書初めの墨する音やしずかなり      吉田 正義

書初めの墨する音やしずかなり      吉田 正義 『この一句』  作者は小学生の頃から書道をやっていた人である。大学時代あたりからはウエスタン音楽や柔道に力を入れ出して、書は二の次、三の次になったようだが、今でも正月になれば筆をとり、真っ白な紙に向かう。いや、その前に一仕事があった。書初めともなれば硯に水をたっぷり入れ、墨を摩らねばならない。  現今、通常の書の稽古なら大方の人は墨汁を使用するのだろう。昔に比べると墨汁の質は上がり、文房具店の主人は「墨を摩った字と見分けはつかないはずですよ」と言っていた。そうかも知れないけれど、あらたまの年なのだから、心を静め、硯と墨の擦れ合う感覚をゆっくりと味わいたいのだ。  この句、「墨する音や」で区切れる。もちろん墨を摩る音を耳にしているのだが、その微かな摩擦音が広がり出すと、部屋全体が一層、静かな雰囲気に満たされるのである。以上の文は、会社の書道部OBとして一カ月に一度だけ、墨汁で文字を書いている筆者が、想像を交じえながら、書かせて頂いた。(恂)

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元旦の障子や松の影うつし      深瀬 久敬

『合評会』から(三四郎句会) 元旦の障子や松の影うつし      深瀬 久敬 信 元旦の障子に松の影。私が特に惹かれたのは「元旦」なんです。元旦の日の光が、元旦の真新しい障子に当たっている、というところです。大きな日本画の絵を思いました。 論 私もそうです。年末に張ったばかりの、新しくなった正月のための、真っ白な障子ですね。昨年のままの障子だったら、だめでしょう。 尚弘 「障子に松の影」には既視感がありますが、元旦なので新たな印象が生まれた。真白な障子が閉まっている。そこに新年の日が当たって、松の影が映っている。障子がこの句の中心でしょう。             *            *  句を見た瞬間、「名月や畳の上に松の影」(宝井其角)が浮かび、類想の範囲か、と判断し、そのまま見過ごしてしまった。合評会で選んだ人のコメントを聞いて「浅慮」を恥じた。選んだ人は三人とも「元旦の真新しい障子」に焦点を当てて、清々しい朝の様子を頭に描いている。作者も選んだ三人も、其角の句は知らなかったらしい。清新な感覚で、句を作り、句を選んでいたのである。(恂)

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立ちのぼる蕎麦屋の湯気も冬めけり   竹居 照芳

立ちのぼる蕎麦屋の湯気も冬めけり   竹居 照芳 『季のことば』  「冬めく」は初冬の季語だが、立冬とか冬浅しという季語よりは少し日にちが過ぎ、寒さを肌身に感じて「やはり冬だなあ」と納得するようになる頃、カレンダーで言えば十一月末頃であろうか。  しかし、近ごろのように温暖化が進むと、なかなか冬めいた感じにならない。ようやく年の瀬から新年になって、「冷え込む」という言葉を思い出したりする。  それでも、暑さ寒さに対する感覚は比較相対的な部分が大きいから、気温は昔の冬を思えばかなり高いのに、昨日に比べて急に三、四度低下したりすると、ひどく寒く感じる。というわけで「冬めく」とか「寒し」という季語は、いつまでたっても廃れることがない。  これは夜泣き蕎麦の屋台か、最近流行りの立食い蕎麦屋か。あるいはプラットフォームの蕎麦屋だろうか。とにかく冬の夜、こうした庶民的な蕎麦屋から漂ってくる湯気の匂いほど人を引きつけるものはない。安い鯖節などの出汁と醤油の入り混じった強烈な匂いだ。思わず暖簾を掻き分けてしまう。季語の雰囲気を十二分に味わえる句である。(水)

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冬の日や足の爪切りひと仕事   堤 てる夫

冬の日や足の爪切りひと仕事   堤 てる夫 『季のことば』  「冬の日」という季語は、元来は冬の一日を指すものだが、冬の陽差し、冬の太陽を言うこともある。後者を言う場合は「冬日」としたり「冬の陽」とした方がまぎれが無くて良いのだが、しばしばごっちゃに詠まれる。  この句の「冬の日」はもちろん本来の意味での冬の日、それも日当たりの良い縁側か居間でくつろぐ午後の一刻であろう。新聞は読んでしまった。テレビはろくなものをやっていない。まとまった読書をするのはちょっと億劫だ。そんな気分ででもあろうか。  そうだ、足の爪を切ろう。この間から気になっていたのだが、年取って身体が硬くなってきたせいか、足の爪切りは結構苦労するもので、つい先延ばししてきた。爪切を持ち出してきて、新聞紙を広げ、やおら始める。うんうん唸って、ようやく十本の爪先をきれいにした。なんだか身体全体が軽くなったような気がする。(水)

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指先に老いを押し込み手袋す   篠田 義彦

指先に老いを押し込み手袋す      篠田 義彦 『合評会から』(三四郎句会) 信 指先に老いを押しこむとは、よくこういう表現を思いついたものだ。 照芳 しわくちゃになった自分の手を、手袋に押しこむんですね。 尚弘 指の関節が硬く太くなっている。「老いを押し込む」というのが何とも言えない。 崇 季語の本意を自分自身に引きつけて詠んでいる。           *       *       *  暖冬と油断していたら、やはり寒中、ぐんと冷え込む。戸棚から引っ張り出したバックスキンの手袋は一年使っていなかったせいか、すんなりと通らない。指先をぐにゅぐにゅやりながらはめる。その時に、否応なく目に入る我が手、皺が寄り、節くれ立っている。老いの証拠を突きつけられた思いがする。  合評会では「言い過ぎではないのかな」という評があった。それもまた一種の賛辞だろう。「物忘れ」とか「道に迷う」といった常套文句ではなく、老いを手袋というものを持ち出して適確に詠んだ。しかも、老いの「覚悟」といったものを感じさせる秀句だ。(水)

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成人の当世娘花魁風   藤野 十三妹

成人の当世娘花魁風   藤野 十三妹 『合評会から』(酔吟会) 涸魚 成人式の娘さん、昔は振袖に白い襟巻というの定番だったが、最近はテレビなんかで見ると、ほんとに花魁もかくやという恰好。当世をうまく詠んだもんだと感心しました。 百子 本当にそうですねえ、親はどんな人なんだろう、どう思っているんだろうなんて思っちゃいます。 誰か 親も知らないんですよ。あら、きれいじゃない、なんて言ってる。 てる夫 まあこの句を見てあれこれ考えちゃいましたが、テレビで見る限り、こんな風ですねえ。            *       *       *  成人の親ということは四十五、六歳から五十歳くらい。高度成長期に甘やかされて育ったから常識を欠くのも多い。当然だが娘に物を教えることなんて無理だ。結果、成人式会場は頭から足の先までごてごてのグロテスクな和服まがいのハタチ娘で溢れかえる。(水)

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白菜の四つに割られ売られけり   田中 白山

白菜の四つに割られ売られけり   田中 白山 『季のことば』  白菜は大根、葱と並ぶ冬野菜の代表。鍋料理と漬物に無くてはならない存在だ。とは言え図体が大きい。若夫婦二人や子供一人、老夫婦の世帯では一株を持てあます。というわけで、四つ割で売られる。  でも思い切って一株買って塩漬けを作ることをお勧めする。四つ割りして一日干し、しんなりしたのを桶に入れ、白菜の重さの3%くらいの塩をまぶして圧し蓋を載せ、白菜の倍の重さの重石を置いて周りから薄い酢水を2カップほど呼び水として注ぎ込む。桶はなるべく陽の当たらぬ寒い所に置く。翌日には水が上がる。四つ割白菜の根元にさらに三分割できるよう切れ目を入れておくと、根元部分の漬かりが早まるし、丁度良い分量の白菜漬けを簡単に裂いて取り出せる。  浅漬けも美味しいが、少し酸味がきつくなったのも旨い。それを刻んでぎゅっと絞ってチャーハンに混ぜると旨い。白菜漬けとベーコンと葱、ニンニクのみじん切りを一緒に炒め、凹みに卵を落とす。上からスープの素を溶かした湯をじゃっと注ぎ入れ1分間蓋をする。このスープを食べれば風邪なんか引かない。(水)

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書初の一気呵成の希望かな      岩沢 克恵

書初の一気呵成の希望かな      岩沢 克恵 『季のことば』  第二次大戦後、書道に対して冷たい風が吹いた一時期があった。俳句に対する「第二芸術論」が吹き荒れた頃で、その筆者・桑原武夫は書道についても相当ひどい言葉を投げ掛けている。しかし俳句も書道も、これらよりさらに強く批判されたという短歌も、さほどの影響を受けずに今日に至った。  伝統は強い、と改めて思う。各地の書き初め大会などは戦後、連合国側の意向もあって控えた数年があったそうだが、やがて復活し、すでに新年の国民的行事と言っていい。知り合いの若い女性は「私、一人で書初めしています」と話していた。今年も自宅の一室で、毛筆を持ち、自己流の文字を書いたという。  毛筆のあの柔らかさ、滑らかさを使いこなすには相当な精神力が必要である。全身の力を抜くように、かつ全力を込めるように。句の作者は「希望」と書いた。しかも一気呵成に。日本武道館に集まって何千人もの人と一緒に書くのもいいが、書はやはり一人の、一人による、自分のための挑戦である。(恂)

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雑煮食ぶいろいろあれど妻も喜寿     大倉悌志郎

雑煮食ぶいろいろあれど妻も喜寿     大倉悌志郎 『この一句』  奥さんと二人だけでテーブルに向かい合い、雑煮を頂いている、という風景が見えてくる。妻も喜寿、というのは「今年が喜寿」ということなのだろう。奥さんが二十七歳の時に結婚しているのなら五十年、金婚式の年を迎えたことになる。そういう夫婦の歴史がこの句から自然に浮かんでくる。  「いろいろあれど」は、軽く出てきた言葉のようで、俳句ではあまり見掛けたことがない。ああいうこともあった、こういうこともあった・・・が、ということだが、なかなか思いつかない表現である。いかにも何気なく、しかしさまざまなことを思わせる、巧者の句、と言えるかも知れない。  「作者夫婦の山あり谷ありの、人生を感じさせる句。苦労をかけてきた妻も喜寿を迎える歳になった。『お疲れさん、今年もよろしく』と心の中で感謝している様子が目に浮かぶようです」(明男)というコメントがあった。その通りだが、「あんたの場合は?」と反省を促されているような気もした。(恂)

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お神籤の小吉と出て冬桜       徳永 正裕

お神籤の小吉と出て冬桜       徳永 正裕 『この一句』  これは「初神籤」なのだろう。それに「初詣」であったはずだ。普通ならどちらかの季語を用いるところだが、ふと顔を上げたら冬桜が目に入った。花は純白と思えたが、目を凝らせば蕊(しべ)のあたりに薄紅色が広がっている。天候は薄曇り、おお、これはいい、季語は「冬桜にしよう」と作者は決めた。  もう一つ、季語を冬桜とした理由があった。お御籤は「小吉」だったのだ。お御籤は「大吉」が出るのが最もいいはずだが、近年は「小吉や中吉の方がいい」という考え方が広がってきたらしい。大吉だと「吉は出尽くした」「後は悪くなるばかり」などと言われるが、そういう理由だけではないかも知れない。  小吉も中吉も「吉」の内である。人に目立たぬよう、小さな幸せを頂ければ、という考えも悪くない。ちらほらと咲き、長続きする冬桜はそんな感じがする。豪華な染井吉野や八重桜は確かに素晴らしいが、慎ましげな冬桜の風情も捨て難い。小吉と冬桜。淡彩の水彩画を思わせる取合せである。(恂)

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