病窓に強き光や薄暑知る     田村 豊生

病窓に強き光や薄暑知る     田村 豊生 『合評会から』(三四郎句会) 雅博 入院中ですが、よくなってきた頃でしょうか。「強き光」で、もう薄暑の頃だと感じたのですね。 有弘 病室という狭い空間から外を眺めていると、季節の変化に敏感になるのでしょう。 照芳 外は夏なんだと気付いた。いい句だと思いました。 進 変化のない病室の中、ふとした外の様子に季節を感じたのでしょう。           *       *       *  「病窓」という言葉は作者の造語だろうか。見慣れない言葉だが、病院、病室、病床という言葉があるのだから、病室の窓をそう言っても差し支えなかろう。句会に居並んだ人達も何の違和感も抱かなかったようである。こうして新しい言葉が生まれるのだという、きっかけを見た感じがする。  句意は皆さん言う通り、なんの難しいところもない。陽差しの変化を知る余裕が生まれた、すなわち退院間近をうかがわせる明るさが感じられる。(水)

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迷彩服まとひて五月独鈷山     高井 百子

迷彩服まとひて五月独鈷山     高井 百子 『合評会から』(酔吟会) 反平 昨日信州で見た光景です。山の深い緑、黄色…を迷彩服と表現したのがいい。五月もいい。 臣弘 山の色とりどりを表現した。実景でしょう。 春陽子 素晴らしい表現力。迷彩服としたのが殊にいい。 正裕 五月の独鈷山の様子が目に浮かびますね。 佳子 緑にはいろいろあるんですよね。濃淡を迷彩服と表現したのがいいと思いました。           *       *       *  上田市塩田平の南側を東西に連なる独鈷山。五月は新緑真っ盛り。杉桧など針葉樹の濃緑、椎の木など常緑樹は濃緑の枝の先に黄緑の若葉を光らす。それらを縫うように、春に新芽を出したクヌギやナラ、ケヤキなどの落葉樹が浅緑に輝く。皆さん評するように、「迷彩服」という言葉を発見したのが大手柄。あの山と谷が入り組む複雑怪奇な山容の独鈷山は、若葉の候ともなればまさに迷彩服をまとった弘法大師が独鈷振りかざし、でんと居座ったかのように見える。(水)

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薄掛けの目覚め心地や今朝の夏     高瀬 大虫

薄掛けの目覚め心地や今朝の夏     高瀬 大虫 『季のことば』  「今朝の夏」とは立夏のこと。一夜明けたら夏になったという、季節の切り替わりの感じを強めた言い方であり、「さあ夏が来たぞ」という気分である。漢語の立夏を和風に言い換えた「夏立つ」も同じような意味合いだ。  ところで冒頭の「薄掛け」というのは「夏掛け」(夏布団)の事であろう。この言葉は辞書には無いが、句を読めば夏掛けのことだとすぐ分かり、昔からある言葉のように思ってしまうのが面白い。恐らく作者は「今朝の夏」というはっきりとした季語を置いて、さらに「夏掛け」としたのでは句にならないと、苦心の末の造語なのであろう。これで読者の胸にすっと落ちる形になった。  昔は旧暦四月一日が更衣で綿入れの着物を袷に替えた。蒲団も分厚いものから薄いものになる。新暦となって月遅れの五月一日に律儀に更衣をする家もある。この句の作者はこうした昔気質か、かなりの暑がりなのであろう。さっさと夏掛けに変えた。でも、やっぱり少し早すぎたか。夜明け方、涼しすぎて目覚めた。「薄掛けの目覚め心地」は実に清清しいのだが、誰も見てない家の中で伊達の薄着をしたような感じでもある。(水)

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よしよしと自分なだめて春を越す     斉山 満智

よしよしと自分なだめて春を越す     斉山 満智 『この一句』  「春を越す」というのは歳時記に載っていないのだが、立夏の頃の感じをよく表している。まあ作者としては単に「春」という季語を詠んだつもりかも知れないのだが、「春を越す」という季語があってもいいなと思った。  「行く春」「春惜しむ(惜春)」という大きな季語が、「ああもう春が過ぎてしまうのだなあ」と名残惜しさを強調しているのに対し、「春を越す」はさばさばした感じがするのだ。  卒業、入学、入社、退職、年度替わり、人事異動、転勤引っ越し等々、現代の春は昔と違って忙しく、落ち着かない。天候が不順で暑くなったり寒くなったり、べたつく雪が降ったり、大風が吹きまくったりする。それ等が影響して心身の不調に悩む人が出てくる。それほどではないが、身体がだるくなったり、ぼんやりしてしまうことがよくある。それやこれやで何もしないうちにあっという間に春は過ぎてしまう。全くしょうがないなあと、落ち込みそうになる。  でも、今更くよくよ考え込んだって春が巻き戻せるわけではない。これからは風薫る五月、いいじゃないの、そんな感じが伝わってくる。(水)

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退院の後の外来更衣      田中 白山

退院の後の外来更衣      田中 白山 『合評会から』(番町喜楽会) 双歩 退院して、外来に・・・、当たり前のことですが、なかなかこうは詠めない。受付のホールの風景が一変していたのでしょう。雰囲気のある、とてもいい句だと思う。「更衣」が本当にいいですね。 てる夫 喜びに溢れた句です。入院の頃の気分が晴れて、更衣して病院に向かう。気分一新の句です。 百子 あの頃は冬だったが、外来に行ったら、病院の景色が一変していた。もうこんな季節なんだ、こんなになっていたのだ、と気づく。この視点の俳句はなかなか作れないでしょう。 高瀬 退院して、心身がすっきりして、衣替えして、通院に。いいところを詠んでいます。 可升 入院の間に季節が変わっていた。多少不安はあっても、前を向いて行けるということですね。 而云 入院後、初めての外来の日、夏服を着て病院に出掛けて行く際の句でしょうか。心身ともに軽くなっているのですね。更衣をこう詠むのか、と非常に感心しました。             *            *  我々の生活の中で、このようなことが他にもあるに違いない。季語の奥は相当に深いと実感した。(恂)

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反射炉は直立不動夏に入る     玉田春陽子

反射炉は直立不動夏に入る     玉田春陽子 『この一句』  「伊豆・韮山(にらやま)の反射炉。江川太郎左衛門――」。「反射炉は」という上五を見たとたん、反射的に思い出した語である。小学校か中学校の試験に出たのではないだろうか。実物を見たのは社会人になって後のこと。四角柱(四本か)が段々に重なって立つ反射炉の姿がぼんやりと浮かんでくる。  高さは十四値召蠅世箸いΑG鬚辰櫃ぐ?櫃残っているが、薄茶色かも知れないし、レンガ積みだったような気もする。しかし不思議なことに、その存在感だけが初夏の青空の中に立ちあがっているのだ。句の「直立不動」の語を見て、「そうだ、その通りだった」と思わざるを得なかった。  ペリー来航などで国が揺れる頃、幕府の海上防衛を担った江川太郎左衛門。代々・韮山の代官で砲術の大家で自ら大砲の鋳造を目指した。浦賀の与力・中島三郎助と並ぶ旧幕側の傑物だが、坂本竜馬ら倒幕側の志士に比べると余りにも影が薄い。「直立不動」から、そんなことまで考えてしまった。(恂)

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夕霞はやばや灯る峡の町      大倉悌志郎

夕霞はやばや灯る峡の町      大倉悌志郎 『この一句』  谷間の町は周辺が山また山だから、夕日が西の山に早く落ちて、黄昏も早い。夕霞に包まれた町には早くも明りが点々と灯っている。そんなノスタルジックな風景を詠んだこの句、どこかで見たなぁ、と思っていたら、一つの町が浮かんできた。福島・会津盆地の西端に位置する会津坂下町であった。  新潟・小出(魚沼市)発の只見線に乗り、終点の会津若松に近づいた頃。車窓左手の山間に忽然と大きな街が出現したのだ。「アイヅバンゲ」という町名はかつて、都市対抗野球に出場したチーム名によって知っていた。立派な町だと思いつつ、夕暮の中に広がる市街の様子を見つめていた記憶がある。  このような大きな町、小さな町、村が全国にたくさんあるはずだ。眺め渡す視点もいくつか考えられよう。峠から、町中の四つ角で・・・、列車の窓から、もけっこう多いかも知れない。この句を見れば、人それぞれに「我が峡(かい)の町」を思い描くのではないだろうか。これまた俳句、である。(恂)

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太閤の花見の寺の菜飯かな     鈴木 好夫

太閤の花見の寺の菜飯かな     鈴木 好夫 『この一句』  「太閤の花見の寺」とは京都・伏見区の世界遺産・醍醐寺のこと。豊臣秀吉が権勢を振るい、諸大名の女房・女中など女性ばかり千三百人を集めての花見に悦に入ったという。目も眩むばかりの享楽という印象だが、秀吉は余命いくばくもない頃で、実際、この五カ月ほど後に亡くなってしまうのだ。  作者はうららかな一日、醍醐寺を詣でて、門前のあたりで菜飯を食したのだろう。本当は御馳走をたくさん頂いた後のシメのご飯だったのかも知れないが、「醍醐の花見」の虚飾ともいえる実情はご存じのはず。菜飯を噛みしめながら、庶民から生まれた天下人の生涯を思った、などと勝手に想像する。  この句の季語はもちろん「花見」ではない。「菜飯」を用いたことで、句にしみじみとした味が生まれている。かつて私が醍醐寺を訪れたのは、例年四月の「太閤の花見行列」が終わった後で、名物の「大紅しだれ桜」に緑の葉が目立ち始めていた。作者も同じ頃、参拝したのではないだろうか。(恂)

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ニュータウン終の住みかや夏祭り     前島 巌水

ニュータウン終の住みかや夏祭り     前島 巌水 『この一句』  「是がまあつひの梄か雪五尺」(小林一茶)。この句から生まれた「終の梄(ついのすみか)」は、もはや一般用語と言えよう。雪が背丈ほども積もるのはうんざりだが、その雪の中で暮し、春を迎え、夏、秋を過ごし・・・。喜びも悲しみも、楽しさも辛さも故郷とともに、という思いが込められているのだろう。  ニュータウンもまた故郷である。かつては若々しいカップルが集い、近代的な生活を楽しんでいたが、人々は年を取り、子供たちは巣立って、高齢者たちの残るオードタウンになった。しかし元来が住みやすく設計され、都心への交通事情がよく、街路樹などの樹々も風格を見せている。  祭りの時期になれば、子供の一家がやってきて、孫が神輿を担いだりしている。もうここを動くつもりはない。空き家の増加、建て替えの噂が出るなど、問題がないわけではないが、愛着もまた深い。作者は祭りで久しぶりに賑わう我が街を眺め渡し、感慨を込めて「是がまあ」と呟いているのだ。(恂)

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柿若葉陽に透く影の柔らかさ     直井 正

柿若葉陽に透く影の柔らかさ     直井 正 『この一句』  柿若葉の下に立った時の実感をそのまま正確に描写している。真夏の柿の葉は分厚く、てらてら光って、ふてぶてしい感じがするが、初夏の柿若葉は薄く柔らかく、まるで赤ん坊の皮膚のようである。  陽の光を三〇%くらいは通すのではなかろうか、葉を透かした柔らかな陽差しが木蔭に佇む人に降りそそぐ。身も心も洗われるような、清清しい気分になる。若葉の切れ目からは晴れ上がった空が見える。こういう時、なんとも言えない「ありがたい」気分になるものだ。  この句の「陽に透く影」の「影」は、人影とか物の影といった暗い部分を言うのではなく、光そのものである。月光のことを「月影(つきかげ)」と言うように、この句の「影」も柿若葉を透かして射し込む光なのである。  4月末に行われた双牛舎俳句大会での上位入賞句。奇を衒うことなく、悠然と王道を行くが如き作風が、多くの人の心を捉えた。(水)

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