冬椿慰霊に徹す天皇家       片野 涸魚

冬椿慰霊に徹す天皇家       片野 涸魚 『合評会から』(酔吟会) 詠悟 天皇と皇后の慰霊の旅、本当に頭が下がる。皇室の人は戦争に対し慰霊に徹するしかない。天皇の背中を丸めた後姿を見ると、重荷を背負っておられると感じる。 春湯子 天皇や皇室を詠むのは難しいが、「冬椿…」、この様に納めればいいのか。お手本になった。 正裕 天皇の旅は最近の政権の動きや一部風潮に対する無言の言葉となっている。この句によって、昭和天皇の遺志を継いで贖罪の旅を続ける天皇に深く思いをいたす、ということですね。 てる夫 「天皇家」に違和感があった。必ずしも一家が同じ思いではない。「両陛下」でどうだろう。 涸魚(作者) 私には、天皇家がそうあってほしいという願望があります。今のご時世、複雑ですね。天皇制への賛否はさておき、あの姿勢はなかなかできない。             *           *  天皇、皇后は慰霊の旅ごとに、戦争によって失われた数多の命に深々と頭を下げ、胸の内にあるものを伝えておられる。その姿から、日本という国のことも思わざるを得ない。句の「冬椿」は白椿なのだろう。(恂)

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冬麗や都電とことこ雑司が谷     嵐田 双歩

冬麗や都電とことこ雑司が谷     嵐田 双歩 『合評会から』(日経俳句会・番町喜楽会雑司ヶ谷七福神吟行) 可升 「と」の四連発でリズムが良い。暖かな日差しの中を都電がゆっくり走る、気持良い風景が浮かび上がる。 てる夫 都電荒川線は今や東京名物。「とことこ」の気分がいいですね。 斗詩子 暖かい日差しの中を都電がとことこ、長閑さがあふれる句です。 光迷 やはり「都電とことこ」ですね。車体のデザインも面白かったし、乗って行きたくなりました。 反平 下町ののんびりした雰囲気がよく出て好ましい。           *       *       *  雑司ヶ谷七福神巡りの途中で出会った風景。まさに都電はとことこという感じだった。高度成長時代、通行の邪魔だと弊履のごとく捨てられた都電。その中で唯一、主に専用軌道を走っていたこの線だけが残された。それが今や地域住民の足としてだけでなく、方々から観光客を集める人気者になっている。それにあやかろうと、港ヨコハマはじめ方々で市電復活の機運が盛り上がる。「それ御覧、古いものを大事にしなきゃだめよ」。チンチン、ゴットン、ゴー・・・(水)

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寒ゆるく干柿不出来と便りくる     澤井 二堂

寒ゆるく干柿不出来と便りくる     澤井 二堂 『この一句』 「干柿は冷えて甘くなる。楽しみにしていたのに残念という思いがよく詠まれている」(睦子)。「今年の異常な暖冬を干柿で表した。うまく詠んだ」(涸魚)といった評が集まった。まさにその通りである。  この句の「寒」は小寒から大寒を経て立春前までの、二十四節気で言う寒ではなく、普通名詞の「さむさ」を言った言葉である。柿が色づく晩秋、福島、長野、山形といった北の山国では一斉に渋柿を収穫し、皮を剥き、麻糸や化学繊維の紐、細縄でくくり、柿干場に吊して寒く乾燥した外気にさらす。早ければ一ヶ月、普通は四、五十日で黒褐色の肌に白い粉が吹いたコロ柿(枯露柿)が出来る。長野県飯田市の「市田柿」や福島県伊達市の「あんぽ柿」のような高級な干柿は、吊す前に硫黄を燃やした煙で燻蒸する。こうすると黒く変色せず、黄色やオレンジ色が美しい、柔らかな干柿になる。  とにかく干柿作りには冬の寒さが大事である。今冬の暖かさは干柿農家を困らせた。これは平成二十七、八年の冬を記録する時事俳句でもある。(水)

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読みさしの本に置かるる蜜柑かな     植村 博明

読みさしの本に置かるる蜜柑かな  植村 博明 『合評会から』(日経俳句会) 双歩 「読みさし」がいいですね。ちょっとトイレかお湯が沸いたかした時に、私はリモコンを置いて立つが、この人は蜜柑を置くという。くつろぎの読書に蜜柑が合う。 智宥 寝転んで本を読んでいたらピンポンと鳴って誰か来た。蜜柑を置いて出る。景が浮かぶ。 好夫 セザンヌの絵を見ているような、静物画のような感じを受けた。 大虫 机に向かって本を読んでいるのではなく、やはり寝転んでなんでしょうね。正月ののんびりした雰囲気が出ている。 明男 中座するとき、普通は栞を挟んでいくでしょうが、蜜柑とは面白い。 正市 身近な生活の景がいい。力が入っていない。           *       *       *  テーブルの上に開いて置かれた本に、蜜柑がポツンと載っている。この句に人はいない。それでいて、蜜柑を置いていった人の様子がなんとなく分かる。面白い詠み方だ。(水)

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手描き絵の寒中伺ひまたうれし     大平 睦子

手描き絵の寒中伺ひまたうれし   大平 睦子 『季のことば』  「寒中見舞」「寒見舞」「寒中伺ひ」、いろいろな言い方があるが、寒さが最も厳しくなる一月六日頃から二月三日の節分に至るまでの「寒中」、親戚縁者や友人知己に「いかがお過ごしですか」と気遣いの便りを出すことを言う。喪中と知って年賀状を出すのを控えた人に対して、松が取れた頃に一筆啓上することも多い。もちろんその逆に年賀欠礼の詫びと共に寒見舞いを出すこともある。  インターネットのメールやラインなどが全盛の時代に、こうした郵便によるやり取りはいかにも悠長だが、あえて不便な手立てを講ずることによって、より一層の親密さを感じさせる。ましてやそれが手描きの絵ともなれば尚更だ。  これはまさに経験しなければ出来ない句で、「うれし」という直截な言葉が作者のはずんだ気持をよく伝えている。この句は酔吟会という高齢者の多い句会に投句されたものだが、これをきっかけに「私も絵手紙の寒中見舞もらって感激した」「台湾にいる孫がくれたんですよ、それが結構上手い絵で、嬉しかったなあ」と娘自慢や孫バカ談義の花が咲いた。それだけでももう十分の功徳を施した句である。(水)

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申年や靴下紅く寒の入     谷川 水馬

申年や靴下紅く寒の入     谷川 水馬 『この一句』  「申年に赤い下着を身につけると縁起がいい」「健康を保てる」といった俗信がある。衣料品メーカーやデパートが昨年秋から暮れにかけてこれを盛んに囃し始め、歳暮贈答品や年賀用品に赤い下着を売り始めた。  下着メーカーのワコールも有力な仕掛人らしく、二十代から七十代までの女性1036人に「申年に赤い物を身につけると健康に過ごせるという言い伝えを知っていますか」というアンケート調査を行ったところ、「4人に1人が知っていた」とインターネットで触れ回った。こんなに沢山の人が知ってるんですよーと大宣伝なのだが、実はこれは四分の三、つまり大多数が「知らなかった」わけで、なんじゃらほいといった感じである。しかしまあ、そういうことに目くじら立てるのも野暮というものだろう。  とにかくこれは、「お猿のお尻は真っ赤っか」という俗謡や、「病が去る」といった語呂合わせが元になって、好事家が面白半分に真っ赤な猿股を贈ったり、はいたりしたのが始まりなのだ。大らかに笑って乗っかった方が健康にいい。作者も真紅の靴下をはいてきゃっきゃと喜んでいる。(水)

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恵比寿顔揃ひてけふの初笑ひ     高井 百子

恵比須顔揃ひてけふの初笑ひ     高井 百子 『合評会から』(日経俳句会・番町喜楽会七福神吟行) 綾子 エビス顔が揃いましたと句友への挨拶と同時に、お正月のめでたさに満ちている。 光迷 福詣のスタートからキッチン風で開かれた新年会までの、参加者の和気藹々とした雰囲気を大掴みかつ的確に表現している。句会恒例行事になった七福神巡りを喜んでいる感じもよく表現されていますし…。 白山 みんな笑顔で楽しそうな顔でした。私も今年一番の初笑でした。 二堂 吟行参加者みな恵比寿顔だったというのがいいですね。        *       *       *  平成28年新春は「雑司ヶ谷七福神」を巡った。作者は吟行幹事として25人の団体を率いて長丁場をしのいだ。隊列など最初から出来ていない。あちらに三人、こちらに四人、右に左に折れ曲がる。いつの間にか一団から遅れて、どこに行ったか分からなくなる人も居る。全く言う事を聞かない羊の群れをなんとか取りまとめ、夕日没する頃に回り終えて、懇親会場に送り込んだ。みんな満足の恵比寿顔、それを見てようやく安堵の笑みを浮かべるのであった。(水)

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海賊の島より届く大蜜柑       大澤 水牛

海賊の島より届く大蜜柑         大澤 水牛 『この一句』  日経俳句会一月例会の最高点句。圧倒的と言えるほどの票を集めたのは、もちろん「海賊の島」によっている。瀬戸内海・大三島の大きな蜜柑を詠んだそうだが、「水軍の島の蜜柑」ではややパワーが落ちそうだ。俳句では時に一句を支配するような魅力ある言葉に出会う。この句が好例と言えるだろう。  合評会ではかなりの人が「瀬戸内海の大三島の蜜柑だろう」と話していた。これは「蜜柑の常識」と言えるようなことなのかも知れない。恥ずかしながら私は大三島が思い浮かばなかった。そのためか蜜柑の大きさや色などが具体的に見えず、「海賊の島」に魅力を覚えつつも、句は選ばずに終わった。  芭蕉は「東海道の一すじもしらぬ人、風雅におぼつかなし」と言っている。旅に出てさまざまな土地の風物を実見し、心に風雅を養え、ということだ。現在ならテレビ番組でたくさんの知識を仕入れることが出来るのだが、未だ風雅覚束なし。テレビをもう少ししっかり見なければ、などと考えている。(恂)

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蒼白き大根の肌に通り雨      宇佐美 論

蒼白き大根の肌に通り雨         宇佐美 論 『合評会から』(三四郎句会) 賢一 たくわん作りで大根を干している場面を想像しました。まだ干したばかりのところだから、大根にみずみずしい青さがある。そこに雨が降ってくる。絵画的な句ですね。 信 私も大根の干した時だと思いました。大根がしわくちゃになる前の張りのある頃ですね。壁の前に大根がずらりと並んでいて、そこに雨がさっと掛かってくる。 崇 あまり気の付かない情景ですね。目のつけどころがいいと思います。 而云 私は家庭菜園かなと思いました。通り雨が大根の青いところに流れ落ちている、というような・・・。 論(作者) 実は市民農園の大根です。畑に植わったままで、青首の青いところに雨が流れている、というところです。大根は実にきれいです。大根の白さに惚れ惚れします。女性の脚よりきれいですね。(笑い)             *               *  掛け大根を実際に見た人と見たことのない人によってコメントに違いが表れた。しかしどんな句も、状況のすべてを説明することは不可能だ。選者の見解が分かれることも俳句の面白さの一つ、と考えることにしようか。(恂)

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賽銭の額に願掛け初詣     渡邉 信

賽銭の額に願掛け初詣     渡邉 信 『この一句』  一読、にやり、いや苦笑、だろうか。神社、仏閣にお参りに行き、賽銭箱の前に立つと、どの硬貨にするかをどうしても気にしてしまう。小銭入れを覗き込み、百円があれば「これにするか」と思い、五十円玉しかない時は「仕方がない、これにしよう」と呟きながらも、内心はホッとしている。  私の新年恒例の参拝は、氏神様への初詣と日経俳句会などが主催する七福神詣である。困るのが七福詣の方で、七回も寺社を廻るのだから、神様、仏様に「申し訳ない」と謝りたくなるような場合も、ないわけではない。この句は、そんな気持ちをそのまま正直に詠み、ユーモアの溢れる句になった。  あるお坊さんが賽銭についてこんなことを話していた。「ギザギザのない(十円か)ものより、ある方(百円か)がいいですな。しかし投げて音のしない(千円札か)のが、いちばん有難い」。句の作者は中小企業ながら立派な会社の会長さんである。賽銭を投げても、もちろん音がしなかった、に違いない。(恂)

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