啓蟄や妻いっぱしの政治論     大沢 反平

啓蟄や妻いっぱしの政治論     大沢 反平 『合評会から』(酔吟会) 臣弘 春になって虫が出てくるように、妻が政治論を語り出したと言うのでしょう。啓蟄をうまく使っている。 百子 これまで物言わず素直に夫に従って生活してきた妻が多かったが、最近はこの句のような人も少なくない。「やったぜ」という感じのする傑作の句ですね。 てる夫 私も同じような感じです。句を見てすぐに選ぼうと決めました。 而云 とてもうまく作った句だと思う。旦那さんは、これからが大変ですよ。 春陽子 年度末になると税金だ、年金だ、と妻が意見を言う。それと啓蟄を結びつけたところが面白い。 涸魚 今の女性はだれでも政治論をやりますよ。だからいくらか古過ぎる感もあるが、面白い句ですね。 二堂 「いっぱしの」という言葉に、ちょっと女性蔑視の感じがしましたが。 反平(作者) 最近、女房が口うるさくなってきた、ということです。(「女性蔑視だ」の声)             *             *  「啓蟄」と同義の語に「驚蟄」があると知ってビックリ!。とたんに作者の顔が浮かんできた。(恂)

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甘やかな春雨に濡れ君を待つ     斎山 弥生

甘やかな春雨に濡れ君を待つ     斎山 弥生 『この一句』  この句を見た時、「甘やかは一般用語なのかな」と思った。意味はもちろん分かるが、私は用いたことがない。広辞苑には出てない。しかし明鏡国語辞典にはあり、「いかにも甘い感じがするさま」だという。辞書にあったり、なかったりの辺りが、この語の立ち位置なのだろう。  細やか、鮮やか、軽やか、たおやか、きらびやか。「~やか」は、ごく普通に使われていて、探せば何十とあるに違いない。改めて句の「甘やか」を見つめる。上五に置かれているだけに、すぐ目に飛び込んできて、こちらの気持ちになじんできた。けっこういいかな、とも思う。  降るとも見えぬ春雨である。濡れているが、コートに水滴がつくほどではない。それに、なにしろ「君を待つ」だ。この句、甘やか過ぎるか、と思えてきた。ここからは好みの問題である。私なら砂糖を少々控え、苦みを利かせてみたい。「君」を「人」としたらどうだろうか。(恂)

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声荒げ怒る男にしゃぼん玉     植村 博明

声荒げ怒る男にしゃぼん玉     植村 博明 『この一句』  しゃぼん玉の行方は風の向くまま、気の向くまま。では、この句のしゃぼん玉は、どこへ飛んでいくのか。場所は公園でも、横丁でも、どこでもいいのだが、吹いたのは幼児としよう。うまく膨らみ、ストローの先を離れて、ふわふわ飛んでいき、柔らかな横風によって方向を変えて行った。  お母さんは初め「上手、上手」と手を叩いていたが、しゃぼん玉の飛んでいく方を見て、急に心配になった。一人の男が誰かに大声で文句を言っているのだ。相手は謝っているようだが、男は聞き入れず、さらに怒鳴り続けている。しゃぼん玉はあたかもその男の顔を目指すかのように進んでいく。  さて、この先どうなりましょうか、というのが、この句のテーマである。怒れる男が気のつく前に、しゃぼん玉が消えてしまっては話にならない。おや、と男が思った時、パチンと割れた、というのが理想的な展開である。男は急に表情を和らげ・・・という場面を、作者は想像しているに違いない。(恂)

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しゃぼん玉別れと出会いくり返し     藤野十三妹

しゃぼん玉別れと出会いくり返し     藤野十三妹 『この一句』  「別れと出会い くりかえし」。どこかで聞いたような、と思い、ネットで調べたらすぐに分かった。中島みゆき作詞、作曲、歌の「時代」であった。「そんな時代もあったねと いつか話せる日が来るわ」。「めぐる めぐるよ 時代はめぐる 別れと出会い繰り返し」。これは本歌取りの句なのだろう・・・・  と思ったら、違っていた。作者によると、中島みゆきという歌手の名前はかすかに知っている程度、というのだから、まさにびっくり。彼女は実はワグナーの楽劇の研究家である。それなのに(というのも変だが)、日本の歌では北島三郎や都はるみなどの“ド演歌”しか聞かないほどだという。  即ちこのフレーズは作者の作であった。俳句では酷似した先行句があれば敬意を表して、自作を取り下げるのがマナーだというが、この場合はどうか。「偶然の本歌取り」くらいに妥協すればいいと私は思う。「しゃぼん玉」と合わせた句は、もう一つの新たな魅力を生み出しているのだから。(恂)

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しゃぼん玉ぴくりと動く猫のひげ     加藤 明男

しゃぼん玉ぴくりと動く猫のひげ     加藤 明男 『この一句』  「しゃぼん玉」と「ぴくりと動く猫のひげ」と、どういう関係があるのか。などと糞真面目に考えるのは野暮というものだ。  日当たりの良いベランダでお年寄りと猫が居眠りしているそばで、孫がしゃぼん玉に興じているところなのかも知れない。しゃぼん玉が眠り猫の方に飛んでいって、割れたひょうしに猫のひげがぴくり、という一瞬を捉えたのかも知れない。あるいは、そんな具体的な情景など全く無くて、単にしゃぼん玉と眠り猫という、のんびりした気分のものを取り合わせて、春の昼下がりの雰囲気を伝えようとしただけなのかも知れない。  この句には難しい言葉は一つも使われていない。詠み方も実にスムーズである。それなのに、理詰めで読もうとすると、途端に分からなくなってしまう。  実は俳句には、それが俳諧とか発句とか言われていた時代から、こういう風な句がかなりある。「どうぞご自由に想いを馳せて下さい」という詠み方である。モダンアートにも通じるところが、俳句にはある。(水)

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小走りにつぐみ横切る二月かな     金田 青水

小走りにつぐみ横切る二月かな     金田 青水 『この一句』  掴み所の無い感じの二月を、可憐なツグミを取り上げて味わい深い句に仕立て上げた。作者は早朝散歩を日課としているようで、その賜物に違いない。  秋十月、日本海を越えて大挙飛来するツグミは日本中の里山で果実や虫などを食べて過ごす。山の木々が枯れ果て、木の実も虫も取れなくなってしまう真冬になると、平地に下りて畑や公園や神社仏閣などで餌を探す。そして、十分に体力のついた三月、仲間と大編隊を組んでシベリア目がけて飛び立ち、彼の地で繁殖活動に入る。  というわけでツグミにとって二月は極めて大事な時。一匹でも一粒でも多くの虫や草の実を拾わねばならぬ。しかし野鳥にとって餌探しで地上を歩く時が最も危険。ちょんちょんと歩いて虫を素早く捕まえて呑み込むと、立ち止まり、頭を上げて胸をそらし、攻撃者の接近を警戒し、同時に次の獲物を探す。この立ち止まってこちらを眺めるような恰好が傍目には実に可愛い。ハイカイ老人は「このツグミは愛想が良い、オレに挨拶して行ったよ」とご満悦である。(水)

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庭石の濡れて気づくや春の雨     高井 百子

庭石の濡れて気づくや春の雨     高井 百子 『季のことば』  「春雨」と「春の雨」。無論どちらも春の季語である。しかし、伝統的な俳句の世界では両者には区別があった。「春雨」は晩春、いまのカレンダーで言えば四月の季語であり、「春の雨」は三春通じての雨をいうものとされていた。そして、その降り方によっても区別があった。春雨はしとしとと「小止みなく、いつまでも降りつづくやう」(服部土芳『三冊子』)な雨であり、さっと降って上がる雨や、嵐のような降り方はすべて「春の雨」と詠むべきものとされていた。  その伝からすれば、この句は「春雨」でなければなるまい。しかし、芭蕉高弟の土芳さんは、「春雨」の情趣を珍重する和歌以来の伝統を尊んでこう言ったまでで、それを金科玉条として現代の我々が金縛りになる必要はさらさら無い。当時既に「春雨」と「春の雨」は、字数合わせなどで融通無碍に使い分けられていたのである。というわけで今や、両者の垣根は取り払うことにしよう。  掲出句は音も無く降り出す春雨の感じを実に上手く詠んでいる。ただ、昔どこかで見たような感じがする句というところがあり、句会では損してしまう。しかし、このオーソドックスな堂々たる詠み方は、やはり素晴らしい。(水)

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石仏もくちびるゆるむ春の雨     野田 冷峰

石仏もくちびるゆるむ春の雨     野田 冷峰 『合評会から』(番町喜楽会) 白山 「くちびるゆるむ」が良かったですね。春の気分がよく出ています。 正裕 アルカイックスマイルでしょうか、春の雨に石仏の唇もゆるむとは・・。 百子 「春の雨」よりはしっとりとした「春雨」がいいと思いますが、とにかくいい雰囲気の句です。 厳水 言葉の選び方が上手ですねえ。 綾子 春雨の優しさ柔らかさを石仏の唇もゆるむと言ったところが素晴らしい。 弥生 固い石仏と「ゆるむ」という言葉との組み合わせがとてもいい。 双歩 「も」より「の」の方がいいんじゃないかなと・・。でも、やはりいい句なので取りました。 光迷 私もそう思ったんですが、いかにも春らしい句なのでいいかなと。           *       *       *  3月7日の句会で圧倒的な票を集めて「天」に輝いた、出来たてほやほやの句。確かに「の」の方が良いようにも思うが、「お堅い石仏すら和らげる春の雨」ということで「も」にしたというのが作者の弁。それを善しとしよう。(水)

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ジンジンと激し二月の神経痛     直井  正

ジンジンと激し二月の神経痛      直井  正 『この一句』  これはまあ何と、と言わざるを得ない句である。そういえばこの間の句会に姿が見えなかった。これは持病を詠って「欠席投句の挨拶」をなさったのだろう、さぞかし辛いことであろう等々、句の鑑賞より同情が先に立ってしまう。  神経痛やリュウマチなどはかかった人でなければ本当の辛さは分からないという。筆者は腰痛持ちで、ちょっと無理が重なると発作が起こり、動けなくなる。その激痛は説明しようがない。暫くして這いずれるようになると、鎮痛剤を取り出して吞み、寝床にうつ伏せになって、ただひたすらじっとしている。しかし、私の場合、鎮痛剤のお蔭もあって数時間でよちよちトイレくらいには行けるようになり、二日か三日でケロリと直る。それに比べて、作者の神経痛はかなりひどく、長いようだ。  このように苦しむ作者に対してまことに失礼千万な言い方だが、この句、大悟徹底というか達観というか、苦痛を客観視して俳諧味を醸し出している。正直申して句会で見た時、思わず笑ってしまったのである。「二月の神経痛」という措辞にその秘密があるようだ。そこに救いがあり、立派な句になっている。(水)

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野の隅に季節つげをり蕗の薹     井上 庄一郎

野の隅に季節つげをり蕗の薹     井上 庄一郎 『季のことば』  春が来るよと知らせてくれる植物を指折り数えれば結構あるのだが、野辺の草の中では蕗の薹が最も劇的である。何しろあたり一面枯れ草と茶褐色の土が剥き出しの土手などに、薄緑色のうずらの卵ほどの莟をぴょこんと出す。時には雪がまだ残っている所に生える。梅や猫柳のような見栄えの良さは無いが、散歩の途中の野道や川原でこれを見つけた時の嬉しさといったらない。  「山陰やいつから長き蕗の薹 凡兆」「莟とはなれもしらずよ蕗のたう 蕪村」「藪陰にのび過しけり蕗の薹 蘭更」などという句がある。蕪村句は「これが莟とはなあ」といったところか。それがちょっと見ぬ間にぐんと伸びて、花開く。小さな花が密集して、ブロッコリーかカリフラワーの一房のようである。凡兆と蘭更の句はそんな蕗の薹であろう。このように大昔から俳人に親しまれてきた季語である。  掲載句もそんな素朴可憐な蕗の薹を詠んで、春の到来を喜んでいる。いかにも蕗の薹らしく、ひっそりと季節を告げているところがいい。(水)

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