締め忘る窓に九月の唐突に     大沢 反平

締め忘る窓に九月の唐突に     大沢 反平 『合評会から』(酔吟会) 正裕 夏の間開け放していた窓をそのままで締め忘れていた。突然真夏と違う風が吹いてきて、あぁそうか、もう九月なんだという感じが、唐突という言葉によく表されています。 百子 窓の風から不意に九月を発見したという感じがよく表されてます。 臣弘 まだ夏の続きだと思っていたらとんでもない、もう秋が来ているんだと。 てる夫 九月は、昼間はともかく夜になると、特に明け方には、新涼というか寒いぐらいのことが上田でもあります。そんな感じを唐突という言葉で表しています。           *     *     *  「秋来ぬと目にはさやかに見えねども…」という古歌を思い出した。暑いのだけどふと感じる九月の涼を、唐突という言葉でうまく表している。文法を云えば「忘るる」という連体形にしなければいけないのだろうが、まあ古代には「忘る」という連体形もあったというから、ま、いいか。とにかくうまく詠んだものよと感服した。(水)

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靄晴れて突如広がる花野かな     前島 厳水

『おかめはちもく』 靄晴れて花野豊かに広がりぬ     前島 厳水  句を見た時、「いいな」と思ったが、選べなかった。「突如」のためである。靄(もや)や霧が急に晴れるとは思えなかったのだ。突風が吹けば、あり得るだろうが、風があればもともと、靄は立ち込めないのではないか。靄がだんだん薄くなり、花野がゆっくり現れて行く、という風に詠みたかった。  靄は朝靄なのだろう。夜明けが朝に変わっていく頃、靄や霧は徐々に退散していく。私の記憶にあるのは美ヶ原、蓼科の八子ヶ峰高原。吟行で行った尾瀬では、ロッジの窓から心ゆくまで眺めたものである。靄が晴れ、周囲の風景が広がって行く中で、単なる草原とは違う、花野の多様さを表現したいものだ。  「靄晴れて花野豊かに広がりぬ」。これでいいのではないだろうか。靄がゆっくりと薄れて行く様子を描くなら「花野静かに」も悪くない。最後に一つ。「霧」ではなく、「靄」としたのは、季重なりを避けるためかも知れない。このような場合、私は「霧」でかまわないと思うが、原句の「靄」を尊重した。(恂)

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日本丸マストの先の星月夜        岡田 臣弘

日本丸マストの先の星月夜        岡田 臣弘 『この一句』  「星月夜」は一般の人のあまり知らない用語の一つだろう。歳時記では「星明りの夜」と説明されている。つまり月のない夜空に星が明るく輝いている夜のこと。星の光だけで、月夜のように明るい夜、とも言えよう。作者はそういう夜に横浜港を散策し、係留されている日本丸の近くを通ったのだ。  日本丸は海洋練習用の大型帆船として世界の海を巡った。帆も船体も純白の美しいヨットで、「海の貴婦人」とも呼ばれていた。戦前の一九三〇年に進水、全長九十七叩▲瓮ぅ鵐泪好箸旅發気六予熟鮫叩8什澆浪I諭Δ澆覆箸澆蕕っ篭茲瞭鐱楷櫂瓮皀螢▲襯僉璽内で展示、公開されている。  作者は日本丸のマストを見上げた。月はなく、帆を畳んだマストの先の夜空に星が輝いていた。太平洋戦争中、日本丸は帆を外され、石炭などの輸送船になったことがあった。敗戦直後は海外在留邦人の帰還にもあたった。博識の作者は帆船のそんな歴史を思いながら、星月夜を眺めていたのだと思う。(恂)

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名を忘れところも忘れ花野行く     池内 健治

名を忘れところも忘れ花野行く     池内 健治 『この一句』  不思議な、気にせざるを得ない句であった。名を忘れ、ところも忘れ、という花野はあり得るだろう。しかしその花野を「行く」とはどういうことか。夢の中のことか。認知症の老人が自分の名を忘れ、住所も忘れて、というのか。作者に確かめてみたら「どう説明したらいいか」と迷っている様子。  大学や学会などの要職から解放された作者はいま、人生の行く末を思うことがあるらしい。身近な年長者に接するにつけ「いずれは自分も」と考えてしまう。句会の兼題「花野」から「リア王」の翻案・黒沢監督の「乱」が浮かんできたという。自分の名さえ忘れ、荒野をさまよう元城主の行く末である。  この句は「我が心の花野」を詠んだ、と言うべきだろう。しかし「みんなの花野」ではない、とも言い切れない。理屈に合わない面もあるのだが、その矛盾によって読み手を思考の迷路に誘っていくのだ。句会で一票を投じた人がいた。どのような評価だったのか、その人に聞いてみたいと思っている。(恂)

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フリットでイタリアンです今日の鯊     斎山 満智

フリットでイタリアンです今日の鯊     斎山 満智 『この一句』  かつて、江戸前(品川・月島あたりの海)で釣って来たハゼを家で食べるとしたら、天ぷらと相場が決まっていた。小さい割に頭の大きな魚だから、捌いてしまうと身がほんの少しになってしまう。せめて天ぷらの衣で太らせよう、という魂胆もあったが、何より他の料理を思いつかなかったのだ。  ところがこの句、フリットでイタリアンときた。フリットとは何か? 調べてみたら、衣に泡立てた卵白を加えて揚げた料理のこと。衣が膨らみ、カリッとしているらしい。これは美味そうだ。天ぷらの一種かも知れないが、片仮名が洒落ている。同じ江戸前の小魚・キス、メゴチなどもいけそうである。  ある家庭を思い描く。夫が数十年ぶりのハゼ釣りに出かけ、釣果はまずまずの五十尾ほど。料理自慢の妻がハゼを手際よく捌き、センスのいい一品に仕上げた。「何だい、これは」と夫。「フリットよ」と妻。夫は「ふーん」と頷きつつ「焼酎は止めて、白ワインにしよう。なにしろフリットだからな」。(恂)

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芒原揺れて見送る貨車の列     植村 博明

芒原揺れて見送る貨車の列     植村 博明 「合評会から」(日経俳句会) 哲 鉄道が好きなもので、この句を選びました。貨車が芒(すすき)とマッチしています。 而云 線路際の芒ですね。貨車の列が過ぎる時、芒が一斉に揺れる。懐かしい風景の句です。 庄一郎 広い芒原と貨車の列。貨車を見る機会は減っていますが、今でも百両くらい長いのがありますよ。 大虫 これは単線かな。両脇に芒が生えていて、戦いでいる情景が見えてくる。 昌魚 私も鉄道が好きで・・・この句、貨車だからいいんだなと。芒原に合う、いい句です。 綾子 私も同じく、貨車が好きなものですから。(笑い) 水牛 今は貨車の列というより、コンテナの台車の列になっていますね。              *           *  鉄道は郷愁を運んでくる。無人駅、蒸気機関車、廃線の錆びた鉄路・・・。それに貨車もこれらの列に加わって来た。俳句の「鉄道ファン」は大勢いるが、一般の鉄道マニアとは違い、撮影に出掛たり、雑誌を購読したりなど、面倒なことはしない。目をつむり、さまざまな鉄道の情景を思い描く。それでOKなのだ。(恂)

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出棺に炎熱裂くやクラクション     玉田 春陽子

 出棺や炎熱裂きしクラクション    玉田 春陽子 『おかめはちもく』  ぎらぎらと照りつける太陽の下の葬儀。葬祭場の玄関前に霊柩車が横付けされ、回りを黒服の会葬者が取り巻く。しずしずと運ばれた棺が車に収まり、後部ドアが閉じられ、喪主が乗り込んで、全員合掌する中をやや長いクラクション一声、車はゆっくりと出て行き、告別式は滞りなく終了。  仏滅の日を除いて毎日繰り返される葬祭場風景だが、炎天下の出棺合図のクラクションは、鬱々とした温気を切り裂くように響く。  この句は「炎熱」という盛夏の季語を、極めてユニークな場面を提示して鋭く描いた。素晴らしい着眼であり、観察力光る作品だが、「出棺に」と置いて、「炎熱裂くや」「クラクション」と順序良く述べたために、ただ単に出来事を報告しただけという感じになってしまった。それに切れ字「や」の位置からして、「クラクション」の句のようでもある。  さあ出棺、という瞬間を際立たせるために、まず「や」の位置を入れ換えた。次ぎに「炎熱を裂いた、裂き続けている」を印象づけようと、完了・存続の助動詞「き」の連体形「裂きし」としてみた。(水)

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素麺といへど二口三口噛む     山口 斗詩子

素麺といへど二口三口噛む     山口 斗詩子 『この一句』  「蕎麦や素麺はな、そんな風にくちゃくちゃ噛むもんじゃねえ、すすり込むんだ」。若い頃、威勢のいい先輩によくどやされた。何しろこちらがまだ蒸篭の半分もいかないうちに、このひとはさっさと平らげて蕎麦湯を啜り、立ち上がろうとするのだ。  私もどちらかと言えば何事もすいすいと運びたがる方なのだが、ものを食べるのだけはゆっくりと味わい、楽しみたい。蕎麦だって、粋な江戸っ子にはバカにされるが、つゆをちゃんとつけて、口中にしばらく含んで、味と香りを十分楽しむという食べ方である。  この句を見て、へー同じような人が居るもんだなあと感じ入った。  素麺といえば蕎麦よりもっと頼りない食べ物である。全く噛まずにつるつる呑み込んでも問題無いだろう。さはさりながら、そこが人情である。口中に入れたものを味わいもせず呑み込むことに抵抗を覚えるのだ。勿体ないとかなんとかいうのではない。かたちだけでも噛まずには吞み下せないのだ。物の食べ方の機微をよくも詠んだものよと思う。(水)

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門火消し一人暮らしの家に入る     田中 白山

門火消し一人暮らしの家に入る     田中 白山 『季のことば』  旧暦七月十三日から十五日が盂蘭盆。現今の東京近辺ではそのまま七月に行うが、地方では季節を合わせ八月にずらして行う事が多い。従って「盆」や「門火(かどび)」「茄子の牛(馬)」は俳諧時代と変わらず、秋の季語になっている。祖先の霊を迎えるために、十三日の夕暮れ時、門前に麻幹(おがら)や割箸の脚を付けた茄子胡瓜の牛馬を揃え、オガラを焚くのが「迎え火」。十五日夕に再び焚くのが「送り火」で、両方をまとめて「門火」と言う。  娘は嫁ぎ息子も一家を構えて、いまやつつましく一人暮らしの老婦人。門口でひっそりと迎え火を焚き合掌、「あなたお帰りなさい」とつぶやいて、オガラの燃えかすを丁寧に消し、静かに家に入る。仏壇には故人の好物だった枝豆や雲丹と吟醸酒が供えられている。そのお裾分けでしみじみと一献。  そんな景色を頭に浮かべながら、ああいい句だなと思っていたら、作者が分かってア然。なんと作者は男で、奥方は矍鑠とされている。完全なるフィクション。  まあ、蕪村だって「身にしむや亡妻の櫛を閨に踏む」と詠んだ時には、奥さんはぴんぴんしていたとの説もある。(水)

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燈台の裾にフリルや花薄     中嶋 阿猿

燈台の裾にフリルや花薄     中嶋 阿猿 『この一句』  とても洒落ている。絵本を開いた時のほんわかとした感じである。小さい頃連れて行ってもらった岬の、草原の遥か向こうに見えた真っ白な燈台を、突然また見せられたような思いもする。  フリルというのは、最近あまり流行らないファッションのようだが、子供服や婦人服の襟元や袖口や裾に、ひだを付けて波形に花びらを寄せたような飾り縁のことであろう。  岬の突端に白亜の燈台が一本、その裾を薄の穂が波打つフリルのように縁取っている──それ以外のことは一切述べていない。それこそ、「なんだ、燈台の裾に薄が茂っているというだけのことじゃないか」という悪口が出そうである。  「裾にフリルや」という措辞に、この句の命がある。岬の燈台という、これまでに嫌と言うほど詠まれて来た句材がこれで生き返った。このように誰もが「見た事のある景色」、言い古された素材を詠んで新鮮さを感じさせるには、こうした表現の工夫が欠かせない。(水)

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