生きるとは何ぞやなどと蜜柑むく     高瀬 大虫

生きるとは何ぞやなどと蜜柑むく     高瀬 大虫 『この一句』  この句を見て久々に中学時代の社会の先生を思い出した。その先生は何かにつけ「~とは、なんぞや」と首を前に突き出し、生徒に問うのである。しかし生徒の回答を待つこともなく、すぐに答えを言ってしまうのだ。先生にとっての「なんぞや」は、何かを説明する前の口癖のようなものだったのだろう。  「なんぞや」と平仮名で書いたのは、「何ぞや」だと電子辞書(広辞苑)で引いても出てこなかったからである。こういう場合はインターネットに限ると、「何ぞや」で調べて見たら、何と「なぞや」と読むのだそうだ。ただし「なぞや」の意味は「どうして」「なぜ」などで、「なんぞや」とは違う気もする。  作者はこう言った。「テレビで『宮本武蔵』を見ていて、彼の一生は何だったのか、と・・・」。ここで「などと」が、相当な役割を持っているのだ、と気づいた。「なんちゃって」ほどではないが、多少のおどけが感じられ、「蜜柑むく」へと巧みに繋がっていく。「なかなかやるなぁ」などと、私も蜜柑をむく。(恂)

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寒の雨東尋坊に突き刺さり      岡田 臣弘

寒の雨東尋坊に突き刺さり      岡田 臣弘 『合評会から』(酔吟会) 操 東尋坊の岩壁ですね。「突き刺さり」は平凡かなと思ったけれど、寒々とした風景が見えてきます。 詠悟 あの岩場は本当に冷たい感じだ。突き刺さるというのは大げさな表現だが、実際それくらい寒い。 春陽子 広重の雨は黒い線で描かれているが、この句は白い雨が降っている感じですね。私は「突き刺さり」がいいと思う。絵が出来ている。 てる夫 私も「突き刺さり」でいただいた。雪国の冬の雨ですから、ぴったりきている。           *          *  かつて俳句に「~の如く」という言い回しが流行し、「如く俳句」という言葉も生まれた。さらに「如く」は省き、現実であるかのように言い切った方がいい、という説も登場した。この句は常識的には「突き刺さる如く」と表現するところを「突き刺さり」と言い切っている。この手法は野球のピッチングで言えば直球に当たる。変化球的な味わいに欠けるが、その分、迫力が増して選者らの胸に突き刺さったようだ。「寒の雨」「東尋坊」に相応した詠み方と言えるだろう。(恂)

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老い上手さらりと生きて燗の酒      野田 冷峰

老い上手さらりと生きて燗の酒     野田 冷峰 『この一句』  「さらり」とは「ねばねば」の反対で、「さらさら」や「さっぱりとした」と同じ意味と言っていいだろう。作者は「さらり」と生きるのが「老い上手」だと詠んだ。何人かが称賛、同意を表し、私も初めは「うまく詠むものだ」と感嘆したが、やがて「そうなのだろうか」と疑問を抱くようになった。  さらり、さばさば、が老人の理想型とは限らない。誰もが「淡きこと水の如し」になってしまったら世の中、味気ない。作者は句会に出てくると現役時代そのままに、パンチの利いた発言をしている。「さらり」と変身するのが悪い、というわけではないが、持ち味が失われてしまうなら、それも残念。  その昔、ニコニコしながら、時にぐさりとくる言葉を吐き、それでいて誰からも尊敬されていた、というような素晴らしい老人がいた。そんなタイプの老人が現代に是非ともいて欲しい。俳句は小説と同じく「自由にウソをついていい」文芸である。この句、「ウソかも知れない」などと考えている。(恂)

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