如雨露からそっと取り出す薄氷     井上庄一郎

如雨露からそっと取り出す薄氷     井上庄一郎  『この一句』  朝、庭に出て「花壇に水を」と如雨露を取り上げたら、中に氷を見つけた。如雨露の中に一杯、しっかりと凍っているのではなく、薄氷が浮いいたのだ。寒い日が続いてはいるが、東京近辺では今年初めて張った氷だった。作者は薄氷をそっと取り出し、朝日に透かして見たのではないだろうか。  一月の半ば、東京・日比谷公園の池に立つ「鶴の噴水」に氷柱(つらら)が下がった日の作ではないだろうか。私はその翌日、日比谷に行ったついでに見に行ったら、氷柱はすっかり溶けていた。女性の二人連れも見に来ていたが、「やっぱり、東京だからね」と言いながら、帰って行った。  かつて東京はもっと寒かった。毎日、氷が張り、軒から氷柱の下がる日もあった。今は「寒い、寒い」と言いながら、そんな昔を懐かしんだりする。この句には「おお、張ったのか」と、薄氷に声を掛けた雰囲気がある。珍しく張った氷を労わるような心? それも悪くない、と思った。(恂)

続きを読む

ながらへることの幸せ七日粥     大倉悌志郎

ながらへることの幸せ七日粥     大倉悌志郎 『この一句』  七十歳代の半ばを過ぎる頃から、森羅万象への感受性が変わって来たように思う。先日も熱海梅園に行って、しみじみと「梅の花はいいものだ」と感じ入った。かつて「春は桜」と決めていた。梅には寒々とした感じもあって、自分から進んで見に行くことはなかった。ところが今や梅のファンである。  この句を見て「七日粥もそうだ」と気付いた。大根の葉とかはこべとか、そんなものを入れた味気ない粥は、作ってくれる母や妻への義理で食べているようなものだった。しかしこの頃は違う。七草粥を食べながら、これこそ春の味なのだ、春が近づいてきたのだ、と喜びを覚えてしまうのだ。  年を重ね、永らえて来たせいだろう。このような変化を前向きに捉えて、若い頃よりも楽しい日々が増えて来た、と思えばいい。これで行こう、と私は決めた。ある人から「若い時に戻れるなら、何歳がいいか」と問われ、「何歳にも戻りたくない」と答えた。相手は不思議そうな顔をしていた。(恂)

続きを読む

春浅し空に溶け入る遠景色     水口 弥生

春浅し空に溶け入る遠景色     水口 弥生 『おかめはちもく』  春の情景を印象的に詠んでいる。季語から言ってこれは早春の句なのだが、暖かい感じがする。多分昼頃なのであろう。気温がかなり高くなって、目には見えないが水蒸気が立ち昇り、いわゆる「霞立つ」状態になっているのだ。  こうなると遠くの景色は薄ぼんやりとして、空と渾然一体となる。「空に溶け入る遠景色」とは実に上手い。天明調俳諧の味である。  ところがこの句は、句会ではほとんど話題にならなかった。何故か。やはり「季語が合わない」と思った人が多かったからではないか。つまり、遠景色がぼうっと霞んで空に溶け込むようになるのは、「春浅き」よりもっと後の時期というわけだ。  しかし、近ごろは寒の最中に二十一度などというバカ陽気が訪れる。「春浅し」の頃にこうした景色になっても何ら不思議ではなくなった。そうであるならば、三春通じて使える季語を据えたらいかがであろう。   春昼や空に溶け入る遠景色   弥生       (水)

続きを読む

飛梅や転勤辞令唐突に     直井 正

飛梅や転勤辞令唐突に     直井 正 『この一句』  言うまでも無く菅原道真の故事を踏まえた一句である。中級貴族の出である道真は類い希なる学識と才覚の持主だった。藤原氏の勢いを抑えたい宇多天皇は道真を重用した。道真もそれによく応え、天皇の権力回復、中央集権体制づくりに邁進した。宇多天皇の子の醍醐天皇の世になっても道真はさらに出世し、家柄からは到底なれるはずのない右大臣に昇進、時の権力者左大臣藤原時平に肩を並べるほどになった。しかし、余りにも急速にのし上がってきた道真に危機感を抱いた時平は、「道真は貴方を廃し、弟君である娘婿の斉世親王を皇位につけようと企んでいますよ」と讒言、これにより道真は太宰府に流されてしまった。  無念やるかたない道真は「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな」と詠んで九州へ下った。すると梅の木が後を追って飛んで来て花咲いた。これが「飛梅伝説」である。  「転勤」と「飛梅」は付き過ぎの感じがあるが、思ってもみなかった赴任先を提示されたら、きっとこうした思いを抱くに違いない。サラリーマン人生の哀歓を巧みに詠んだ。(水)

続きを読む

盆栽の小さき宇宙梅かをる     久保田 操

盆栽の小さき宇宙梅かをる     久保田 操 『合評会から』(日経俳句会) 臣弘 盆栽は一つの宇宙だと思う。昭和記念公園に行ったら盆栽展をやっていて梅と桜が印象的だった。「宇宙」と言うのがリアリティあって季節感にピタリ。 てる夫 私も「小さき宇宙」というのが気に入った。確かに盆栽は大宇宙に見える。 二堂 梅の盆栽は多いですね。梅は割に早く幹が太くなり、大きな木が植わっているような感じがして「小さき宇宙」の感じがします。           *       *       *  平安時代に唐から入って来た「盆景」が宮廷貴族の間で持て囃され、やがて一般にも広まり、江戸時代に全盛となった。入って来た当初の盆景は、中国風に派手で箱庭のような感じだったらしい。それが「侘びさび」を好む日本人の手で改良され、掌に収まるほどの大きさなのに老樹の姿に仕立てられ、幽玄・閑寂な「盆栽」になった。まさに宇宙を小さな鉢に込めるという発想は素晴らしく、この句もそれをそのまま詠んで好ましい。(水)

続きを読む

山歩く足の先から春が来た     大石 柏人

山歩く足の先から春が来た     大石 柏人 『合評会から』(日経俳句会) てる夫 実感としてよく分かる。地面が柔らかくなってきて、山歩きも快適になり、それを足の裏で感じている。 反平 この句の良さは口語体で「春が来た」とスパッと言ったところだ。 大虫 小学唱歌の「春が来た」の文句じゃないが「どこに来た、足の裏に来た」(大笑い) 悌志郎 山をよく歩く人の句だと思った。やさしい言葉で上手い句だなと。 実千代 一つずつの言葉は単純ですが、春らしさが感じられて。大虫さんおっしゃるように唱歌を思い出しました。 綾子 登山道が柔らかくなってきたのでしょうか、いい句ですね。 哲  雪が消えた山を歩く喜びや、足の裏で感じる土の柔らかさ温かさまで伝わってくる。           *       *       *  本当に皆さん言うように、春がきたぞといううきうきした感じが伝わって来る。口語俳句の力強さが生きている。(水)

続きを読む

立春の光まばゆき九品仏     池内 健治

立春の光まばゆき九品仏     池内 健治 『この一句』  立春の光りが鬱蒼と茂る大樹を抜けて、三棟の阿弥陀堂の中に鎮座する九体の金色の阿弥陀如来を輝かす。世田谷区奥沢の九品山浄真寺。浄土宗の名刹で、広い境内は春は桜、秋は紅葉と、近隣住民の憩いの場にもなっている。  ここは我が家の菩提寺だから、物心ついた時から春秋の彼岸、お盆、それに親族親戚の葬儀や法事のたびに訪れている。九品とは何とか言うお経に説かれている、極楽往生する際の等級らしい。清く正しく篤い信仰心で念仏一途に生きた人は「上品上生(じょうぼんじょうしょう)」、つまり極楽の中でも一等地に住める。段々と下がっていって、極悪非道の輩でも念仏を唱えさえすれば極楽に行けるようだが、しかしそれはやはり九番目の「下品下生」である。「だからね、真面目に暮らさなければいけない」と言われた不良中学生は、「死んでからも階級がつくのかぁ」とがっかりした覚えがある。  九品仏を祀った寺としては京都の浄瑠璃寺(九体寺)が平安末期の創建で歴史的には断然古い。この句は浄瑠璃寺か浄真寺かはっきりしないが、どちらでも良かろう、早春の清冽さを感じさせる佳句である。(水)

続きを読む

正座する盲導犬や梅日和     谷川 水馬

正座する盲導犬や梅日和     谷川 水馬 『合評会から』(日経俳句会) 定利  「梅日和」がいい。正座する「盲導犬」と合う。 而云  目は見えないがせめて匂いでもと、そんな風景が見えてきて、色々なことを考えさせられる、とても好きな句。 青水  春の光、風、気温。そして香り。切れ字がいいし、季語も効いている。 十三妹  毎日頑張って尽くす盲導犬に献点。 万歩  盲導犬も主人とともに梅を愛でている。ユーモアと温もりが伝わる。 睦子  ただの犬ではなく、「盲導犬」。梅日和が効いています。 正  飼主に付き合ってじっと正座している盲導犬が微笑ましい。           *       *       *  春浅き頃、百花に先駆けて咲く梅は香気を放ち、凛とした気品を漂わせつつ、しかも優しい。万葉時代から平安初期までは桜より梅が尊ばれたという。盲導犬を脇に梅が香を聞く、この主人公の心は安らかなようである。(水)

続きを読む

立春の画布に明るい海の青     野田 冷峰

立春の画布に明るい海の青     野田 冷峰 『おかめはちもく』    この時期、海岸に出てカンバスに直接、絵を描くことはないだろう。すると場所は画家のアトリエか。ある人物が絵筆を動かしており、作者は画家の後方から、青い油絵具がカンバスに広がって行くのを眺めている、という状況だろう。立春、カンバス(画布)、海の青。早春らしい句だと思う。  しかし「明るい」という形容詞がいかにも安易で、一工夫欲しい。「明るい」の同類なら「煌めく(きらめく)」とか「輝く」などがある。さらに発想を変えて「画布を埋め行く」とか「画布に故郷の」など、いろいろありそうだが、添削候補を点検するうちに、考えが変わって行った。  作者は小手先芸を嫌って、何のてらいもない平凡な「明るい」をあえて選んだのかも知れない。「画布に故郷の」などは添削のやり過ぎと思えて来た。しかし「輝く」なら悪くない。「煌めく」ほどの気取りがないし、「明るい」より“輝いて”見えた。この語が作者の意に適うかな、と思いながら――。  添削例  立春の画布に輝く海の青 (恂)

続きを読む

鶯の声を探して森のカフェ     齊山 満智

鶯の声を探して森のカフェ     齊山 満智 『この一句』  「鶯の声を探して」を、私(筆者)はこう解釈した。春めいてきた頃、作者は鶯の声を聞く必要が生じて、森の中へ入って行ったのだ。よく鶯がよく来るとか、鳴き声が聞える場所であるとかを、知っていたわけではない。あの森に行けば聞こえるかな、という、あてずっぽうによるものであった。  次の句会の兼題に「鶯」が出て、その必要が生じたのである。鶯の鳴き声は知っていたが、実際に聞いたことがあるような、ないような・・・。俳句を始めてからの月日はまだ浅く、吟行の経験もない。しかしここはともかく実際に聞いて見るに限るとバスに乗り、森の広がる公園に出掛けてみた。  ボートの池もある公園の一角にかなり広い森が待ち構えていた。小道を往くと会う人もなく、時々立ち止まって耳を澄ますが、残念ながら鶯の声は聞こえてこない。ふと目の前に小ぎれいなカフェが現れた。疲れたので「ともかく、ここでひと休み」。メルヘン風の雰囲気もある洒落た句だと思う。(恂)

続きを読む