身の上は知らぬいつもの雪女    廣田 可升

身の上は知らぬいつもの雪女    廣田 可升 『この一句』  「雪女(雪女郎)」は実に傑作な季語だと私は思っている。日本の昔話にしばしば登場し、雪の精とか幽霊だとか言われるが、絵空事だけでなく現実にも存在しそうな女性で、歳時記の中では「気象・天文」に分類されているのも可笑しい。つまり季語「雪女」はどう詠んでも許される面白い題材なのだ。  この句の女性はうら淋しい酒場に夜な夜な現れてくるらしい。常連の男たちはカウンターの隅に座る女性についてあれこれ詮索しているが、正体は依然として不明のままだ。特に雪の日に表れるので、男たちは「お雪さん、また来たぜ」などとひそひそ話をしている。果たして彼女は雪女か、人間なのか。  作者は実はこの続きも詠んでいた。同じ句会に出されたその句は「淋しけりや一杯やらんか雪女郎」。一人の男が女性に声を掛けてみたのだ。故・真鍋呉夫さんの句集「雪女」に登場する雪女のような切実感はないが、二句から浮かぶ遊び心を作者とともに楽しみたい。これまた俳句、ではないだろうか。(恂)

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一斉にビル輝ける初日の出     大下 綾子

一斉にビル輝ける初日の出     大下 綾子 『合評会から』 百子 初日と言えば山々を照らすとか、海を真赤に染めてとかいうイメージですが、これは超高層ビル群が一斉に輝くという初日の出。一度、拝んでみたいです。 幻水 まさに都会の初日の出です。ビルが一斉に輝く様子が目に浮かぶ。 而云 私が近所の公園に見に行く初日は、ビルとビルのすき間から出ます。後方にもビル群があれば、句のような光景を目にすることができるはずだ。 啓一 人工の建築物に当たる初日ですね。これは頭の中で作った句ではないと思う。実景でしょう。              *            *  本欄は元旦から三日間、新年の句を紹介し、「実は昨年作の句でした」とブログの内情を打ち明けた。その後「雑煮」など、本年作の初春の句を紹介してきて、この句は三句目。掲載したい新年の佳句は既に相当揃っているのだが、この後次々に登場させるわけにもいかない。立春は二月四日だから、冬季の句を早く消化しておきたいのだ。春になればなるべく春の句を。もう一人の筆者(水)氏もそう考えておられるはずだ。(恂)

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片方の手袋ばかり二年越し    杉山 智宥

片方の手袋ばかり二年越し    杉山 智宥 『この一句』  手袋の片方はなぜ、あれほど簡単にどこかへ行ってしまうのか。幼い頃、毛糸編みの手袋を紐で結び、首に掛けていたが、それでも紐が切れて、一方が無くなっていく。大人になっても変わることがない。私の場合、片方を外してバッグに入れたつもりが、家に帰ると見当たらない、という具合である。  残った片方はどうするのか。いつかもう一方が出てくることを期待して、タンスの引き出しなどにしまっておくのだが、夏になれば手袋を思い出すことはない。次の冬になり「そうだ、もしかしたら」と引き出しを開けてみても、当然ながら片方のまま。そしていつの間にか手袋のことは忘れてしまう。  作者は片方だけで二年間を過ごしたらしい。新しいのを買うのが面倒なのか、あるいは残った片方に義理立てして買わないのかも知れない。やがて一方が出てこないまま年が過ぎ、不思議なことに残りの一つも、いつの間にか見えなくなっているはずだ。手袋は相方探しの旅に出たのである。(恂)

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老櫻の余さず浴びる冬日かな     徳永 正裕

老櫻の余さず浴びる冬日かな     徳永 正裕 『合評会から』(番町喜楽会) 水馬 春を待つ老桜ですね。景がよく見えてきます。私や仲間のことも連想させられる。 幻水 老桜と冬日の響ききがいい。桜の太い幹が冬日を浴びているんですね。 春陽子 落葉樹は枯木の時期です。「余さず日を浴びる」に素晴らしい日当たりが感じられる。 大虫 冬の日が当たることによって、老桜の幹があからさまになる。枝が切られていたり、幹が荒れていたりしているのでしょう。葉の茂る時期なら、この句の表現するような様子は見えないはずだ。 満智 「余さず浴びる」に、年を経た桜の貫禄を感じますね。 斗詩子 春爛漫の頃、見事な花を咲かせた老桜の姿が浮かんできます。          *           *  正岡子規は擬人法を「月並句」の条件の一つに挙げ、乱用を戒めている。しかしこの句は、一種の擬人法ではあるが、「花が笑った」「山が黙する」のような臭みがない。作者が見たままを、我身に近づけて表現しているからだろう。選者の言葉にも老桜を自分に置き換えるような雰囲気が感じられる。(恂)

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記念にと撮れど写らぬ雪女     嵐田 双歩

記念にと撮れど写らぬ雪女     嵐田 双歩 『おかめはちもく』  雪女、雪女郎というのは雪国に伝わる説話・伝説で、降りしきる雪の中に現れる妖怪である。もともとが幻想の産物である。これを句にするのはなかなか難しい。雪女の説話をなぞって詠んだだけでは詰まらない。さりとて現実世界に引っ張り込んで詠むと、作り物の感じがして薄っぺらな句になってしまう。近松門左衛門の言葉に「虚実皮膜」の間というのがあるのが、雪女を句にするにはこんなところが眼目になるだろう。  ということを念頭にこの句を眺めると、この「虚」と「実」との折り合いがうまくついていないように思う。この句は、現実にはあり得ない「雪女」が、豪雪の中に現れたかのように感じてシャッターを押した、ということなのであろう。雪女などというものは伝説の中の存在なのに、あたかもそれが居るように思わせる銀世界。そうした幻想と現実がないまぜになっているところを言うのなら、「記念にと撮れど」という実際的行動を説明するような表現は好ましくない。この辺は吹雪の中にぼやかした表現にした方がいい。   (添削例) 撮ったぞと思へど写らぬ雪女   (水)

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冬の日の空降りてくる硝子拭     玉田 春陽子

冬の日の空降りてくる硝子拭     玉田 春陽子 『合評会から』(番町喜楽会) 正裕 「冬の日」という季語には「冬の陽差し」と「冬の一日」のふたつの意味がありますが、これは後者ですね。硝子拭というあまり俳句に使われない素材を使って、冬の日の寒々した感じがよく出ています。 啓一 「空降りてくる」という普通余り使われない措辞がいいですね。拭いている人が見えるような躍動感のあるいい句だと思います。 満智 下から見上げている感じですね。 佳子 澄んだ青空がいっぱいに広がった暖かな冬の日を実感します。 綾子 真っ青な冬の青空が目に浮かびます。           *       *       *  ビル街を歩いているとよく見るガラス拭きである。冬の日が横からさしてきて窓硝子の表面がきらきら反射している情景が浮かんで来る。私は巨大な鏡のような高層ビルを拭いているゴンドラを目に浮かべたが、作者によると、五階建ての小さなビルで板を渡したブランコのようなものがスーッと降りて来たところを詠んだのだという。それはそれで軽業師を見るようで面白い。(水)

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餅も菜も小さく刻み雑煮膳     山口 斗詩子

餅も菜も小さく刻み雑煮膳     山口 斗詩子 『この一句』  「老人大国ニッポン」のお正月を鮮やかに描き切った句である。喉に詰まりやすい餅は小さく切り、歯に挟まりやすい小松菜は細かく刻む。高齢者の雑煮作りの心得をそのまま詠んだような句であり、「何が面白いんだ」という声が聞こえてきそうだ。しかし、こういう風に素直にそのままを詠み止めたところがなかなかのものではないか。年老いた夫婦二人の、静かでのんびりしたお正月の情景が浮かんで来る。  年を取ることによる不自由さや悲哀というものは、年を取ってみなければ分からない。数年前までは何ということもなく切ることの出来た伸し餅が切れなくなって、「ああ、来年からはサトウの切餅か」なんてぼやいている。ちょっと薄暗い部屋に入るともう新聞が読めない。暮らしの節々で老いの切なさを味わう。  しかし、この句は同じように老人の生態を題材にしていながら、暗い感じがしない。加齢による身体能力の低下を平静に受け止めている、いわば「安心立命」といった作者の姿勢が伝わってきて、こちらも素直な気持になるのだ。(水)

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今朝からは歩数距離数初日記     金田 青水

今朝からは歩数距離数初日記     金田 青水 『季のことば』  「初」をつけると大概のものが新年の季語になる。その中では「初日記」はかなり重みのある新年の季語として定着している。  暮れに本屋の店頭にこれでもかとばかりに並べられた日記帳を見て、来年こそはこまめに日記をつけて、規則正しい暮らしをしようと殊勝なことを考えて、あれこれ選んだ挙げ句に買ったお気に入りの一冊。元日の夜、第一ページを開く。今日からはと心に決めた事の一つは、万歩計を付けてちゃんと歩くこと。そして、それを日記帳にきちんと記録してゆくことだ。  一日一万歩は少しきついかな、目標八千歩ということにしようかな、などと思いながら、散歩コースを何通りか考える。故郷を離れた大学時代から、東京で就職して結婚し、子育て、何度かの転勤を経て、東京湾岸の新開地に住み着いた。考えるまでもなく、故郷で過ごした高校生までの年月より、ここでの暮らしの方が何倍も長くなっている。埋め立ての湾岸地帯も年月の経過とともに、自然に溶け合って、落ち着いた雰囲気を醸し出すようになった。生い茂っている草木も、舞飛ぶ鳥たちも、一緒に歩み続けてきた仲間なんだなあと思う。(水)

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豚汁にならぶ笑顔や空っ風     須藤 光迷

豚汁にならぶ笑顔や空っ風        須藤 光迷 『季のことば』  豚汁ほど日本全国至る所で頻繁に作られている汁物はないのだが、季語になっていない。「豚汁」は東京近辺では昭和の初め頃から作られるようになったのだが、それまでの長い間「薩摩汁」とか「狸汁」と呼ばれて、鶏肉やホンモノの狸や猪の肉が使われていた。それが豚肉に変わり、大根、人参、牛蒡、里芋、蒟蒻などとのごった汁になった。今や薩摩汁とか狸汁と呼ぶ人はほとんど居らず、「豚汁」という名前が定着している。もうそろそろ「豚汁」が冬の季語になっても良さそうに思う。  冬の寒い日には絶好の食べ物で、村おこしのイベントなどで振る舞われるのは大概これである。震災や大火事、洪水などで避難所が設けられた際の汁物の定番になっている。  この句の豚汁も「ならぶ」とあるから、何かの催事の目玉になっていて行列が出来ているのだ。冬の関東にはつきものの「空っ風」をものともせず、みんな熱々の豚汁をいただく順番を笑顔で待っている。「空っ風」という季語が効いていて、この場合は「豚汁」が季語に昇格していなくて良かったようである。(水)

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外は雪胸に冷たき聴診器     澤井 二堂

外は雪胸に冷たき聴診器       澤井 二堂 『この一句』  鋭い感覚の句だ。雪が降っているからといって、空調完備の病院内がいつもより寒いはずはない。それでもなおかつ、こういう日の診察は、胸に当てられた聴診器を殊の外冷やっと感じる。  胸前をはだけて聴診器を当てられる時、大概は医師の顔など見ずにあらぬ方に視線を這わせる。なんとなく不安感があって、医師の背後の窓の外を眺めたりするのだ。暗い空から雪がしんしんと降って来る。  「ああ、変わりはありませんよ」と医師の声は極めて事務的なのだが、そう言われるとほっとする。  「いろんな場面が想像できる句ですね。学校の健康診断かな、イメージとしては幸せ薄い少女とか・・」(哲)という句評もあって、平成二十八年歳末の日経俳句会合同句会は笑いに包まれた。もちろんこの句会の顔ぶれからすれば、この句の主人公は身体のあちこちに不具合を抱えた高齢者と考えるのが自然だが、確かに心細い表情の少女を思い浮かべた方が、句としては面白くなる。(水)

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