切り抜きの束積んであり年の際   和泉田 守

切り抜きの束積んであり年の際   和泉田 守 『この一句』  新聞や雑誌、パンフレット等々、気になる記事をせっせと切り抜いてはスクラップブックや台紙に貼り付ける。中国最古の経典『書経』に「習い性となる」という言葉がある。習慣が生まれつきの性質のようになってしまうことを言ったものだが、新聞記者をはじめ文筆を生業とする者にとってはスクラップづくりは暮らしの一部のような作業であった。  ライバルの書いた記事で、「やられた」とかコンチクショウという思いをしながら切り抜くものもある。もちろんそんな感情は差し挟まない淡々たるデータ、情報記事もある。とにかく、そうして分厚くなってゆくスクラップが、「それを越える記事を書いてやろう」と情熱を燃やす“こやし”になっていったのだ。  最近の若い人は切り抜きなどしないという。インターネットの普及で、いつでも簡単に過去記事が検索できるようになったからだ。しかし、愚直なる元新聞記者は相も変わらず切り抜きのスクラップブックの山に囲まれている。歳末の大掃除を迎え、家人にせっつかれ、さあどうしようと腕をこまぬく。(水)

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煤払小さき妻におだてられ   澤井 二堂

煤払小さき妻におだてられ   澤井 二堂 『合評会から』(日経俳句会年末合同句会) 金丸泰輔 私は年老いた母を九州に一人で残しており、その歳末の姿を思い出したりして、(私が)いれば、こんな風だろうなあと思いまして・・。 須藤光迷 作者はカミサンにおだてられていると分かった上で、いそいそと大掃除の手伝いをしている。いい風景です。 鈴木好夫 おだてられてか、自発的かはともかく、いい夫婦です。「小さき妻」がいい。 高瀬大虫 そうですね、私もいい風景だなと思いました。 高橋ヲブラダ 「小さき妻」に愛情が感じられます。実は結構怖かったりして・・。           *     *     *  戦前までの冬の暖房は火鉢、囲炉裏、ストーブなど、直接モノを燃やして屋内を暖めていた。当然、屋内の天井や梁、長押、棚の上などには煤が埃とともに溜まる。大掃除を兼ねてそれを綺麗にするのが年末の一仕事だった。俳句では今でも暮れの大掃除のこととして「煤払(すすはらい)」という季語が生きている。この句は率先参加する模範的亭主を面白く詠んでいる。(水)

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明日あるを句に秘めるなり翁の忌

明日あるを句に秘めるなり翁の忌    水口 弥生 『この一句』  「翁の忌」即ち芭蕉の忌日は旧暦十月十二日、現代の暦で言えば十一月二十八日。夕方は暗くなるのが早く、時雨など降って淋しい頃合いである。芭蕉は当時としては薹の立った二十九歳で江戸に出て、俳諧で身を立てる決意を固めた。そして、滑稽、おふざけ、くすぐりをもっぱらとしていた当時の俳諧、好事家の遊芸の一つくらいにしか見られていなかった発句を苦心の末「詩」に高めた。というわけで没後は「俳聖」と崇められ、それは今日まで続いている。  俳句を志す人たちは芭蕉忌の句を生涯に二句や三句は作る。この句もその一つだが、読者にいろいろなことを思わせる不思議な句である。「明日あるを句に秘める」というフレーズが抽象的で、よく分からないからだ。  こういう思わせ振りな詠み方は良くないと捨てられるのが普通なのだが、何回か読み直しているうちに惹かれるものがあって、「捨てたもんじゃないな」と思い始める。「明日がある」との思いを句に込めるとは素晴らしい。大願もあれば小さな望みもあろう。それは人によってさまざま。前途に希望が湧いて来るような句ではないか。(水)

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日に映えていろは紅葉の赤緑   宇野木 敦子

日に映えていろは紅葉の赤緑   宇野木 敦子 『季のことば』  先週、南禅寺で法事があって出かけた。紅葉が売り物の京都だが、いつもと比べてもうひとつ冴えない。「温暖化いうんでしょうか、過ごしやすいのはよろしおすが、紅葉にはあきまへんわなあ」と地元の人は言う。今年は、真っ赤にならずに茶色っぽくなって散ってしまう木が多いというのだ。  「もみじ」というのは、晩秋の冷気を受けて葉が黄色や赤に発色し散って行く落葉樹全般を指す言葉なのだが、ほとんどの人がカエデの葉の真っ赤に色づくのを思い浮かべる。千年も昔の平安時代に、楓の紅葉を「モミヂ」と言うようになっている。  春と秋が大好きな日本人は、秋の深まりを告げる楓紅葉を殊の外愛でた。数ある楓の中でも最も一般的なのが「イロハモミジ」である。至る所の山に自生し、神社仏閣はもとより大きな家の庭には必ずと言ってよいほど植えられた。  秋が進むにつれ緑の葉は黄色みを増し、紅を差しはじめ、やがて真紅に変わって行く。この句は目黒・東京都庭園美術館の、冬日射しを受けて輝くイロハモミジの美しさを素直に詠んでいる。「赤緑」と言ったところに、微妙な気候変化がうかがえる。(水)

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たくましと山茶花を観る入院日   藤野 十三妹

たくましと山茶花を観る入院日   藤野 十三妹 『この一句』  この句の「入院」は心臓発作など突発的な病気や交通事故などではなく、長年抱えている病気で、医師に「思い切って入院治療した方がいい」と告げられたものであろう。ある程度の覚悟が出来ていたからこそ、山茶花に視線を這わせる余裕もある。  さはさりながら、どんな入院であろうが平然として居られる人はまず無いだろう。程度の差はあるが、誰しもかなり不安になる。家族や友人たちは現代医学の進んでいる様子や何やかやを持ち出して、力づけ、励ましてくれるのだが、心細さは一向に収まらない。  病院へ向かう車に乗せられる時、あるいは病院の玄関で下ろされた時、生垣の山茶花が目に入った。山茶花はひっきりなしに散るのが淋しいと嫌う人もいるが、散るそばから咲いて、常に賑やかでしたたかなところもある。それを作者は「たくましい」と観た。一見弱そうで淋しそうな山茶花に逞しさを感じたのだ。入院の日という、心が波立つ時との取り合わせが鋭い。(水)

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立冬やそこはとなき気忙しさ   高石 昌魚

立冬やそこはとなき気忙しさ   高石 昌魚 『季のことば』  立冬は十一月八日。暦の上ではこの日から「冬」ということになるのだが、日中の気温は二十度を越し、時には汗ばむ陽気に見舞われる。とても冬の感じはせず、秋たけなわといったところである。  しかし、何かの拍子にカレンダーや手帳に目が行くと、「そうか、今年ももう五十日しか無いのだ」とはっとする。これからはどんどん日が短くなるとともに、片付けねばならぬことが次々に押し寄せて来る。「これはのんびりしてはいられないぞ」と思いはすれど、やはり、天高く馬肥ゆる秋空に誘われて、あちこち行楽に出向く。「これとこれは、明日以降でも十分間に合う」などと、己を謀りながら、ついつい誘惑に身を任せてしまうのだ。こうして師走も押し詰まり「残り十日」ともなると焦りはいや増し、大晦日が目の前という頃にはもうお手上げ状態で、あれもこれもが「来年回し」ということになってしまう。  そうなる「とば口」が立冬なのだ。そこいらで褌締め直せば何とかなるのに、そうしないのが人の常。この句はそのあたりの機微をうまく衝いている。「そこはかとなき気忙しさ」が実にいい。(水)

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冬の陽の朝香邸にてパリ憂ふ       印南 進

冬の陽の朝香邸にてパリ憂ふ       印南 進 『合評会から』(三四郎句会・東京都庭園美術館吟行) 照芳 パリのテロを憂う句ですね。時節柄、ニュースを織り込んでいるところがいい。 敦子 ぽかぽかしていた、あのサンルームに座っておられた時の句でしょう。 久敬 (ジャーナリストの)竹居(照芳)さんの句かと思いましたが・・・。朝香邸とパリの連想がいい。 進(作者) 朝香邸―アールデコ―フランス・パリ、という連想です。              *         *  柔道経験者が中心になって三四郎句会を立ち上げてから七年。俳句のレベルを柔道に例えれば、初段か二段というレベルだろう。吟行も日帰りがこれで二度目だから、その場で句を作るのにまだ慣れていない。しかし俳句を作る面白さ、仲間と吟行へ出かける楽しさを自分のものにし始めている。  かつて猛練習に明け暮れていた人が多く、六十代、七十代となるにつれて、古傷がうずいたり、血圧が上がったりしてくる。姉妹関係にある句会では「卒寿まで俳句を作ろう」という会を立ち上げる動きが出てきた。我々も健康に気を配りながら、九十歳までの句作りを目指そうではありませんか。(恂)

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アールデコラインアーチに冬の松     深瀬 久敬

アールデコラインアーチに冬の松     深瀬 久敬 『合評会から』(三四郎句会・東京都庭園美術館吟行) 論 あの芝生の庭では松が目立っていたが、幹は直線であり、曲線的でもあった。松もアールデコで、建物のスタイルにもマッチしていると思った。 進 建物の中からも庭の松がよく見えました。旧館から新館にかけて歩いて行くと、庭の景色がよく見えましてね。ガラス越しに見る松の形は、映像のようだった。 而云 アールデコの直線と曲線が分かり、確かにあの庭は和式であり西欧的な雰囲気でもあった。建物を建てた人も、庭を作る人も、その辺りのことを考えていたに違いない。             *           *  吟行句の特徴と、ある意味では欠点を表ししている作と言えるだろう。この美術館に行った人はアールデコという芸術様式が頭に収まっており、この句は同行者からは「上手く表現した」と賛辞を受けた。しかし知識のない人は「何のことやら」と頭を捻るだろう。吟行句はどうあるべきか、について考えさせられる作であった。(恂)

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落葉踏む音の届きし足の裏        宇佐美 論

落葉踏む音の届きし足の裏        宇佐美 論 『この一句』  三四郎句会の面々が東京都庭園美術館へ出かけたミニ吟行での一句。JR山手線・目黒駅に近いので目黒区かと思いきや、地名は渋谷区白金台と格好がいい。アールデコ洋式の粋を尽したと言われる邸宅と和風、洋風の庭とは別に「芝生広場」があり、大都会の中心部と思えない静かさに満ちていた。  芝生広場の中央には大きな紅葉が枝を広げていて、落葉がはらはらと散り止まない。芝生の上には落葉が何重にも重なり、好天続きでよく乾いたためか、歩くとパシパシと音がした。「落葉を踏む音が聞こえる」までは誰でも考えるが、この句、「足の裏に音が届いた」と気づく“柔道家”のセンスに敬服した。  旧朝香宮邸として知られ、第二次大戦後の一時期は外務大臣公邸となり、外相兼務の首相・吉田茂が三年間にわたって使用していた。ちょうど第三次内閣の頃。ワンマン・吉田が難問に取り組んでいる時など、芝生の庭に出て、落葉を踏みながらゆっくりと歩を運ぶこともあったのではないだろうか。(恂)

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木蓮の輝く冬芽ひとつずつ     堤 てる夫

木蓮の輝く冬芽ひとつずつ     堤 てる夫 『合評会から』(番町喜楽会) 佳子 木蓮の花芽、この時期は句の通りピカピカと輝いていて、本当にきれいですね。 啓一 全く同じ意見です。本日の全ての句の中で一番きれいな句だと思った。 白山 あれ、ねずみ色というのか。いや、銀色かな。花芽はこの時期、本当に一つずつが輝いています。逆光線だと特に奇麗に見えるんじゃないですか。 てる夫(作者) 我が家の庭の木蓮なんです。 何人か(異口同音に) ほう、それは羨ましい。             *             *  作者は木蓮の冬の花芽を一つずつ眺めていた。あれもこれも、みんな輝いている、と網膜に刻んでいたのだろう。私も木蓮の花芽は好きだが、一つ一つをじっくり見た、という記憶はない。大体は歩きながら「ヤマダさんの木蓮、芽が膨らんできたな」などと呟きながら通り過ぎるだけだ。つまり私は、「我が家の木蓮」という作者の言葉を聞いて、「ほう」と羨ましげな声を発した一人である。(恂)

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