鮟鱇鍋妻と迎える定年日     池内 健治

鮟鱇鍋妻と迎える定年日     池内 健治 『この一句』  定年の退職日に鮟鱇鍋とは――。 初めは少々違和感を抱いたが、やがてこの風変わりな定年日のお祝にこそ面白味がある、と思うようになって行った。なぜ鮟鱇鍋なのか、が重要である。「妻と迎える」という夫の思いやりと相まって、掌編小説のエッセンスのような、ミニ物語が浮かんできた。  夫が何かの折に鮟鱇鍋のことを話していた。社員旅行で大洗(茨城)に行った時に食べた味が忘れられないらしい。夫は同僚や部下たちとよく飲みに行っていたが、鮟鱇には長らく御無沙汰のようだ。妻は「定年日には二人で鮟鱇鍋を」と決め、夫に話した。夫は訝った。妻の好みは洋食のはずなのに。  「何で鮟鱇鍋なの?」と夫は聞いた。「食べてみたかったの」と妻は答えた。夫は洒落たレストランに行き、ワインで乾杯をしようと考えていたのだが、妻は鮟鱇鍋にご執心のようである。夫は思った。定年日とは妻へ「御苦労さま」と感謝を伝える日なのだ。妻の願いを叶えてやることにしよう。(恂)

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母植えしカエデの木々の落ち葉ふむ     池村 実千代

『おかめはちもく』  母植えしカエデの木々の落ち葉ふむ     池村 実千代  情感豊かな、とてもいい句である。しかし、「母が植えた楓の木の落ち葉を踏んでいる」と一本調子の報告調になってしまっているために、感興が薄まってしまう。叙述に工夫を凝らすと名品になりそうだ。  まず、「カエデの木々」とあるが、お母さんは楓の木を何本も植えたのだろうか。三本くらいならば「三本」と数を言った方がいい。七本も八本も植えたのだとすれば、それはもう「楓林」と言った方がいい。「木々の」がちょっと散文的ではなかろうか。  この句はまず最初に「落葉踏む」を持ってきて、「これは亡き母が植えた楓の落葉なのだ」と詠んだ方がいいのではないか。そうするとしみじみとした懐旧の念が強まりそうだ。しかもリズム良く流れるようになる。 (添削例) 落葉踏む母の植えにし大楓

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水牛に休養日あり島小春     今泉 而云

水牛に休養日あり島小春     今泉 而云 『合評会から』(番町喜楽会) 幻水 竹富島でしょうか、のんびりした雰囲気が伝わってきます。 啓一 水牛に休日があるのかわからないけれど、「小春」と「休養日」はよく呼応していると思いました。 双歩 はじめは水牛先生かと思いました。そうしたら「島」が出てきた。そうすると水牛がいる島は…と思って東南アジアかな?と。そこから沖縄の竹富島が浮かんできて。ずいぶん分析に時間がかかりました(笑)。 水牛 僕は「休肝日あり」と読んでしまって、ほっといてくれと真っ先に選から外した(大笑)。           *       *       *  作者によると、孫娘の休みに合わせて沖縄旅行に出かけた時の作。由布島という小島らしいが、そこも水牛車で観光客を運んでいる。島の一角に水牛の放牧場があり、週一回、水牛にも休養日を設けてその囲いの中でのんびりさせているのだという。離島の小春の様子がほのぼの伝わって来る。(水)

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立て衿のか細き首や冬浅し     水口 弥生

立て衿のか細き首や冬浅し     水口 弥生 『合評会から』(日経俳句会) 実千代 冬の初めの情景がよく表わされている。初冬はマフラーを巻かずに衿を立てるので首が見えるんですね。 臣弘 散歩の途中にお茶の先生らしい人とすれ違った。その人の衿元を想像した。寒い日が分かるような気がした。 二堂 私も首が細いので分かるが、細いと寒さを感じやすい。この人も痩せている人で寒さを感じているなと思った。 てる夫 「か細き首」だから、女性がおしゃれな着方をしていると見た。 而云 「立て衿」は見たことないと思い辞書引いてみると、「立ち衿」と同じだ。衿を立てていることで、色っぽく見えたのだろう。           *       *       *  洋服の襟を立て洒落た着こなしの美人が目に浮かぶ。「細い首に人気があるのは、この句会に男性が多いからでしょう」(阿猿)というコメントに爆笑の渦。(水)

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納豆に朝日の入る山の宿     植村 博明

納豆に朝日の入る山の宿     植村 博明 『合評会から』(日経俳句会) 双歩 朝食に納豆が出るのは民宿が多い。鄙びた山の宿で朝日が入るし雰囲気がある。季語に合って気持ちがいい句だ。 阿猿 温泉宿の朝。旅情をそそる句。 実千代 冬の日は低く射してくるので、テーブルの上まで朝日が入ってくるんですね。冬の情景がよく出ています。 昌魚 朝日が入る景がよく見えた。温泉に行きたくなりました。 ヲブラダ 納豆はなかなか難しい季語だと思いました。この句は季節感が伝わってきます。           *       *       *  「納豆が何故冬の季語なのだ」という疑問をはじめ、「納豆」はとても難しい。「納豆汁」としてしまえば、にわかに季節感がふくれあがって扱い易くなる。それだけに類型的な句にもなりやすい。というわけで、納豆という扱いにくい季語を用いて、この句のように冬の雰囲気を十二分に味わえる句に出会うと嬉しくなる。(水)

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小春日や子犬の待てぬ長話     前島 幻水

小春日や子犬の待てぬ長話     前島 幻水 『合評会から』(番町喜楽会) 満智 子犬が行こうよ行こうよと動き回っているのに、飼い主はおしゃべりしていて動かない。景が浮かんできます。大好きな句です。 大虫 子犬がいくら引っ張っても、飼い主は動かない。きっとでっぷりした人なんでしょう(笑)。いい句ですねぇ。 綾子 暖かいので立ち話が長いんでしょう。楽しい句ですね。 而云 話好きなんでしょう。犬は早く歩きたくて紐を引っ張っている。一瞬を切り取ったいい句です。 可升 百パーセント女性同士ですね。たぶん片方の人だけが犬を連れているのでしょう。両方連れていたら、犬同士でじゃれあうし…。           *       *       *  年がら年中見る光景なのだが、改めてこうして句になったのを読むと楽しい。「小春日」とよく合っている。作者は俳号をいかめしい「嚴」から浪漫的な「幻」に変えた。「変えた途端に最高点句だね」とみんなに冷やかされた。(水)

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冬夕焼け映し点滴壜揺れる    須藤 光迷

冬夕焼け映し点滴壜揺れる    須藤 光迷 『おかめはちもく』  合評会で「壜(びん)」が問題になった。点滴には壜より袋が多く用いられているのではないか、という疑問である。このところ「点滴袋に穴」といったニュースが続いており、袋が主流なのかな、とは思うが、私の句への思いは別のところにあった。「映し」と「揺れる」という二つの動詞のことである。  ベッドの上で点滴壜が夕焼けを映し、そして揺れている。それを見つめているのは病床の人か、見舞いの人か、どちらにしても無言なのだろう。深刻な病状なのだろうか。患者は無聊なだけかも知れない。なかなかの状況を描写していると思うが、句に詠み込む動詞は一つでいいのではないだろうか。  作者は俳句に一家言を持つ実力者である。「冬夕焼け映し」「点滴壜揺れる」と二つに分けて読むと、前衛句風な味わいも感じられよう。しかし私は俳句の要諦に従い、一点に絞ってみたい。動詞は一つ、夕焼けが壜に揺れている感じで・・・。憚りながら、私の添削例。「冬夕焼け点滴瓶に揺れてをり」(恂)

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鮟鱇をぶら下げて行く渚かな     井上 啓一

鮟鱇をぶら下げて行く渚かな     井上 啓一 『合評会から』 百子 小さな漁村の夕方の情景が浮かびます。 大虫 私は映画の冒頭の一シーンを思い描いた。何気ない情景なのですが、ここから何か複雑なドラマが始まって行きそうな、そんな感じを受けました。 光迷 漁師が「こんなのが掛かっちゃった。しょうがねぇ、家で食べるか」と売り物にならない小さな鮟鱇をぶら下げて海辺を歩いて行く。吊るし切りするほどじゃない。俎板でも捌けますからね。 水馬 大きな鮟鱇をぶら下げて? と思ったが、小さなものなら頷けます。          *            *  確かに何気ない情景である。しかし句の鑑賞者たちはその裏に潜むものを探り出し、さまざまに思い描き、作品に厚みを加えていった。小舟で漁を終えた夕方なのだろう。鮟鱇は漁師がぶら下げて行けるほどの大きさである。彼はこの獲物が金にならなかったことをぼやいているが、晩酌を思えば頬も緩みがちだ。そしてさらに・・・、作品は合評会を終えてなお、先へと続いて行く。(恂)

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アンコウの身に覚えなき吊るし切り    野田 冷峰

アンコウの身に覚えなき吊るし切り    野田 冷峰 『合評会から』(番町喜楽会) 可升 一種の擬人法だけれど、嫌味がない。吊るされて捌かれて、何でこんな目に遭わなくてはならないのか、という鮟鱇の嘆きが聞こえてきます。 春陽子 そうだよね、鮟鱇にしてみれば身に覚えのないことですよ。 大虫 マグロでも半身にされちゃうけれど、何しろ吊るし切りですからね。 正裕 悪いことしたわけじゃないのに、これほど残酷な仕打ちを受けるとは。 百子 鮟鱇は捨てるところがない、と言うでしょう。骨の筋まで剥ぎ取られるのですよ。 冷峰(作者) 私も昔は身に覚えのないことで、よく・・・  誰か 吊し上げられたか。         *         *  魚料理店で砕氷に埋もれた巨大な鮟鱇を見た。氷の中から出ている顔は人間の倍ほど。怪獣、いや悪魔と言うべき風貌であった。しかし人間はこれをバラして食ってしまうのだ。鮟鱇から見れば人間こそ悪魔である。(恂)

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鴨泳ぐずっと前から居る顔で    大澤 水牛

鴨泳ぐずっと前から居る顔で      大澤 水牛 『季のことば』  東京近辺の池や河川にはすでにカモ類が飛来してきた。かつてはドブ川と呼ばれたような川も近年は水がきれいになり、マガモ、コガモ(種類の名)などが姿を見せている。散歩中の高齢者や買い物途中の奥さんらが立ち止まって、眺めており、わが家のカミさんも「今日は十羽くらい」などと報告する。  すると、渡りをせずに居ついていたカルガモが逆に姿を見せなくなった。彼らはロシアあたりからカモがやって来ると、遠来の客に場所を譲るようにどこかに行ってしまうのだ。今では新顔のカモたちはまるで自宅に戻ったかのような態度で悠然と泳ぎ、川の中に首を入れ、何かを食べたりしている。  句の「ずっと前から居る顔で」を見て「そう、そう」と笑ってしまった。このところ小さなコガモなどがわがもの顔でのさばっている。こうなるとカルガモたちのことが気にならざるを得ない。作者は横浜の三渓園あたりで、水鳥をよく観察しているという。今度会った時にカルガモの消息を聞いてみよう。(恂)

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