風上に席を移してどんと焼き     石黒 賢一

風上に席を移してどんと焼き     石黒 賢一 『この一句』  この句を見て少年時代の焚き火を思い出した。暖房が火鉢や炬燵くらいだった昭和二、三十年代の頃、悪ガキが集まって焚き火をし、暖まったものだ。風下になると煙くてかなわず、風上に回ると今度はそこに煙が押し寄せ、また風下に逃げる。なんでオレのところばかりに、と思ったこともあった。  考えて見れば、どんど焼きは大掛かりな焚き火なのだ。風下で見ていれば煙が押し寄せるので、風上に席を移すことになる。正月最後の行事、年に一度の火祭だから、相当な騒ぎになりそうだ。家族が揃っての見物ならば、敷いていたゴザを丸め、幼児を抱えて走るような場面もあるのだろう。  私(筆者)がどんど焼きを見たのは一度だけ。それも東京・赤坂の日枝神社で昼間に行われたのを、遠くから見物しただけだった。郷里のどんど焼きを間近に見て来た人たちとでは、体験の濃淡が決定的に違う。焔で眉毛が焦げるほど、煙が来れば逃げ惑うようなどんど焼きを体験したいものである。(恂)

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どんど焼き火柱天を突き抜けり    宇佐美 論

どんど焼き火柱天を突き抜けり    宇佐美 論 『合評会から』(三四郎句会) 賢一 どんど焼きは、ある時を境にどっと燃え上がります。本当にすさまじい勢いですよ。「火柱天を突き抜けり」という表現がいいですね。 豊生 秩父で見たどんど焼きの感じがこれだった。人生にもあの勢いがあれば、なんて思ったものです。  而云 迫力のある句だ。本格的などんど焼きはこういうものなのだろう。 諭(作者) 私は神奈川県の田舎の育ちだから、このようなどんど焼きを毎年、見ていました。            *          *  前句「天かけて龍立ち昇る」が威力のある変化球だとすれば、こちらは真っ向勝負のストレート。「火柱天を突き抜けり」という言葉の勢いから、この句も現場を見た人の作だろうと思っていたが、その通りだった。お二人とも幼い頃から毎年のように、生まれ故郷などのどんど焼きを見つめていたのである。  子規の説く「写生」を金科玉条とし、吟行や散歩を心掛け、風物に注意を注いでいても及ばないものがある、と感じた。簡単に言えばそれは、人が生まれて以来自然に得てきた経験、体験といったものだろう。(恂)

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天かけて龍立ち昇るどんど焼き    吉田 正義

天かけて龍立ち昇るどんど焼き    吉田 正義 『合評会から』(三四郎句会) 賢一 どんど焼きの勢いは、まさに「龍立ち昇る」ですよ。 而云 写真などを見て、頭の中で左義長の勢いを描き出そうとしても、このようには詠めない。作者は焔の立ちあがるのを実際に近くで見ていたのではないだろうか。 照芳 私はどんど焼きを見たことがないが、うまい表現だと思った。 正義 (作者)子供の頃から、「あの火は龍なのだ」と聞いていた。立ち昇る焔は一本の火ではない。分裂したり、からみ合ったり、本当に龍の感じがした。       *           *  「天かけて」は「天(あま)翔けて」だろう。辞書には「鳥や神、人の霊魂などが天空を走り飛ぶ様子」などと説明されている。龍はもちろん天翔ける霊獣である。人間は大昔から、盛大に火を燃やした時、高々と立ち昇る焔を見つめて、あれは龍なのだ、と胸をときめかせていたのだろう。父から子へ、あるいは祖父から孫へと語り継がれた言葉が、いまなお俳句を通じて我々に伝えられている。(恂)

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冬ざれや裸の王様咆哮す     中嶋 阿猿

冬ざれや裸の王様咆哮す     中嶋 阿猿 『おかめはちもく』  最初この句を見た時、何を言っているのかが分からなかった。句会の選句披講の際にも声が上がらず、そのままになった。家へ帰って、もう一度みんなの選句結果や句評のメモなど見返しているうちに、はっと気がついた。  「そうか、トランプ新大統領か」  言われてみればまさにそうである。「世界で一番エライのは俺だ」と摩天楼の上で咆哮しているのだ。とても面白い。「いやはや、鈍かったなあ」とそばで居眠りしている居付き猫チビの頭を叩いたら、ぎゃあ、何すんのさと引っかかれた。  確かにタイミングの良い句であり、言い得て妙ではあるが、さて、多くの人に理解されずに素通りされたこの句が、しばらくたってから理解されるということはまずあり得ないだろう。さりながら、この句は形がちゃんと出来ており、直すところが無い。「冬ざれ」という季語も語感も合っている。さてどうするか・・・。  そうだ、こういう時にこそ「詞書」(前書)を生かすべきではないか。   破天荒の大統領誕生  冬ざれや裸の王様咆哮す 阿猿     (水)

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あら塩の浮く梅干や寒の入り     星川 佳子

あら塩の浮く梅干や寒の入      星川 佳子 『合評会から』(日経俳句会) 阿猿 よく梅干に視点がいったなと思った。寒いといろいろなところで塩が浮くものだが、とにかく観察が素晴らしい。 大虫 この時期、飲み過ぎ食べ過ぎで、お粥がほしくなる。それに梅干を乗せたんでしょうか。塩が氷を連想させて「寒」を強く意識する。 双歩 塩をふく梅干しは季節に関係なく見る。ただ、寒の入りという日だけに、特に感じたという思い入れが伝わってきます。 実千代 寒さを表現するのに、塩に凝集している点が素晴らしい。 反平 梅干は夏の季語だけど夏は暑いから塩は浮かない。寒だからこそだね。「あら塩」とやったのがいい。 博明 先日、おにぎりを作る時に同じ事を感じました。           *       *       *  塩の結晶が浮くほど乾いてしまった梅干は、十分熟れているので味はいい。ただ、固くて舌触りが悪い。小鉢にとって酒を振りかけ、半日から一日置くととても美味しくなる。(水)

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蛇口から水細く出す寒の内     岩田 三代

蛇口から水細く出す寒の内     岩田 三代 『季のことば』  朝寝坊で寒がりの私には、この感じが本当によく分かる。蛇口をいきなり大きくは開かない。おずおず、ちょろちょろと水を出して、「おー冷たい」などと独り言を言って、そそくさと洗うのだ。  人のそばには常に水がある。そのせいか四季折々の「水」にまつわる季語が沢山あり、それらを詠んだ句や、水を他の季語と合わせて詠んだ句が無数にある。そうした句の中でも、これは「寒の内」の感じをとてもよく表した句として出色のものではないかと思う。句会初参加の作者はお披露目早々好打を放った。  この句を読んでいて思い出したのだが、「水荒く使ふ五月となりにけり 伊藤道明」という句がある。これは蛇口を威勢良く開けて、じゃーっと豪快に水を出す。いかにも夏になったぞという感じで、掲句と対になるようだ。  そして、春の水には「水底に映れる影もぬるむなり 杉田久女」があり、秋には「水澄みて亡き諸人の小声かな 秋元不死男」がある。こんな風に四季折々の「水」の句を思い出しながら、自分でも作っていくと面白い。(水)

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浅草の元気をもらふ福詣     前島 幻水

浅草の元気をもらふ福詣     前島 幻水 『この一句』  この句は今年の七福神の特徴を言い当てている。浅草は本当に元気になった。私も歩きながらその活気を体内に取り込んで行く感じがした。  戦前、すなわち昭和前半、浅草が大いに賑わったことは話で聞いたり、物の本で読んだりしているが、この目で見たわけではない。私の知っている浅草は昭和二十年以後である。敗戦直後の浅草はバラック建ての闇市で非常に活気に溢れていた。昭和三十年代までその勢いが続いていた。しかし、銀座通りはじめ都内各所の盛り場が整うにつれて、浅草の地盤沈下が始まり、昭和四十年代半ばからバブル時代にはすっかりさびれてしまった。  どうしてそうなってしまったのか、よく分からない。人気が無くなると人通りが少なくなる、そうなるとますます人気が落ちる。そんな「負のスパイラル」に落ち込んだようである。  それが今や物凄い人気。外国人客も大勢寄って来る。噂を聞いて全国各地からのお上りさんも集まる。町自体はさして変わらないのに。不思議に思う。(水)

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福詣昔紅蓮の空の下     今泉 而云

福詣昔紅蓮の空の下     今泉 而云 『合評会から』(浅草名所七福神吟行) 双歩 吉原弁財天は東日本大震災直後に取材に訪れたことがあり、想い出深い場所です。「昔紅蓮の…」と含蓄のある詠み方に特に惹かれました。 臣弘 度重なる吉原大火災で多くの女郎が犠牲になった。同じ空の下、平和ボケの我々は過去の歴史を忘れてはなりません。 涸魚 関東大震災、東京大空襲を経てきた浅草、今の平和を思う気持ちがよく出ている。 哲 穏やかな日和に恵まれた今回の七福神めぐり。同じ空の下で関東大震災で犠牲になった遊女の霊を慰める吉原神社を参拝しながら、今の世の幸せを思う。 冷峰 関東大震災、東京大空襲、浅草など下町は紅蓮の炎に包まれました。 十三妹 吉原炎上、B29の空襲、人間の命なんてはかないと。           *       *       *  良く晴れた七草の日、総勢二十五人の大部隊で恒例の七福神吟行。吉原弁天境内に掲げられていた関東大震災当時の新聞写真には身の毛がよだった。のどかな雰囲気の今日との懸隔の甚だしさ。七福神巡りの句としては異色だが、断然の一位となった。(水)

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風抜けて塩田平に凧揚がる     高井 百子

風抜けて塩田平に凧揚がる     高井 百子 『合評会から』(番町喜楽会) 春陽子 普通だったら「風受けて」となるんでしょうけど、盆地だからか「風抜けて」。これががいいなと思いました。 二堂 作者が分かりますが、塩田平ののどかな風景が伝わってきます。 佳子 情景が凧のようにパーッと広がりました。 而云 そう、「塩田平」とか「独鈷山」とかは、作者が分かってしまうので確かに採りにくいよね。 百子(作者) 今年は「塩田平」と「独鈷山」はもう使いません。宣言します。 誰か そんなこと言わずどんどん使ってよ(笑)。           *       *       *  数年前に上田市郊外の独鈷山の麓、風光明媚な塩田平に移り住んだ作者夫妻、次々に地元の風物を詠み込んだ佳句をものしている。小さな句会だから自ずと作者が分かる。それでちょっと採りにくくなることもある。しかしこれからは、いいものはいいと、正当な判定をするように心掛けよう。これも実に気持の良い句だ。(水)

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雪女ふりむく顔は壇蜜だ     田中 白山

雪女ふりむく顔は壇蜜だ     田中 白山 『おかめはちもく』  細面で淋しげの表情、というのが雪女の定番である。しかしそうだろうか、とこの句は問い掛ける。タレントの壇蜜さんはどちらかと言えば丸顔だ。淋しげな顔を見せる時もあるだろうが、おおよそは明るい表情をしている。ところが彼女には雪女と呼びたい雰囲気があり、この着眼点には拍手を送りたい。  ただし句の構成には、ちょっと注文をつけたくなった。人気の女優やタレントの個人名を俳句に詠み込むのはかなり異例である。一種のキワものだけに、油断すると遊びの側面が目立ってきてしまうのだ。一歩誤れば俳句の常道からはみ出すことにもなり、この句はその一線を越えたか、とも思われる。  「ふりむく顔は壇蜜だ」は、俳句の詠み方として違和感がある。最初に「雪女」と、正体を見せてしまったのも面白くない。雪がちらつく中、後ろ姿の女性が淋しげに立っている。「はて、この女性は?」。振り向いた女性は壇蜜の顔、しかも彼女は雪女だった、という展開がいいのではないか。そこで・・・ (添削例) 振り向けば壇蜜の顔雪女 (恂)

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