重荷置きほろりと苦き菜飯かな     流合 研士郎

重荷置きほろりと苦き菜飯かな     流合 研士郎 『この一句』  「重荷」が、物理的に重量のある荷物なのか、心にのしかかって来る精神的な重荷なのか。  重い荷物を運び終えての御飯時ということも考えられないではないが、やはりこれは心の重荷と取った方がよさそうだ。かなり長いこと重荷に感じていた事柄がようやく片付いて、文字通り肩の荷を下ろし、ほっとした気分になれたのだ。しかし、解決するに当たってはかなりの無理をしたし、苦い思いもした。けれども何はともあれ、これでわだかまりは消えた。そんなことを一人、菜飯を噛みしめながら反芻している・・・。  とまあ、この句をこんな風に読み取ったのだが、作者の作句意図とは全く異なる、とんちんかんな解釈をしたのかも知れない。  しかし私はこの句を見て、自分の歩んで来た道のりの途中にも何度かこうしたことがあったなあと、しみじみ思い返したのである。やはりこういう時は菜飯がよく似合う。五目飯やばら寿司ではにぎやか過ぎる。(水)

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酒一合菜飯に添えて父送る     中沢 義則

酒一合菜飯に添えて父送る     中沢 義則 『この一句』  粛然と襟を正す追悼句であるが、陰々滅々とした感じがしないのは、やはり「菜飯」という季語の持つふんわりとした雰囲気のおかげであろう。  炊き上げた菜飯を茶碗によそい、そこにお酒を一合添えて供えたというのである。故人の好物だったに違いない。つつましく一合の酒と菜飯ということで、故人の人柄が遺憾なく伝わって来る。恐らく世渡りはあまり上手ではなかったが、仕事を実直にこなし、家族には不自由を感じさせない一家を構えたお人なのではないか。退職後はそれこそ悠々自適の老後を過ごされたのであろう。  両親や兄弟姉妹を悼む句はなかなか作りにくい。どうしても感情移入過多となり、センチメンタルな句になりがちである。本人としてはいくら悔やんでも悔やみ足りない気持なのだが、感傷が過ぎては作品たり得ない。  しかしこの句はその点実にすっきりしている。「送る」というのが、まるで外国旅行に出かける父親を家族で送る晩御飯と思ってしまうような感じだ。しかししかし、二度読むとはっとする。あくまでも平常に詠んで、その底に万感の思いを潜ませている。(水)

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ルッコラの菜飯に舅苦笑い     中嶋 阿猿

ルッコラの菜飯に舅苦笑い     中島 阿猿 『合評会から』(日経俳句会) 臣弘 「菜飯」は最早どこの家も作らないし、不味い。自分自身、菜飯の句を作れなかったから、思い切って「ルッコラ」という飛躍したものを選んだ。 智宥 水牛さんなら横文字の葉っぱなんか入れるなと言いそうで・・、この人の舅は苦笑いしただけで受け入れた。ユーモアがあっていい。 明男 思わず吹き出すような句。呆れているのが姑でなく舅というのがさらに面白い。           *       *       *  臣弘さんにはどうも敗戦直後の食糧難時代のトラウマがあるようだ。大根や得体の知れない葉っぱや芋づるを混ぜた臭い飯の思い出があるから、高齢者には「菜飯」への拒否反応がある。しかし、ちゃんと拵えた菜飯はとても美味しい。菜飯文化を復活させたいと思って、四月句会の兼題に「菜飯」を出した。どんな句が出て来るかなと思っていたら、なんとルッコラ菜飯が登場した。イタリアの菜っ葉で胡麻の香りがする。一風変わった菜飯になるだろう。実に面白い。この題を出しておいて良かった。(水)

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五歳児の将棋せがむや春の昼     堤 てる夫

五歳児の将棋せがむや春の昼     堤 てる夫 『季のことば』  「春昼」。暖かくて、のどかで、ぼおっとしてしまう晩春の昼下がりを言う季語である。他の季節の昼には無い、気持の良い物憂さがつきまとっている。  娘に子どものお守りをたのまれたのだろう、相手をしている。近ごろの五歳児は実に大人びていて、スマホの操作などお茶の子さいさい。理解力はなかなかのものだ。物は試しと将棋を教えてやったらすっかりはまってしまったようだ。  とは言ってもそこはまだ幼稚園児。近ごろカミサンにボケたわねえとしきりに言われるようになった身ではあるが、まだまだ飛車角桂香落ちだって幼児に負けるはずはない。しかし、本気になって簡単に詰ましてしまうとベソを掻くから、その手加減が難しい。これでもかとばかりに隙を作って勝たせてやると、嬉しがるのなんの、「もう一回、もう一回」と切りが無い。  逃げ出したオジイチャン、縁側に座ってのんびりぼんやりしていると、五分とたたないうちに、「ねえ、将棋しようよー」とまとわりついて来る。(水)

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土手滑る子等若草の匂ひして     竹居 照芳

土手滑る子等若草の匂ひして     竹居 照芳 『この一句』  土手を勢いよく滑り降りて来る子どもたち。ズボンの尻やシャツに、若草の青い汁がついている。茶色の泥の染みもある。この染みはお母さんが洗濯してももう取れない。子どもたちはそんなことには頓着無く、キャアキャアと大騒ぎだ。  陽気がよくなって、子どもも大人も野外で思いきり羽を伸ばせるようになった。「滑ってきたのをお母さんかおじいさんが抱きかかえた、そんな感じを受けました」(而云)との感想があった。まさにそうした情景が浮かんで来る、明るくて楽しい句だ。  このブログ「みんなの俳句」を発信しているNPO法人双牛舎は毎年四月に総会を開き、会員からの投句をもとにした俳句大会を開催している。この句は4月23日に行われた第8回双牛舎俳句大会で「天」賞を射止めた作品である。  ところで、この句の場所は何処だろう。「土手」というのだから、大きな川の土手か、丘の上の住宅地のはずれにでもある土手か。とにかく、都内近県では今やこういう子どもの天国のような場所を捜すのが難しくなった。この句に一票投じた人たちは、自分たちの子ども時代を懐かしんで選び採ったのかも知れない。(水)

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