山茶花や少し幸せ喜寿の朝      大沢 反平

山茶花や少し幸せ喜寿の朝      大沢 反平 『この一句』  一年ほど前に喜寿を迎えた者として、「まさに同感」の句である。還暦~古希へ、に倣って十年刻みなら次は八十歳の傘寿だが、その前の少し息の切れそうな時に喜寿がやってくる。喜の字の草書体が「七十七」という“理屈”が先行しがちだが、この年齢に相応しい祝いではないだろうか。  句の山茶花と喜寿の取合せも、「少し幸せ」も、この祝いに相応しい。七十代はいまや老境の初期段階と言ってよく、もう少し先まで行けるかな、と思える時期でもある。七十七本のバラなど恥ずかしくて受け取れるはずもなく、いま盛りの山茶花を眺めながら来し方行く末を思うくらいが適当だろう。  子供の頃は、二十一世紀までは生きていたい、と真剣に思っていた。それが何と十五年を過ぎて、まだ先を考えている。先日の句会で八十歳過ぎの先輩が「九十まで俳句を作っていたい」と言われるのを聞いて、ふと思った。「“九十歳まで俳句の会”を結成しようかな」。作者、いかがでしょうか。(恂)

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雑踏に一人吟行三の酉           高瀬 大虫

雑踏に一人吟行三の酉           高瀬 大虫 『合評会から』(番町喜楽会) 厳水 雑踏に一人ですか。それに三の酉。雰囲気のいい句ですね。 てる夫 三の酉の一人吟行、というのが上手い。どうして一人で行ったのか、なんて考えてしまう。 冷峰 今年の三の酉はもう終わったが、雑踏に一人とは、上手に作ったなぁ。 春陽子 この人、まじめですね。私もこうありたいものです。 光迷 おっしゃる通り。一人吟行とは立派です。 百子 三の酉だと、誰かを誘っても、もう先に行っていたりして。一人になりがちなのかな。 而云 一人で酉の市に行ったことがあって、この句はまさに実感。その時は自然に句材を探していました。 水牛 一人で行くから吟行になるんだ。              *           *  三の酉はおおよそ二年に一度。十一月の一日~六日が一の酉になれば、三の酉の年になる。ではその場合、なぜ約二年に一度、三の酉になるのか。子~亥の十二支が三十日間に繰り返すことに関係するのだが、その先の「なぜ」を考え出すと、頭がこんがらがってくる。ともかく次の三の酉は再来年である。(恂)

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時雨忌や余生の計の立ちがたし   野田 冷峰

時雨忌や余生の計の立ちがたし   野田 冷峰 『この一句』  句会でこの句にお目に掛かった時には、ちょっと深刻ぶっている様子がうかがえて採らなかった。しかし、人間七十歳を越えると、誰しもこういう心理状態になる。それを素直にうたったところがいいなと思い返した。  「人間五十年」がいつの間にか六十年になり七十年になり、今や八十年ということになった。サラリーマンの定年は徐々に延びてはいるが、それでも六十五歳まで伸ばした企業は少ない。しかるが故に、何もすることがなく「余生」を過ごす人が多くなるばかりである。元気なジイサンバアサンたちは、「さて、余生をどう過ごしていけばいいのか」と考え込まざるを得ない。  この句はまさにそうした現実を詠んでいる。実に深刻なのだ。しかし、何度か読み返しているうちに、この句は単なる哀れな老人の述懐ではないぞと気づく。心細そうなことを言ってはいるが、実はなかなか図太い。「余生の計の立ちがたし」とあっけらかんと言ってのけて、開き直っているではないか。「あとはどうなときゃあなろたい」といった図太い心根も感じられる。(水)

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人生は雨宿りなり時雨の忌   直井 正

人生は雨宿りなり時雨の忌   直井 正 『この一句』  人間生き永らえても高々百歳。自然界の尺度に照らしたら、ぱらぱらと降る時雨を遣り過ごす時間にも満たないだろう。仏教用語に時間の最小単位を表す「刹那(せつな)」という語がある。親指と人差指を丸めてぱちんとはじく時間(一弾指)の65分の1が一刹那だという。人間の寿命などは、宇宙時間からすれば一刹那に過ぎない。しかし一方、仏教の教えによると、人間はこの一刹那の間に生成消滅する想念を積み重ねては、意識を形成してゆく存在であるともいう。こうなると刹那は永劫(えいごう)とイコールということになり、雨宿りも無限のものとなる。とにかくそんなことにまで思いが深まる面白い句である。  室町時代の連歌の指導者飯尾宗祇は、古歌を踏み台に「世にふるもさらに時雨のやどりかな」という発句を詠んだ。宗祇を崇敬していた芭蕉は、この句を受けて「世にふるもさらに宗祇のやどり哉」と詠んだ。「生き永らえることも、宗祇の言う通り(時雨の)やどりのようなものだなあ」という意味である。掲載句は明らかにこの宗祇、芭蕉の句を受けてのものである。いわゆる「本歌取り」の句で、しみじみとした雰囲気を醸し出している。(水)

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冬の河水陸両用バスざぶん   高橋 ヲブラダ

冬の河水陸両用バスざぶん   高橋 ヲブラダ 『この一句』  「夏の河」なら何と言うことはない、「気持良さそうだな」という通り一遍の感想が洩れる程度の句となる。しかし、なんと「冬の河」にざぶんとバスが飛び込んだというのだから度肝を抜かれる。  “Sky Duck”という愛称の水陸両用バス。東京スカイツリーのそばの運河に飛び込んで旧中川を巡って戻るコースで、大人気だ。大阪にもあって、桜宮公園から旧淀川を航行している。そうしたら他にも、諏訪湖、日光・湯西川温泉、琵琶湖、霞ヶ浦と、いろいろな所にあるのだそうだ。いつの間にか妙なものが流行る時代になっていた。  作者は水陸両用バスに乗っているのではなくて、河に飛び込むバスを陸の方から呆気にとられて見つめているのに違いない。そして、「うわ、寒い」と首をすくめているのだ。  中七下五句またがりで「水陸両用バスざぶん」という意表を突く詠み方が、なんとも言えないおかしさを醸し出している。(水)

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山里に生きて悔やまず木の葉髪   片野 涸魚

山里に生きて悔やまず木の葉髪   片野 涸魚 『この一句』  華やかな都会生活から遠く離れての山村生活。田舎に生まれ育ち、大人になってからは仕事や子育てに追われ、その子どもたちも巣立って町に出て行ってしまった。そして今や、靜かな山里に再び取り残されている自分に気づく。木の葉髪を掻く年頃になってしまったなあとつぶやいている。しかし、不思議と悔やむ気持にはならないと言うのである。  こういう安心立命の人を端から眺めているだけで心の安まる感じがする・・・。ところがこの句の作者は敗戦後の一時期こそ山村暮らしを経験したようだが、元々は都会っ子であり、大学以降は東京住まいを通し、若い頃仕事でパリに駐在し大活躍したダンディなのだ。とすると、誰かよその人のことを詠んだものだろうか。だが俳句は原則として一人称の詩であり、第三者であることを分からせる詠み方をしていない限りは、作者自身を詠んだものと解すべきであろう。  「なりすましの句」というのもある。自分を架空の環境に置いて、そこで感じることを詠むのだ。これもそういう類の句かも知れない。ともあれ、木の葉髪の雰囲気の伝わる情感豊かな句である。(水)

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