朝ぼらけ漁火残す春の海     印南 進

朝ぼらけ漁火残す春の海     印南 進 『この一句』  俳句は作者の手を離れれば、独立した文芸的作品だと思っているが、仲間内の句会だとそうはいかないことにもなる。句の状況から「彼の句だな」「彼女の作風だ」などと推測し、その人の家族、立場、仕事などを思い浮かべてから選句の対照にしたりする。俳句は今なお座の文芸でもあるのだろう。  この句、誰の句とも判別し難い作り方である。しかし入院中の彼を見舞った人なら、何かを感ずるのではないか。江ノ電の駅から坂を上って五分ほど、高台にあるリハビリ専門病院の病窓から、鎌倉の海が一望の下にあった。毎朝、夜明け頃に起床し、海を眺めていたのだ、などと思ってしまうのだ。  推測は当たった。その日の句会では、季語を三つも入れた「病棟で正月豆まき雛祭り」という、おどけた感じの句も出していた。柔道マンの俳句未経験者ばかりを集めて三四郎句会を立ち上げ、幹事長役を務めていた作者は、自宅リハビリの時期に入った。句会への復帰もそう遠くないと思われる。(恂)

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揚げ舟に木槌の音や水温む     岡本 崇

揚げ舟に木槌の音や水温む     岡本 崇 『この一句』  「船」と「舟」の字を、われわれは自然に使い分けている。大きいのが船、小さいのが舟だ。しかし法規上はどちらも「船舶」だという。一方、辞書では「舶」は大型の船、「船」は大型小型どちらでも、「手漕ぎ」なら「舟」などとある。句会の合評会では「木造なら“舟”が相応しい」という意見もあった。  句の舟は明らかに小型であり、木造船のはずだ。海辺か、池の辺か、川べりか。作者は散歩中なのだろう。「カン、カン」という木槌の音に目をやれば、引き揚げた舟の修理が行われている。おお、やっているな、と立ち止まる。その甲高い響きを聞けば、春が来たなぁ、水温む頃になった、と思うのだ。  「この句、水辺の映像が浮かんできますが、木槌の音もはっきり聞こえてきます」(敦子)という評があった。みんなももちろん同感。思いつくままに春の音を挙げれば、囀り、春蝉の声、恋猫の声、雪崩の音、雪解川の音、卒業歌・・・。ボートなどを修理する木槌の音も、誰もがうなずく春の音である。(恂)

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息子泣く雛の祭のバースデー      渡辺 信

息子泣く雛の祭のバースデー      渡辺 信 『合評会から』(三四郎句会) 久敬 なるほど、こういう現実もあるのか、と思いました。男の子の立場、親の立場が見えて来ます。 尚弘 なぜ泣くのか、と考えると面白い。これじゃボクの誕生日祝いじゃない、と。 而云 ボクの誕生日なのに、女の子たちの雛祭になってしまう、というのですね。 信(作者) これは私の孫のことで、三月三日生まれの男の子なんですよ。幼稚園では自分の誕生日がいつも雛祭で。母親に「ボクの誕生日は五月五日にして」と泣くんです。母親が「女の子たちがみんなお祝してくれていいじゃない」と言っても聞き入れません。毎年、たいへんなんです。            *             *  句の表記は「バースデー」だが、合評会では発言者(みな中高齢者)も作者ご本人も「誕生日」と言っていた。「バースデーケーキ」「バースデープレゼント」などはすでに一般用語である。しかし俳句ではなるべく片仮名は用いないという人がいる。片仮名の外来語と旧仮名遣いの併用をどう考えるか、と問う人もいる。俳句における片仮名問題は難しい・・・。男の子の悩みの方は、いつか自然に解決するはずだが。(恂)

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うつろいを見た面差しや古ひいな     河村有弘

うつろいを見た面差しや古ひいな     河村有弘 『合評会から』(三四郎句会) 照芳 お雛様の顔の薄汚れを見て、歳月の移り変わりや歴史を感じたのですね。「うつろひを見た面差し」というのは、うまい表現だと思います。 而云 その通りだと思います。家庭や家族に歳月のうつろいがあり、雛の顔にも時の流れが表れている。古い雛の顔はそういうものなんですね。 賢一 その家の格式や伝統までが匂うような句です。格調高く、感動しました。 崇 この句には昭和を過ごした作者の心象が、ダブって見えます。               *          *  お雛さまを買ったのは娘の初節句の時だろう。結婚して間もない安月給の頃であった。少しずつ貯めた預金から奮発して、立派な段飾りにした。それから二十年余り。娘が結婚して家を出て行った後、雛人形という大きな荷物が残っていた。妻は今年も雛を出して飾っている。夫は雛の面差しにうつろいを見た。それは我が家の、社会の、世界のうつろいでもあった――。年配の方々の共感する句ではないだろか。(恂)

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田楽や花のひとひらともに食む     水口 弥生

田楽や花のひとひらともに食む   水口 弥生 『この一句』  花見の情景を切り取った、一瞬の妙味がある。田楽の串を口元にもっていったら、折柄の風に舞散る花びらが一ひら、田楽に貼り付いた。これは御馳走と、田楽とともにいただいたというのである。  作者は実際に経験したのだろう。そうでなければ、こういうことはなかなか詠めない。実は私も同じ経験したことがある。日経俳句会では創設者の故村田英尾先生の墓参をして高尾の森林科学園桜保存林を吟行するのが恒例になっている。いつも、そこの頂上付近の桜を見渡す場所のベンチにみんなで固まって弁当をつかう。その時は、田楽ではなかったが、かぶりつこうとした握り飯に花びらが止まった。これはこれはとばかりにぱくついた。この句もおそらくそういう一瞬を捉えたものに違いない。木の芽田楽に桜花一片。実にきれいだ。  ところが、「田楽」は仲春の季語、「花びら」は晩春の季語。さあこの季重なりをどうすると四角四面の宗匠は言うかもしれない。かも知れないが、まあそんな難癖はもろともに呑み込んでしまうことにしよう。(水)

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ひと串の木の芽田楽緋毛氈     久保田 操

ひと串の木の芽田楽緋毛氈     久保田 操 『季のことば』  山椒の芽吹きは東京近辺では彼岸の頃に始まる。もう少し待って、ソメイヨシノが満開になる頃には芽も摘めるほどに伸びる。八重桜の頃になれば、緑茶色の芽は鮮やかな早緑色の若葉になっている。  萌え出たばかりの芽でもいいし、若葉でもいいのだが、山椒を摘んですり鉢で味噌と一緒によく擂り、酒と味醂と出汁を入れてさらに擂り伸ばしておく。片方で、豆腐を五分(1.5センチ)ほどの厚さの短冊に切り、斜めに立て掛けた俎板に張り付け小一時間水切りしておく。青竹を割って削って二股に拵えた串に水切りした豆腐を差し、炭火にかざして焼く。火が通った頃合いに、山椒味噌を塗り、再び炭火にかざして、香ばしい匂いがしてきたら、木の芽田楽の出来上がり。  桜咲く山の掛茶屋、緋毛氈の床几にくつろぎ、花を愛でつつ一献。傍らには信楽の角皿に焼き上がったばかりの田楽が一串。これはまあ江戸時代の錦絵を見ているような、春風駘蕩の雰囲気。白い豆腐に緑の串、桜花の薄紅色、緋毛氈の濃い紅色、青い空・・と、色彩豊かな夢うつつの世界を描いている。(水)

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龍天に武州上州土埃     杉山 智宥

龍天に武州上州土埃     杉山 智宥 『合評会から』(日経俳句会) 正裕 龍が天に駆け登るように、武州、上州一帯に土埃が上がる。勢いよく登る様子が見えるようだ。 双歩 そうですね、武州、上州は土埃。龍が天に登っていく物凄さが表現されている。 阿猿 武州、上州、土埃とリズムがとてもいいですよね。 定利 土埃の凄さを付けて、「龍天に」の季語が生きている。 而雲 ロケットの打ち上げをみると、煙が四方に勢いよく吐き出される。そんな具合に土埃が舞い上がり、龍が天に登る勢いをよく表している。 正市 所沢に住んでいたが、竜巻のような土埃がたつ。これはまさに実景だ。           *       *       *  作者は仕事で上州に三年ばかり駐在したことがあり、春先の砂埃の物凄さに辟易したようだ。まさに龍が天に登るような勢いだったなあと、若かりし頃を思い出している。経験の強みであろう凄い迫力で、句会で最高点を得た。(水)

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龍天にスカイツリーは影おぼろ     和泉田 守

龍天にスカイツリーは影おぼろ   和泉田 守 『この一句』  スカイツリーなり東京タワーなり、すっくと空に立った建造物と「龍天に登る」を取り合わせるのは心情として極めて自然であり素直である。それ故にともするとありきたりな印象の句になってしまう。  その点、この句は確かにありきたりな感じは否めないのだが、それでもなおかつ「この雰囲気はいいなあ」と思う。それは、スカイツリーとその周辺をじっと見渡して、見たままの感じをまとめたことによる強さであろう。  時あたかも霞の季節。空気はぼってりとふくらんだような感じで、あたりの景色はパステル調。スカイツリーの影を写す堀割の水も澱んで、おぼろげである。ツリーのてっぺんを仰ぐとすっかり霞んでいる。こういう日に龍は天空に昇って行くのかしらん、などとぼんやり思っている。  「龍天に登る」などと現代俳人が見向きもしない季語を三月句会の兼題とした。みんな首を傾げるだろうな、一体どんな句が集まるのかな、と、正直いたずら心も少々働いていた。結果は大成功。バラエティに富んだ句が続々生まれた。これはそんな中で最もオーソドックスな大人しい句の一つである。(水)

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国際線追越し龍は昇りゆく     高橋 ヲブラダ

国際線追越し龍は昇りゆく     高橋 ヲブラダ 『この一句』  日経俳句会3月例会には似た趣向で「登り来る龍に出遭ふや宇宙船 青水」という面白い句があった。どちらを採ろうかとずいぶん迷った末に掲載句を選んだ。ところが句会では宇宙船の方が断然人気だった。確かにアイデアという点では宇宙船との遭遇の方が断然奇抜斬新である。  どうして私は宇宙船を捨ててこちらを選んだのか。私自身のその時の脳味噌の動きをもう一度巻き戻してみた。実は最後まで惹かれていたのは、宇宙船の方であった。それなのに何故、それを落としたのか。思い出してみると、そのあまりにも斬新奇抜なところにちょっと引っ掛かる気がしたのであった。なんだかSF漫画を見ているような感じで、「つくり過ぎかな」と思ったのである。  国際線を追い越してゆく龍だって荒唐無稽なことでは同じで、やはりつくり過ぎである。しかし妙な言い方だがリアリティを感じたのである。ジェット旅客機が急角度に上昇、一面青空、真下に雲海という別世界に突き抜けた時の気分をまざまざと味わった。もちろん龍などは見えないのだけれど、あたかも龍と一緒に登って来たような感覚をこの句から感じ取ったのである。(水)

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リベンジを誓ひし絵馬へ春きたらむ    岡田臣弘

リベンジを誓ひし絵馬へ春きたらむ    岡田臣弘 『合評会から』(酔吟会) てる夫 気持ちの良い句ですね。今、神社に行くと下げる台が見えなくなるくらい絵馬がたくさん下がっている。大学受験に再挑戦する気持ちを「リベンジ」といったところが印象的です。 而云 この受験生は自分の現状と願いを絵馬に正直に書いたのだろう。それを読んだ作者が、次の試験は受かってほしいと願った。見ず知らずの受験生への作者のやさしい気持ちがうかがわれる。 水牛 「リベンジを誓いし」がとてもうまい。 臣弘(作者) 絵馬は我が家の裏の神社にあったものです。校名などをかなり具体的に書いてあったのですが・・・。うまく受かってほしいな、という思いで句を作りました。            *             *  春になっても強風が吹き荒れ、氷雨が降ることもあるが、われわれは明るい気持ちで過ごしている。温かな、心地いい日々がすぐそこまで来ていることを知っているからだ。この受験生、合格したら御礼の絵馬を下げに来るのではないだろうか。その文面を読む機会が、作者に来ることを期待している。(恂)

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