立春の光り届ける軒滴     高瀬 大虫

立春の光り届ける軒滴     高瀬 大虫 『季のことば』  気持よく晴れた午前十一時頃、としようか。テーブルに向かってあぐらをかき、新聞を読んでいると、一瞬、目の端に何かがキラリと輝いた。おお、そうか、とすぐに気付く。軒から滴がぽたりと落ちたのであった。新聞をテーブルの上に置き、ガラス戸の外に目を向けた。するとまたポタリ。  雨がやんだばかりで、軒の滴が落ちた、としてもいいけれど、屋根に積もった雪が解けて・・・がいいかな。いや、軒の氷柱(つらら)が解けて滴が落ちたとするのが、最もが感じが出ていると思う。何しろ今日は立春なのだ。あの透き通った氷柱の先からのポタリは、まさに春到来の報せである。  しかし、氷柱だとすると季重なりですね。そんな声が聞こえてきた。なるほど「氷柱」という言葉はなくても、私の頭の中で季重なりが起きていたことになる。しかし、この滴は絶対に氷柱の滴でなければ、と思う。明日、句会で作者に会ったら確かめてみよう。「あれ、氷柱の滴でしょう」と。(恂)

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春立つや浅間の裾の浅緑     井上 啓一

春立つや浅間の裾の浅緑     井上 啓一 『季のことば』  この時期、例えばケヤキとかイチョウなどの梢を見上げると、何となく色が変わってきた、と思うことがある。見掛けは枯木(落葉した樹木)なのだが、幹や枝の内側に潜むパワーが、春へ向かって動き始めているのだろう。芽吹きは少し先だが、準備を始めた、というところかも知れない。  そのあたりのことを参考書類で調べていたら、万葉集の例が出ていた。「浅緑染めかけたりと見るまでに――」。この短歌は柳の芽が萌え出る直前の枝の色などを詠んでいるのだという。その昔、寒い冬を耐え、ようやく春めいてきた頃の万葉人の嬉しさは、現代人にもよく理解出来るところである。  句の作者は浅間山の裾を見渡して、おや、茶色が何となく緑っぽく変わって来たぞ、と気付いたのだ。そのような地にセカンドハウスを持つ人ならではの喜びだと思う。辞書によれば「浅緑」とは、うすい緑色、うすい萌黄色、空色。私もしばらく近くの道路の並木を見つめることにしよう。(恂)

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顔ほどの肉饅立春中華街     大澤 水牛

顔ほどの肉饅立春中華街     大澤 水牛 『合評会から』(番町喜楽会) 双歩 ユーモラスですね。でかい顔の人がでかい肉饅を食べている。中華街の春節なのかな。「肉饅立春中華街」。とても調子が良くて、俳句の中になだれ込んでいくような、アジ演説みたいですね。 春陽子 雰囲気は分かるけど、これ三段切れ? 四段にも切れる。ぶつぶつした句じゃないですか? 正裕 「顔ほどの肉饅」「立春中華街」と切るのだと思いますが。 水牛 (作者)そうですね、しかし確かにぶつぶつの感もある。去年の今日(二月四日)、中華街の春節の句です。何しろ爆竹は鳴るし、人は多いし。にぎやかなんだ。 而云 「顔ほどの」がいい。実際はそれほど大きくないが、若い人が食べながら歩いているのかな。 水馬 太った人の顔って肉饅みたいですね。パワーがある句なのでいただきました。        *             *  意味は「顔ほどの肉饅」で切れる。しかし調子を重視し「顔ほどの」で一拍、その後一気に「肉饅立春中華街」と行きたい。句に破調があれば、読み方に破調があっていい。何しろ爆竹の響く春節の中華街だ。(恂)

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あの初音また出会ひたし薬師堂     堤 てる夫

あの初音また出会ひたし薬師堂     堤 てる夫 『おかめはちもく』  山間の茂みを背負った薬師堂。陽ざしを一杯に受けて、何とも心地良い温もりがある。鶯が真っ先にやって来て初音を聞かせてくれる。今年もまた聞きたいものだとやって来た。実にほのぼのとした感じのする句である。  しかし、「初音」に「出会ふ」という言い方がどうか。「あの」というのも、「以前はからずも聞いた、あの初音」ということなのだろうが、「また」という言葉とくっつくと少々うるさいようだ。  結局のところ、「あの初音」はまだしも、「また出会ひたし」という叙述が良くないということになる。この中七を何とかすればとても良い句になりそうだ。  「あの初音今年も聞かむ薬師堂」としてはどうか。しかし、「今年も」と挟むと説明口調になると難癖がつくかも知れない。それなら「今年また初音を聞かむ薬師堂」と引っ繰り返したらどうだろう。この場合の「また」はあまり気にならないようだ。とにかく、「去年聞いたあの素晴らしい初音を今年も」という気持を言うのはいいのではないか。と、こうしているうちに浮かんできたのが、   今年また初音聞かせよ薬師堂     てる夫        (水)

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枯草や朝の陽ざしを一人占め     石丸 雅博

枯草や朝の陽ざしを一人占め     石丸 雅博 『季のことば』  「枯草」「草枯」はもとより冬である。11月も深まると野原や道の辺、庭の草も枯れ始め、やがて蕭条たる景色になる。生あるものはみな滅する定めということをしみじみ教えてくれる。そうした意味合いを持つ季語が「枯草」である。  しかし、この句は明るい。朝の散歩であろうか。陽ざしを浴びてきらきら輝いている枯野。季節は冬だとしても、朝からよく晴れた暖かい日なのであろう。「冬ぬくし」という季語があるが、この句はそうした感じがする。その朝の陽ざしを一人占めしたような気分で、作者はご満悦だ。  季語には和歌、連歌から受け継いだ「本意(ほんい、ほい)」というものがあり、例えば「枯草は蕭条として、寂しさを伝える」ように詠まねばならぬといった、一種の「きまり」がある。この句はそうした「きまり」からは外れているかも知れない。しかし、規範にがんじがらめになっては詰まらない。この句は枯草の持つ一面、たとえば己は消えてゆくばかりだが、もうすぐの芽生えをはぐくんでいるといった、明るさを描き出した新しさがある。冬から春に移ろうとする「季感」をとても良く伝えている。(水)

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老人のどれも似合ひの冬帽子     嵐田 双歩

老人のどれも似合ひの冬帽子     嵐田 双歩 『合評会から』(日経俳句会) 哲 冬に出かけるのは元気な老人、高齢化社会を象徴している。それを帽子で捉え、「どれも似合ひの」と言って温かく見ている。視線がいい。 てる夫 「どれも」がよく分からないが、何をかぶっても似合うというのかなと思った。この季節にホッとさせるものを感じる。 而云 地下鉄で、はす向かいの爺さんが赤茶の帽子をかぶっていた。年取ると帽子にお金をかけるのかなと思った。普通はけなしたりするものだが、温かい目で見ているのがいい。 博明 帽子を買い求めているのか?街中でおしゃれに被っているのか?真夏同様に冬にも必需品と思う齢に・・。柔らかな目線が好ましい。 光迷 第一にわかりやすい、第二に作者の心、眼差しが優しい。読んでいて和みます。           *          *          *  電車内か繁華街か、帽子の老人が幾人もいて、そのどれもがそれぞれ似合っているというのであろう。老人大国ニッポン。年寄りもお洒落になった。(水)

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厄年はもう来ぬ齢燗熱し     岡本 崇

厄年はもう来ぬ齢燗熱し     岡本 崇 『合評会から』(三四郎句会) 雅博  厄年は六十代までですね。季語の熱燗は感じが出ています。 賢一  私のことを詠んでいるような気がしました。ただ私の好みで言えば、熱燗より燗冷ましのような感じを受けるのですが。 有弘  私は燗熱しが効いていると思った。共感する句です。 敦子  厄年がもう来ない齢になった。嬉しいようにも思いますが、このように詠まれてみると、淋しいものなんですね。           *          *          *  バカバカしいとは思っても、何となく気になってしまうのが厄年である。陰陽道から出たものと言われ、平安時代には既に厄年の御祓いが盛んに行われていたというから根強い信仰である。男の厄年は数え年で25,42,61歳、女性は19,33,37歳(近ごろは女性も61歳が追加されている)。となれば俳句会に通うような人は厄年なんぞとっくに通り越している。「人生50年」の頃に出来たものだからこうなったのだろう。「もう厄年からもはずれちまったか」と苦笑いしながら熱燗を酌んでいる、幸せな姿が浮かんで来る。(水)

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地吹雪に鍛え磨かれ津軽弁     片野 涸魚

地吹雪に鍛え磨かれ津軽弁     片野 涸魚 『合評会から』(酔吟会) 水馬  津軽弁と言っていますが、津軽の人や風土などすべてのことを含んでいるのでしょう。それを「津軽弁」に代表させたところが素晴らしいと思います。 春陽子  「鍛え磨かれ」という措辞、雪国をこうとらえたところが素晴らしい。 正裕  私も津軽弁の説明ではなく、津軽の人のことを言っているのだと思いました。きびしい風土の中で生きる津軽の人々を「鍛え磨かれ」と表現する。素晴らしい句です。           *       *       *  津軽の人同士が喋っているのを余所者が聞いても、何を言っているのか分からない。「余りにも寒いから、口をなるべく開かないようにして喋っているうちに、ああいう風になってしまったんだ」という怪説を聞いたことがある。とにかく厳しく苛酷な自然条件の下で鍛え抜かれてきたことは確かだ。(水)

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丸き背の連なる寒の交差点     高石 昌魚

丸き背の連なる寒の交差点     髙石 昌魚 『合評会から』(日経俳句会) 実千代 寒中の都会の様子がよく出ています。 双歩 「連なる」と言ったのがうまいと思った。「寒に入る競歩のごときサラリーマン 高橋ヲブラダ」といういい句もあったが、いずれも都会の悲哀がうまく表現されている。 二堂 サラリーマンが同じ格好をして連なって、青信号になったら一斉に横断歩道を渡って会社に向かう、そんな姿がうまく表現されている。 水馬 まさに実景、実感です。私の背中も丸いです。 青水 出勤時の都心の情景を、力みなく過不足なく描写していて心地よい。           *       *       *  「こんなに点が入るとは思わなかった」と作者が驚くほど、句会では好評を博した。凍てつく都会の交差点、誰もが見慣れた風景なのだが、それをこうしてすっと差し出されると、「そうだなあ」と頷いてしまう。「みたままをそのままに」詠んだ句の強さだろう。特に「みんな背中が丸い」としたところが寒の寒たるところだ。(水)

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子供等は寝ずの番してどんど守      宇野木敦子

子供等は寝ずの番してどんど守      宇野木敦子 『おかめはちもく』  三四郎句会でこの句を初めて見た時、状況がよく分からなかった。子供たちが大人もいないのに一晩中、どんどの火の番をするのだろうか。どんど焼きはそんなに長く燃やすものなのか。すると尚弘氏が発言した。「これ、門松の見張りでしょ。私の郷里でも子供たちが門松の番をしていましたよ」。  尚弘氏は長野県伊那地方の飯田市出身。作者の敦子さんも子供の頃、天竜川を挟んで飯田の東側の喬木村で何年かを過ごした。尚弘氏によると、門松が多いほどどんどは盛大に燃えるので、悪童たちが他の家の松を盗みに来るそうだ。そのため各家では子供たちが一晩中、門松の見張りをするのだという。  このような状況の全てを、五七五の中に収めるのはなかなか難しい。しかし同句会の添削役を仰せつかっている身として何とか形をつけたいところ。伊那という地域の風習であることを明確にすれば、何とか分かって頂けるかも知れない。やや不満ながら・・・。添削例 伊那の子らどんどの松を寝ずの番 (恂)

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