七月だ長い休みが始まるぞ    池内 健治

七月だ長い休みが始まるぞ    池内 健治 『合評会から』(番町喜楽会) 白山 「七月」という兼題は難しいですね。皆さん、かなり苦しんでおられたようですが、思い切ってこのように作った勇気を称えたい。「ああ七月だ」という感じも出ていますね。 百子 教員やっていますと、長い休みが待ち遠しいですよ。本当に素直にこの句を選びました。試験が終わって、「いよいよ休みだ」という思いが込められていて、共感しました。 光迷 私はもう長い休みばかりの年齢だけれど、考えてみたら、孫は夏休みなると毎日、毎日来ますからね。この句、孫とのことで共感する人が多いでしょう。 池内(作者) 私の句です。実感を詠みました。          *         *  六、七十歳代が中心の句会だから、七月→夏休み、の連想なら、まず孫のことを思う人が多いはずだ。ところが作者は自分のことを詠んだ。私立大学副学長の経験者で、現役の教授なのだが、「七月だ」には、夏休みへとほとばしり出た教師の本心が感じられよう。巧まざるユーモアの句、と言えばいいだろうか。(恂)

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木道の下駄の音する蛍かな     広上 正市

木道の下駄の音する蛍かな     広上 正市 『この一句』  木道と聞けばまず尾瀬、箱根、奥日光や北海道各地の湿原地帯などを思うが、この句の場所はちょっと違う。名所や温泉地など、大勢の人が訪れる場所に違いない。理由はもちろん下駄の音である。その宵、宿屋近くの蛍の出てくるという湿地に待っていたら、木道を踏む下駄の音が近づいてきた。  蛍火が一つ、ゆらゆらと飛んできた時だ。「蛍が逃げちゃうじゃないか」と思ったが、自分も宿屋の下駄を履いているのだから文句を言える立場ではない。気づけば木道のあちこちからカタカタと下駄の音がする。やがて蛍火が十、二十と増えて、数え切れないほど。見物の人々の歓声も聞こえてきた。  俳句に不慣れな方は「下駄の音する蛍かな」に違和感を覚えたかも知れない。しかし俳句には「俳句文法」のようなものがあり、「下駄の音がし、蛍の火が現れた」と解する。「草に置いて提灯ともす蛙かな」(虚子)。この句を「(漫画の)カエル君が提灯に火を点している」と解した人もいたが・・・(恂)

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星涼し生きよ卒寿の五輪まで     直井 正

星涼し生きよ卒寿の五輪まで     直井 正 『この一句』  「星涼し」は夏の季語なのだ。なぜ「夏」なのか。「夏の星」の傍題だから、では説明にならない。夏の一刻、そよ風にふと涼しさを覚える時が「涼し」であり、その傍題に「晩涼」「涼風」「庭涼し」「月涼し」などが並ぶ。「星涼し」もこの系列にある夏の季語とした方が分かり易そうである。  作者は一九三〇年八月のお生まれだから、間もなく満八十六歳。その夜は星の光が涼しく感じられた。キラキラと輝く星を見つめつつ「あと四年たてば私は九十歳になり、東京五輪の年を迎える」という感慨を抱かれたのだ。「生きよ」はご自分への、そして同年輩の仲間への呼び掛けなのだろう。  ある句会の後だったと思う。八十歳を少し過ぎた方に「“九十歳まで俳句を作る会”というのを結成しませんか」と提案したら、即座に「大賛成」の答えを頂いた。以来、会の名称、参加資格などについて時々、考えている。作者にも賛成して頂けるだろう。目標達成は容易とお見受けしている。(恂)

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客人の去りて再び梅雨寒し     高井 百子

客人の去りて再び梅雨寒し     高井 百子 『合評会から』(独鈷山スケッチ・蛍狩り吟行) 而云 素晴らしい句だ。あの好天は全くの幸運だった。翌日からまた梅雨に戻ったという。客を迎えた主人側の喜びや安堵感もうかがえる。 正裕 大挙して訪れた句友をもてなし賑わった家にも、客が去ればやれやれという安堵感と一抹の寂しさが訪れる。 涸魚 宴の後のさびしさを伝えて余すところなし。 智宥 亭主はホッとしたかと思いきや、また寂しくなったと言う。客としては恐縮するしかない。 光迷 イベントの後に残ったものは、やれやれという安堵と疲労でしょうか。 水馬 上田の梅雨は本当は寒いのだろうなと実感。 佳子 人寄せの後のもの寂しさが梅雨寒に表された秀句だと思います。 睦子 人気者ご夫妻、たびたびこのように客人が集まるのでしょうね。 春陽子 寂寥感があり、それが又この句の良さかなと。 可升 ほんとに気分がよく出ています。           *       *       *  6月吟行で圧倒的支持を集めた句。宴の後の淋しさが戻りの梅雨寒に凝縮されている。(水)

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