判断しがちなのだ。  この句の場合は「琴の音」「ゆるやか」「梅の花」の三語を頭の中に並べただけで、美しいイメージを描いてしまった。落ち着いた和風の庭にゆるやかな琴の音が流れてくる、庭では梅の花がちらほらと咲き始めた、というような情景である。しかし後に読み直して、どうも違うな、と気付いた。  「ゆるやか」なのは琴の音なのか、梅の花なのか。最初に目を通した時は「琴の音がゆるやか」だと即断したが、句全体をよく見れば「梅の花がゆるやかに咲き始めた」ようでもある。作者の意図ははっきり捉えられない。やむを得ず、最初のイメージを重視しつつ、手直しをさせて頂いた。  添削例  琴の音のゆるやかにして梅の花   (恂)

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やわらかにひかり湛えし春の雲     深瀬 久敬

やわらかにひかり湛えし春の雲     深瀬 久敬 『この一句』  春の雲の持つ様子や雰囲気を見たまま感じたままに詠んだ句である。私は、いいなぁ、と思ったが、句会でこの句を選んだのは私だけだった。人によって評価や好き嫌いが分かれる句なのかも知れない。派手なところがないだけに、選句の最後に落されてしまうタイプかな、とも思う。  ところで「湛(たた)える」の意は? 辞書には「器いっぱいに液体を入れて、あふれんばかりにする状態」などとある。よく「笑みを湛えて」などと用いるが、これは「満面の笑み」より一段上の「あふれんばかりの笑み」なのだ。やわらかな光が満ち溢れてくるような春の雲なのだ。  まばゆいばかりの雲が、ゆっくりと動いて行くのだろう。ここで気付いた。「やわらかに」と仮名書きにしたのは、句にさらなる柔らかさを求めたからに違いない。ならば、もう一歩進め、「やはらかに」と旧仮名遣いにしたらどうだろう。ふわふわ感がまた少し増すのではないだろうか。(恂)

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春の雲分け入り逝し紫電改     河村 有弘

春の雲分け入り逝し紫電改     河村 有弘 『合評会から』(三四郎句会) 賢一 紫電改(しでんかい)は(第二次大戦時の)戦闘機ですよね。性能はよかったが、多くの飛行士がこの機に乗って逝ったはずで、胸にジーンとくる思いです。 照芳 あの時代のことを「春の雲」によって、うまく詠んだと思う。 正義 米軍機と戦った紫電改の名は子供だったわれわれもよく知っていた。 豊生 ゼロ戦の後につくられた紫電を、さらに改良したから「紫電改」なんですね。この句は、あの機に乗って逝った若者へのオマージュでしょう。 而云 しかし古いね。今の人は分からないだろう。 信 私は毛生え薬(同じ名の育毛剤がある)かと思いました。         *              *  ある世代だけしか理解できない語がある。「紫電改」が一例で、中年以下にも理解させたいなら「戦闘機紫電改」くらいにはしたいが、五七五の中には収まりそうにない。俳句にはこんな難しさも付いて回る。(恂)

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ランドセル重たげに行く春の午後     田村 豊生

ランドセル重たげに行く春の午後     田村 豊生 『この一句』  小学一年生にとってランドセルは大き過ぎる、という声は余り聞かない。サイズの問題はメーカーも買い手も承知のうえ、当たり前、という認識が出来がっている。コマーシャリズムか、ランドセル文化なのか。六年生まで使うという前提だから、一年生にはもともと大きく作られているのだ。  衣服も帽子も靴も、子供の成長に合わせ、サイズを選んでいくのに、ランドセルだけは普通、買い替えは行われない。一年生には大き過ぎるし、六年生には小さくなってしまう。それがランドセルというもので、勉学のシンボルであり、子供たちの成長を測るものさしのようでもある。  四月、一年生、ランドセル。俳句では見飽きるほどの材料だが、小学生はどの月でもランドセルを背負っている。上掲の句は三月のもの憂い下校時間の頃の情景である。通学に慣れた「もうすぐ二年生」が、ランドセルを重たげに背負っていくのだ。珍しい季節感を捉えたものだと思う。(恂)

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戸惑いを三寒四温の陽だまりに    渡邉 信

戸惑いを三寒四温の陽だまりに    渡邉 信 『合評会から』(三四郎句会) 敦子 何に戸惑っているのかよく分からないけれど、この時期の雰囲気にぴったりという感じがします。ご自分の心も三寒四温なのかな。 正義 今ごろの季節に合っている。日当たりのいいベンチに座っている感じです。 而云 なかなか上手い詠み方だと思いますよ。 信(作者) 三寒四温は冬の季語ですが、春先の気象と受け取る人が増えてきたそうですね。         *           *  「三寒四温」は元来、中国の冬の気象を表す言葉。西北からの季節風が「三日吹き、四日止む」というような繰り返しが始まると、大陸はいよいよ冬到来となり、そのリズムが崩れてくると春になる、とされている。この語が日本にもたらされて久しく、作者のコメントにあるように、日本では「冬の終盤から春先」と捉える傾向になってきたようである。温かい日が少しずつ増えて行くような語感によるものか、という気象予報士の言葉も聞いた。作者の戸惑いも今まさに、日本的三寒四温なのだろう。(恂)

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蓬餅すり鉢おさえて手伝う子     村田 佳代

蓬餅すり鉢おさえて手伝う子     村田 佳代 『おかめはちもく』  昔、蓬餅や草団子はお母さんと子どもたちとの合作であった。まず蓬摘みから始まる。小さな子は蓬もヨメナもその他の雑草も区別がつかない。お兄ちゃんやお姉ちゃんに「ダメでしょ」などと言われながら、でたらめに摘んでいる。  とにかくこうして親子で摘んだ餅草が笊に一杯になると持って帰り、きれいに掃除して熱湯にくぐらすと鮮やかな緑色になる。これをお母さんが俎板に取って、とんとんと刻み、擂り鉢に移してごりごり擂る。蒸籠には上新粉(米の粉)を練ったものが蒸し上がり、それを餅草の入っている擂り鉢に入れて、擂粉木でつんつん搗いたり、ごろごろ挽いたりする。子どもたちは代わりばんこで擂り鉢を抑えている。見る見るうちに緑の香しい草餅が出来上がる。  それを適当に丸めたり、糸で切ったりして別に作っておいた小豆餡をまぶす。あるいは平に伸ばして中にアンコをくるんで丸め、本格的な草餅にしたりする。どんな形でも、こうして母子で作った草餅は美味しさも格別である。  この句は楽しい情景をそのまま詠んでいて素晴らしい。ただ、「すり鉢おさえて」とわざわざ「て」を添えたのがリズムを崩している。「て」を取ってしまうだけで上々の句になる。   蓬餅すり鉢おさえ手伝う子         (水)

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傘ささぬ人も過ぎゆく春の雨     星川 佳子

傘ささぬ人も過ぎゆく春の雨     星川 佳子 『季のことば』  芭蕉の高弟で、故郷伊賀上野の蕉門のまとめ役だった蓑虫庵主服部土芳は、俳論集『三冊子』の中で、「春雨は小止みなく、いつまでも降り続くやうにする、三月をいふ。二月末よりも用ふる也。正月、二月初めを春の雨と也」と述べている。つまり、「春雨」は現在の暦で言えば三月末から四月の、しとしとと小止み無く降り続く雨を言い、二月から三月のやや強い雨は「春の雨」とすべきだと言うのである。  この句は傘をささない人も居るくらいの雨だから、土芳に従えば「春雨」であろう。しかし、芭蕉時代も今も、「春雨」と「春の雨」とは同じ意味合いで用いられることが多く、強いて違いを言えば、「春の雨」の方が初春から晩春まで通して詠まれ、かなり強い雨も言うことがあるといった程度である。  大きな一枚ガラスの喫茶店かレストランの窓際の席にゆったりとくつろいでいるのだろう。外は絹糸のような雨がしっとりと降っている。春らしい色合いの薄手のコートに身を包んで颯爽と歩む若い女性、粋な帽子の紳士。傘を差す人も差さない人も・・、春雨の都会の洒落た雰囲気が伝わって来る。(水)

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風光る塵一つ無き平林寺     堤 てる夫

風光る塵一つ無き平林寺         堤 てる夫 『この一句』  埼玉県新座市野火止にある臨済宗の古刹平林寺。武蔵野の姿を今に留める境内の雑木林は国の天然記念物になっている。三代将軍徳川家光の小姓から老中にまで上り詰め、川越藩主になった松平信綱がこの寺を菩提寺とするように遺言し、岩槻からこの地に移されたという。信綱が開削した野火止用水が近くを流れ、秋の紅葉が最も有名だが、春夏秋冬いずれも豊かな自然が満喫できる。  東京ドームが十個も入るような広大な境内は、掃除が行き届いているのだろう、ゴミが全く見当たらない。さりとて、ことさら掃除をしましたという風情でもなく、観光客向けの余計な飾り付けや、今出来の石像などが並べられたりしていないのも気持が良い。  なんだか寺の説明が長くなってしまったが、要するにこの句はこうした独特の雰囲気と味わいを持つ古刹のたたずまいを上手く詠んでいるということを伝えたかったのである。「塵一つ無き」でそれを遺憾なく表し、また「風光る」という季語がぴたりと嵌まって光っている。(水)

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バスは来ぬ手にあられ雪跳ね返る     大平 睦子

バスは来ぬ手にあられ雪跳ね返る     大平 睦子 『季のことば』  なんともまあ寒そうな感じが漂って来る。こうなると手に息を吹きかけたくらいではなんともならない。「あられ雪」は気象用語では「雪あられ」と言うらしいが、雪の結晶に水蒸気がくっついて凍り、アラレ状になったものを言う。降って来る様子は雪と同じだが、ビニール合羽やバス停の屋根に当たるとパラパラと音を立てる。  バスは一向にやって来ない。家を出るときにちゃんとバス時刻表を見て、少し余裕をもって出て来たのだから間違えたはずはない。きっとどこかに大きな雪の吹き溜まりでもあって立ち往生しているのか、雪に不慣れな都会からの車がスリップして動けなくなり、道をふさいでいるのか。  全くうんざりする場面なのだが、この句にはあまり暗さが感じられず、アッケラカンとしている。「手にあられ雪跳ね返る」と状況をすんなり詠んでいるせいだろう。つまり、作者は北国の人で、こうした事にすっかり慣れているのだろう。そう思っていたら、果たして南魚沼出身の睦子さんの句であった。こうやって、自然の情景を自然に詠むのが一番力強く、実感を伝える。(水)

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噴水を横に飛ばして春一番     片野 涸魚

噴水を横に飛ばして春一番     片野 涸魚 『合評会から』(酔吟会) 睦子 いかにも春一番の風の強さを表しています。 百子 春一番が吹くような日に、何をしに公園に行っていたのでしょう(大笑い)。でも風で噴水の水が横に飛ぶ…、その一瞬をよくとらえたものです。 春陽子 水が横に飛ぶ…。このオーバーな表現がいいですね。 てる夫 噴水の水が横になったと断定したのがいいです。 反平 でもねぇ。噴水は夏の季語でしょう?観察眼はいいけど。 而云 私の家の近くの公園は冬の間、噴水を止めちゃっているんですよ。それが、春が近づいてくると土日だけ出したりしている。そんなこともあるし、「春一番」でもいいんじゃないかなぁ。           *       *       *  作者によると「春一番」という兼題を考えているうちに、近くの公園の噴水を思い出したのだという。だからこれは実景ではなく、想像の句ということになる。しかし、春一番の荒れ狂う日、あの噴水が横っ飛びになっている景色がありありと頭に浮かんだのだ。これまた一種の写生句と言えないか。(水)

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