時雨忌や余生の計の立ちがたし   野田 冷峰

時雨忌や余生の計の立ちがたし   野田 冷峰 『この一句』  句会でこの句にお目に掛かった時には、ちょっと深刻ぶっている様子がうかがえて採らなかった。しかし、人間七十歳を越えると、誰しもこういう心理状態になる。それを素直にうたったところがいいなと思い返した。  「人間五十年」がいつの間にか六十年になり七十年になり、今や八十年ということになった。サラリーマンの定年は徐々に延びてはいるが、それでも六十五歳まで伸ばした企業は少ない。しかるが故に、何もすることがなく「余生」を過ごす人が多くなるばかりである。元気なジイサンバアサンたちは、「さて、余生をどう過ごしていけばいいのか」と考え込まざるを得ない。  この句はまさにそうした現実を詠んでいる。実に深刻なのだ。しかし、何度か読み返しているうちに、この句は単なる哀れな老人の述懐ではないぞと気づく。心細そうなことを言ってはいるが、実はなかなか図太い。「余生の計の立ちがたし」とあっけらかんと言ってのけて、開き直っているではないか。「あとはどうなときゃあなろたい」といった図太い心根も感じられる。(水)

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