缶ビール夫婦で分かつ二対一     井上庄一郎

缶ビール夫婦で分かつ二対一     井上庄一郎  結婚当初は夫が相当な飲兵衛、妻はアルコールが全くダメ、というお二人だったに違いない。しかしあれほど飲んでいた夫も、年とともに酒量を減らして行くのが自然の流れである。さらに定年を過ぎて、外で飲む機会がめっきり減っていく。やがて夫の缶ビール一個が、晩酌の定番となっていった。  ある日の夕食時、妻が「私も少し頂こうかしら」と言い出して夫はびっくり。妻は友人との付き合いで、「ビールなら少しくらいは」になっていたのだ。夫が一口分だけコップに注いで渡すと「あら美味しい」とにっこり。この日、缶ビールの三分の二が夫、妻が三分の一とする晩酌の慣わしが成立した。  さらのその後の夕食どき、夫はもっと飲めそうな妻を見て「半分ずつにしようか」と提案。しかし妻は夫に残る若さのことを知っている。やはり私たちは夫唱婦随でなくっちゃ、と考えながら、「いいえ、まだこのままで行きましょう」と笑顔で受け流したのであった。よきかな、ベテラン夫妻の風景。(恂)

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夕焼けを背に街宣車軍歌吠ゆ     高橋 ヲブラダ

夕焼けを背に街宣車軍歌吠ゆ     高橋 ヲブラダ 『この一句』  人間には欲があり、人間の集団である国は欲の塊となる。欲は個々人にとっても国家にとっても進歩発展の原動力となるのだが、抑えが利かなくなるのが恐ろしい。「隴を得て蜀を望む」という言葉がある。後漢の光武帝が隴(ロウ、甘粛省南東部)を平定して、さらに蜀(四川省)まで手に入れようとしたことから来た言葉だが、とにかく欲には際限が無い。  中国は南シナ海の領有権を強引に主張、仲裁裁判所(国際司法裁判所)の判決に従わず、埋め立てを続けたりしている。また日本固有の領土であり実効支配している尖閣諸島に艦船を派遣、示威行動を行っている。一方ロシアは日本の領土である北方四島を占領したまま返そうとしない。両国ともあれほど広大な国土を抱えているのだから、こんなちっぽけな島はどうでも良さそうなものだと思うのだが、やはり「望蜀」の思いは断ちがたいのだ。  こうした両大国の動きにいらいらを募らせる日本人が多くなっている。その空気に乗って、日本も正式な軍隊を持ち交戦権をうたった憲法を持とうではないかと唱える向きが増えてきた。しかし、もし日本がそうなれば、二つの隣国はさらに対日攻撃力を強め、それに対応して日本の軍備増強が行われ・・・、八、九十年前に逆戻りである。赤々と夕陽に照らされ大音量で軍歌を流して突っ走る街宣車に眉をひそめる庶民が、結局は泣きを見る。(水)

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深煎りの珈琲の香や土用東風     和泉田 守

深煎りの珈琲の香や土用東風     和泉田 守 『季のことば』  句会合評会で「こんな暑い時に飲むコーヒーだと、やはり香りも味も濃い深煎りがいいのかな、土用に合っているな」(弥生)という感想があったが、この評に尽きると思った。  梅雨が明けて本格的な夏となった頃、本州は広く太平洋高気圧に覆われて、一片の雲も無く青青と晴れ上がり、太陽が容赦なく照りつける。そんな中を吹き抜けるかなり強い東風である。それ自体決して涼しい風とは言えないのだが、無風のもわっとした日が続く中では何とも救われる思いがする。  この句から思い浮かべる情景といったらどんなものだろうか。夏休みでどこか海辺のリゾートに出かけ、ホテルかレストランの樹陰のテラスにくつろいでいるのだろうか。あるいは外出から戻ってシャワーで汗を流してさっぱりしたところで、苦味の利いたコーヒーを味わっているところか。  どちらでもいいだろう。眼目は「土用東風」と「深煎り珈琲」という一見無関係な二物の取り合わせが突然醸し出す気分である。(水)

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泡溢れ快気祝の生ビール     高石 昌魚

泡溢れ快気祝の生ビール     髙石 昌魚 『この一句』  生ビールの泡がもくもく盛り上がり溢れるのは至極当たり前のことで、それを事新しく詠んでも句にはならない。しかし「快気祝の生ビール」ということになると別である。途端に晴れやかな気分が盛り上がってくる。  俳句では、「ビールの泡」が「溢れる」というような犬棒式の常套句を用いることは避けるべきとされている。しかし、時にはかえってこれが効果を顕すことがある。この句などはまさにその典型であろう。家族、親類縁者、友人などが取り巻く乾杯の雰囲気がストレートに伝わって来る。そして何より、病から立ち直った作者自身の喜びと安堵感が溢れている。  「快気祝」と言うからには、風邪など数日間寝付いたくらいの軽い病いではない。何か良くない所の手術を受けたり、かなり重い症状でひと月ほどは入院していたに違いない。その挙げ句の「全快・退院」は誰だって嬉しいが、特に七十代以降ともなれば「蘇生」という言葉を噛みしめることであろう。日記の中の一節を取り出したような、なんでもない言葉を無造作に並べた句だが、しみじみとした気持が込められていることが分かる。(水)

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電線の影黒く落つ土用かな     大熊 万歩

電線の影黒く落つ土用かな     大熊 万歩 『合評会から』(日経俳句会) 臣弘 「暑いなあ」という感じが伝わってきますね。ぎらぎらと照りつける道に電線の影が黒く映っているというんですからね・・。ただ、電線の影なんて映るのかなと、ちょっと疑問を抱いたんですがね、感じがよく出ているんで取りました。 正裕 私も土用の感じがよく表現されていると思いました。ただ影が黒いのは当たり前ですからね、「黒く」とまで言わなくてもいいんじゃないかと思います。 弥生 私はこの「黒く落つ」というのが効いていて、土用らしくていいなと思いました。 てる夫 土用の真っ昼間、太陽が真上にあって、影が真っ直ぐ黒々と落ちているという、この最も暑い時刻をよく詠んだものだと。 而云 電線の影はほとんど見えないでしょうね、電話線なら映る。 二堂 物理的に言えば、電線の影も必ず映ってるはずです。           *       *       *  電線の影が道に映るかどうかで句会はひとしきり賑やかになった。「電柱の」とすれば間違いはないのだろうが、作者は電線にこだわりを見せている。作者には影がはっきりと見えているのだ。土用照りの感じを印象深く伝えている。(水)

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来客は蜘蛛の一匹土用の日     水口 弥生

来客は蜘蛛の一匹土用の日     水口 弥生 『季のことば』  「土用」というのは中国古代の陰陽五行思想から出たもので、春夏秋冬各季節の末期十八日間、すなわち各季節の特徴が最もよく現れる時期を示している。だから立夏の前十八日間は春の土用であり、立秋前の十八日間が夏の土用となる。同じように秋にも冬にも土用がある。しかしいつの間にか土用と言えば、夏の土用を指すようになった。  農業中心の昔の日本では、この時期は植田の稲がしっかりと根付き盛んに伸び始める時期で、農家としてはほっと一息つく頃合いだ。梅雨が明けて暑さこの上なく、春からずっと続いた農作業の疲れがどっと出る頃でもある。というわけで、この期間中は「土いじり控えるべし」と誡められたり、土用灸や夏の湯治、さらには土用鰻、土用蜆、土用卵など滋養豊富なものを食べて養生を心掛けることが奨励された。つまりは大昔の日本にもささやかな「夏休み」があって、それが土用だったのである。とは言っても十八日間も休んだわけではない。ほんの二、三日で、すぐに草取りに精出さねばならなかった。  これは現代の土用の一日。暑くて蒸し蒸ししてやり切れない。どこへ出かける気にもなれずに部屋に籠もっていたら、何か動くものがいる。あらクモじゃないの、お前一体どこから入ってきたの。蜘蛛を相手のおしゃべりも退屈しのぎの一環。(水)

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軽々とヨット空母の裾を行く     大沢 反平

軽々とヨット空母の裾を行く     大沢 反平 『合評会から』(酔吟会) 水馬 大きな空母と小さなヨット、景がよく見える句だ。 春陽子 佐世保でしょうか。恐ろしい空母のそばを軽快なヨットが行くという、明るい句になった。 冷峰 友人のヨットに乗ったことを思い出し実感がわいてきた。空母はゆっくり走っているようでいて、あっという間に近づいて来る速さです。 二堂 大きな空母がゆっくりと湾に入ってくる。その裾を小さなヨットが軽妙にすり抜けていく。その対比がうまく出ている。 てる夫 巨大な空母に対してちっぽけなヨット、「軽々と」というより「すいすい」ぐらいの感じではないか。           *       *       *  作者によるとこれはサンディエゴだという。以前、横須賀にも配備された空母ミッドウェイが今は退役してサンディエゴ湾に係留されている。その傍をヨットがたくさん走っているのを眺めて、そのままを詠んだ。無理に政治的な意味合いなどこじつけず、明るく爽やかな感じの句だ。(水)

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算盤の玉の軽さや梅雨明けぬ     谷川 水馬

算盤の玉の軽さや梅雨明けぬ     谷川 水馬 『合評会から』(番町喜楽会) 而云 算盤塾に通う子供は今でもけっこう多いらしい。梅雨明けと算盤玉の動き。目の付け所がいいですね。 正裕 梅雨が明けて算盤の玉が軽くなったというのは、「そうだな」と納得できます。 満智 算盤の玉の軽さが、梅雨明けの気持ち良さにすごくマッチしていて、いいなと思いました。 てる夫 梅雨が明けて湿度が下がり、算盤の玉が軽く走るというのはその通りで、よく分かります。そういえば算盤を作っている欧州の青年を取り上げたテレビの番組がありました。日本人として有難い。 百子 その青年は算盤を小学校に無償で提供しているのですが、玉が大きくてすべらない。日本のテレビ局が招待して本物の算盤作りを見せたという番組です。句の作者も同じ番組を見たのでしょうか。 水馬(作者) 大掃除していたらカミさんの古い算盤が出て来ました。玉を動かすと意外に軽いんですよ。             *         *  この句、梅雨の最中の句会に登場した。本欄への出番は梅雨明け後、と思っていたが、東京はまだ明けない。しかし東海以西は明けているので、もうよかろう、と載せることにした。これで東京も明けるか。(恂)

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いつになく素直な母や遠花火     嵐田 双歩

いつになく素直な母や遠花火     嵐田 双歩 『合評会から』(番町喜楽会) 斗詩子 母親の介護をされているのでしょう。いつもは邪険にしたりするのに、花火のときは子供心に帰るのか、素直になる。そんな母親の感じがよく出ています。 冷峰 (今句会では)母親の句が、この句と「修羅道に」と二つあって、私は両方とも選びました。こちらの親子は、まだ心が通い合っているのでしょう。ほっとさせられます。 水牛 この句の作者は「修羅道に」の作者と同じじゃないかと思いました。私の母は九十九歳で亡くなりましたが、自宅から横浜・みなとみらいの花火を見て、大変喜んでいたのを思い出します。               *           *  この句を見れば当欄前句を思わざるを得ない。作者は異なり、もちろん母親も違う。しかし「修羅道に」の母にこんな平安が訪れたのか、とほっとしてしまうのだ。前句は明らかにドキュメンタリーであった。一方、こちらは虚構が加味されているかも知れない。「遠花火」という季語が、いかにも「素直な母」に相応しく、しみじみとした思いを生むからである。俳句とは何か、とも思う。(恂)

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修羅道に迷う母置き施設出る     齊山 満智

修羅道に迷う母置き施設出る     齊山 満智 『合評会から』(番町喜楽会) 冷峰 修羅道に迷う母親を施設に置いて帰らざるを得ない。なんとも凄いなぁ、と思いました。 斗詩子 私も施設に泣く思いで行って、帰りは涙しながら帰ってきた経験があります。こういう素直な詠み方もあるのだな、と感心致しました。 二堂 お母さんのせつない思い。それを振り切ってしまった親不幸。身につまされます。 誰か この句、季語がないですね。 而云 「施設出る」の代わりに、何か季語を入れたらどうですか。 光迷 しかし「施設」がないと情景がわからないでしょう。 水牛 これは無季の俳句という事でしょうがないのじゃないかな。           *          *  この句を見たとき、辛い思いがした。当欄への掲載も躊躇した。しかし自分自身を含めて、誰もがいつかは出会わねばならないことなのだ。それを俳句にどう表すべきか。季語との関係も難しい問題である(恂)

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