稲荷旗白抜き映えて梅二月     中嶋 阿猿

稲荷旗白抜き映えて梅二月     中嶋 阿猿 『合評会から』(日経俳句会) 庄一郎 お稲荷さんの赤い旗は確かに白抜きです。その情景を「梅二月」でうまく捉えています。 好夫 「白抜き映えて」とは上手ですね。二月の俳句だなぁ。 而云 あれは「幟(のぼり)」と言うのかと思ったが、ネットで調べたら「稲荷旗」の表記もありました。値段は一つ千六百円くらい(笑い)。「梅二月」も稲荷神社に合っていて、いい雰囲気ですね。 阿猿(作者) 会社の近くの小さな祠なんです。最初は「幟」としたのですが、「旗」に替えました。            *               *  誰もがぼんやりと知っていて、言われて「そうだった」と改めて気づくようなこと。それを詠み込むことが俳句作りの一つのコツだという。白抜きの文字の稲荷旗がまさにその一例と言えるだろう。「稲荷旗白抜き映えて」。これだけで、赤地に白抜き文字の、あの縦長の旗を思い浮かべざるを得ない。  作者は本欄初登場。俳号の「阿猿」は「あえん」と読む。男性と思いきや、マスコミで働くキャリアウーマンであった。別の俳号もあるそうだが、「今年はサル年なので」という説明が、ちょっと可笑しい。(恂)

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干しあげしオレンジピール二月かな       池村実千代

干しあげしオレンジピール二月かな       池村実千代 『この一句』  選句の際にさっと見た時、何となく気になったのだが、「オレンジピール」が分からず、思考は次の句に飛んで行った。翌日、この句を思い出し、インターネットで調べたところ、「ピール」は「peel」らしい。オレンジの皮を干して、砂糖が表面に浮き出た、あのお菓子か、とようやく気づいた。  広辞苑には「オレンジピール」も「ピール」も載っていなかった。ところがネット情報では検索項目34万とあるから、情報量は膨大なのである。このところ現代の奥様方にとってオレンジピールへの関心が高まっているに違いなく、作り方にもいろいろ工夫がなされているのではないだろうか。  ある作り方によると「天日干しで半日くらい」だが、「冬だと二日干す」とあった。作者は天気予報を気にしながらオレンジの皮を砂糖で煮詰め、丸い大きなザルに並べて、庭かベランダに干したのだろう。立春後のある晴れた日の夕方、作者は出来上がりにニッコリとし、「ああ、二月」と詠じたのである。(恂)

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五十年ぶりの故郷梅香る     大石 柏人

五十年ぶりの故郷梅香る     大石 柏人 『この一句』  梅は作者の自宅近所にもたくさん咲いているに違いない。しかし、故郷の梅は格別だ。香りからして違うなあと感じ入っている様子がうかがえる。  戦後の復興期から高度成長期を支えた人たちは今や九十代、八十代、七十代。御国のために戦って辛うじて生き長らえ、乳呑み児を抱えて食糧難時代を頑張り通した世代、食い扶持を稼ぎながら苦学力行した世代、飢餓の幼少年代をくぐり抜けた世代である。みんなそれぞれ郷里の期待を背に上京し、大学に入ったり就職したりして、がむしゃらに生きてきた。心ならずも故郷を置き去りにした人たちも多い。ことに親兄弟も東京近辺に引っ越して来たりすると、中学、高校まで過ごした故郷はますます遠くなる。  高校の同窓会、親戚の結婚式、葬式等々で、全く久しぶりに故郷に帰ることがある。この作者にもそうしたきっかけがあって、五十年振りの帰郷となったのだろう。「梅香る」で懐旧の念を表したのが奥床しい。沈丁花では匂い過ぎるし、緋寒桜では派手ばでしい。計算づくなのかどうかはさておき、ゴジュウネン、ブリノフルサトという句またがりの響きが、連綿たる情緒を醸し出している。(水)

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しゃぼん玉吹く子壊す子後追ふ子     高石 昌魚

しゃぼん玉吹く子壊す子後追ふ子     高石 昌魚 『合評会から』(日経俳句会)   二堂 「しゃぼん玉」の句はどうしても飛んで割れて七色というようになって、常識的で面白くない。この句も同じことを詠んではいるのだが、動きがあり、調子がいい。ああ、うまいことやったなあと思いました。 庄一郎 子どもが遊んでいる情景を、「吹く子」「壊す子」「追ふ子」とリズムを付けてお上手。 青水 既視感はあるが、やはりこの季語のこの光景。上手いものだ。 明男 しゃぼん玉に子どもが喜んでいる様子を詠んだ句で、当たり前といえば当たり前の景色ですが、なにせリズムがよいのに感心して選びました。           *       *       *  どこかで見たような気がする句だなあと思いながら、採ってしまう。そんな句である。合評会の発言者もみんなそう思いながら採っている。まさにしゃぼん玉にはこれ以外は無いという情景なのだ。とんとんとんと詠み込んで、読者は思わず引き込まれてしまう、素晴らしい技巧だ。(水)

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庭先の色戻りたる二月かな     星川 佳子

庭先の色戻りたる二月かな     星川 佳子 『合評会から』(日経俳句会)   実千代 色のない庭に少しずつ色が出てくる、春の兆しが表れています。 二堂 二月になると梅も咲き沈丁花も、と庭は色とりどりに。ちょっとした驚きの気分。 双歩 茶色から緑になっていく雰囲気が伝わってくる。 青水 立春過ぎの寒の極まる日と半袖で陽光を楽しむ日が交錯する二月の様子をうまく詠んでいる。 昌魚 素直に早春の庭先を詠んでいます。「色戻りたる」がいいですね。 明男 色々な花が咲き始めたのを「色戻りたる」と詠んだのがいい。 正 冬のモノトーンがカラーの世界に。小ぶりながらも心和ませる花である。           *       *       *  黒褐色に固まっていた地面にぽちっと緑が見え、日に日に大きくなる。「下萌」である。寒を生き延びた雑草も茶色っぽい葉が緑を増して来る。春の甦りを素直にうたっている。(水)

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街路樹の葉裏輝く二月かな     大熊 万歩

街路樹の葉裏輝く二月かな     大熊 万歩 『季のことば』  この句の街路樹は樟や白樫などの常緑樹。昔は街路樹と言えばイチョウ、プラタナス、ユリノキなどの落葉樹が好まれたが、近ごろは落葉が舞散るのを嫌う唐変木が多くなったせいか、大手町、丸の内界隈は常緑樹を植えることが多くなっている。高層ビルが多くなって、さなきだに日陰の多くなった都心に、常緑樹の並木では冬など寒くて鬱陶しくてやりきれない感じになるのだが、その下をそそくさと通り過ぎるエコノミックアニマルはさしたる感慨も抱かぬようだ。  しかし、この作者は違う。差し込む日の光の変化を目ざとく捉える。ついこの間までは、ただぼーっと薄暗がりを作っていた街路樹が、今日はなんとも輝いている。樟の葉、白樫の葉のかくも光り輝くのは、やはり春なのだと納得している。  二月は正月と年度末に挟まれた、なんとも慌ただしく、印象の薄い月のように見なされがちだが、冬から春への橋渡しの、繊細微妙な気候変化の月である。その「二月」を街路樹の枝葉を透かして差し込んで来る陽光の変化で示したのはさすがである。特に、「葉裏輝く」がいい。街路樹の下を歩む作者の弾んだ気持が伝わって来る。(水)

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フラミンゴみな片足の二月かな     今泉 而云

フラミンゴみな片足の二月かな     今泉 而云 『この一句』  ふざけているような詠み方だが、二月の雰囲気を実にうまく表している。こういう句をさりげなく詠めるような俳人は、現代俳句界にそれほど多くは居るまい。  フラミンゴや鶴や鷺やコウノトリが長い足を交互に引っ込めて片足立ちしているのをよく見る。ことに厳寒の候や吹く風の肌を刺す二月、野原や田んぼの中、フラミンゴなら動物園の池の真ん中で、片足を引っ込めた佇立の姿が見られる。ああやって引っ込めた方の足を温め、次ぎにもう片方をというやり方で、体温の消耗を防いでいるのだと聞いたことがある。それが本当なのかどうか知らないが、まあそうした解説はさておいて、いかにも寒むそうな景色である。  古くから水墨画、文人画の画材にもなっているように、これら大型野鳥の一本足姿には枯淡を感じる。春になったとは言っても、まだまだ冬の気温で風は冷たい。しかし、奇妙なことだが、そこからはほんわかとした温もりが伝わって来るようだ。それが桜色のフラミンゴともなればなおさらだ。柔らかな日差しでも射していれば申し分ない。  「お前たちそうやって春を待ってるんだな」とつぶやく作者の姿が見える。(水)

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しゃぼん玉七人兄妹みな長寿     杉山 智宥

しゃぼん玉七人兄妹みな長寿     杉山 智宥 『合評会から』(日経俳句会)   定利 たぶん七十才以上の人ばかりで皆元気なのだろう。「しゃぼん玉」のはかなさを置いて、元気な兄妹を詠んだ羨ましい句だ。 而云 子どものころ、皆しゃぼん玉で遊んだのだろうなという感じがしました。 正裕 「しゃぼん玉こわれて消えた」の歌と長寿の組み合わせ。私も「長生きをすべしと言へどしゃぼん玉」という同工異曲の句を作りましたが、七人兄妹と具体的な、こちらの良さが際立っている。 万歩 少子化時代、よき昔の雰囲気が伝わる。七人の歓声が聞こえるようだ。 青水 我が家も六人兄妹みなそれなりに元気にしていて、この句に出会った。これは時事句でもあり、遠い過去を思い出させてくれる望郷の詩でもある。           *       *       *  皆さんが言うように、はかない「しゃぼん玉」と七人の長寿の対比は上手い。リズムもいいし、雰囲気からしても春らしい素晴らしい句だ。(水)

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退官の講義淀みて辛夷咲く      廣田 可升

退官の講義淀みて辛夷咲く      廣田 可升 『この一句』  年度末を控えて各大学はいま、退職する教授の「最終講義」の時期である。この講義は専門分野に限らず、テーマは自由、という慣わしがあり、珍談も生まれる。ある先生はゴルフの自慢話で顰蹙を買い、ある先生は「ハゲ頭」について蘊蓄を傾け、講義を聞きに来た奥さんを失望させたという。  「退官」と言えば国公立大学の先生のことだが、私立でも同じこと。大勢の学生や先生方、奥さんや友人までが聞きに来る特別な講義である。この句は講義と辛夷の関係を倒置的に表現しているのが面白い。教授がふと窓の外を眺めたら、辛夷の花に目に入り、何らかの思いが生まれて口調が淀んだのだ。  先生は何を話していたのだろうか。まさか辛夷咲く故郷・北国の春のことではあるまい。たぶん、と私は勝手に考える。最近の学生は漢字の読み書きが苦手だ。「顰蹙」「蘊蓄」の読めない学生が半数にも及ぶ。「辛夷」はどうだろうか。俳人でもある先生は、そんなことを考えていたような気がする。(恂)

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如月の光ほどけて花辛夷       横山 恭子

如月の光ほどけて花辛夷      横山 恭子 『季のことば』  如月(きさらぎ)は旧暦の二月のこと。現代の三月にほぼ該当するので、掲載はちょっと早いかな、という気もするが、俳句作りは季節の先へ先へと進みがちだ。句会の兼題は季節を先取りするのが普通だから、その時季、その日が来る前に、過去の記憶を頼りに句を作ることにもなる。  この句、「如月」ではあっても、立春の過ぎたばかりの頃、つまり「暦の上では春ですが」の雰囲気が感じられる。「ほどけ」の漢字表記は「解け」であり、春先の暖かい日は陽光も肌に柔らかに感じられよう。そんな陽気につられて辛夷のつぼみもほどけ、開きかけてきた、というところだろうか。  「如月」と「花辛夷」は季重なりだが、私はほとんど気にならなかった。「光ほどけて」という柔らかな表現によって、二つの季語が混然となり、切り離せないようにも思われた。どちらかの季語を外すとすれば「如月」の方だが、その代わりにどんな語を使えばいいのか。代案は思いつかなかった。(恂)

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