重荷置きほろりと苦き菜飯かな 流合 研士郎
重荷置きほろりと苦き菜飯かな 流合 研士郎
『この一句』
「重荷」が、物理的に重量のある荷物なのか、心にのしかかって来る精神的な重荷なのか。
重い荷物を運び終えての御飯時ということも考えられないではないが、やはりこれは心の重荷と取った方がよさそうだ。かなり長いこと重荷に感じていた事柄がようやく片付いて、文字通り肩の荷を下ろし、ほっとした気分になれたのだ。しかし、解決するに当たってはかなりの無理をしたし、苦い思いもした。けれども何はともあれ、これでわだかまりは消えた。そんなことを一人、菜飯を噛みしめながら反芻している・・・。
とまあ、この句をこんな風に読み取ったのだが、作者の作句意図とは全く異なる、とんちんかんな解釈をしたのかも知れない。
しかし私はこの句を見て、自分の歩んで来た道のりの途中にも何度かこうしたことがあったなあと、しみじみ思い返したのである。やはりこういう時は菜飯がよく似合う。五目飯やばら寿司ではにぎやか過ぎる。(水)