帰路急ぐ里の鴉や大晦日   高井 百子

帰路急ぐ里の鴉や大晦日   高井 百子 『この一句』  鴉には大晦日も新年も関係あるはずはないのだが、大晦日の鴉を見ていると、なんとなく気忙しそうにしているのがおかしい。町場では暮れの30日から正月三が日はゴミ回収が休みとなり、鴉は食糧難に陥る。それが分かるのだろうか、大晦日の鴉は回収洩れのゴミや不法投棄の食べ物を懸命に漁る。とっぷり暮れる頃、満腹した鴉は二羽三羽と連れだって里山の巣を目指す。  というのが、この句の表向きの五七五で、見たままを素直に詠んだなかなかの写生句である。しかし、裏にはさまざまな意味合いが込められていそうだ。この句を反芻していると、帰路を急ぐ鴉にことよせて心情を吐露した叙情句のように思えてくる。  大晦日にまで繰り越した問題をようやく片付けて、家路につく亭主かも知れない。掃除に手間取って買い物が遅くなり、焦っている主婦かも知れない。大晦日の雑踏の中で孤独を感じてしまう独り者かも知れない。  とまれかくまれ一億二千万それぞれが、それぞれの思いを抱きながらねぐらに帰る大晦日である。(水)

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果てのなきテロル空爆虎落笛   廣田 可升

果てのなきテロル空爆虎落笛   廣田 可升 『合評会から』(番町喜楽会) 双歩 これはまさに「虎落笛」一発ですね、こういう季語を持って来たところが成功した所以だと思います。 厳水 テレビなどで見るとあの爆弾やミサイルの飛ぶひゅーっという音がまさに虎落笛ですね。 正裕 虎落笛という季語が爆弾投下の音と相俟って、やるせない思いをかき立てます。           *       *       *  キリスト教、ユダヤ教とイスラム教は、淵源をたずねれば共通点がたくさんあるのに、今や抜き差しならぬ仇同士。解決の糸口が見つかったと思えばすぐにぷつんと切れて戦火が燃え広がる。果ては「イスラム国」などという過激組織が猛威を振るい、テロ行為がフランス、米国へと広がった。  虎落(もがり)とは戦場の最前線陣地や山里の獣除けの柵。柵の尖った先端に烈風が吹きつけ鋭い音を発するのを「もがりぶえ」と言い、冬の季語になっている。これはまさに2015年という年を刻んだ句である。(水)

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冬めけり日毎に池の鴨増えて   竹居 照芳

冬めけり日毎に池の鴨増えて   竹居 照芳 『季のことば』  「冬めく」は初冬十一月の季語で、木枯らしが吹き、落葉が散り、所によっては霜が降り、「冬らしくなったな」と覚える頃を言う。「鴨」はやはりその頃北国から渡って来るので、冬の季語になっている。というわけで、この句が出た三四郎句会では「季重なり」が問題にされたようだ。  ただ、今年のようにいつまでも寒くならないと、こういう句が成立するのではないかなと思ってしまう。というのも、鴨の渡りがずいぶん遅くなっているようだからである。上野・不忍池や横浜・三渓園などによく行くのだが、十数年前なら十一月中旬にはたくさんの鴨がうるさく泳ぎ回っていたのに、今年は十二月に入ってようやく賑やかに、という感じなのだ。  脂肪層厚きガイジン観光客が歳末の東京を半袖で歩いている。この句は、そんな東京にも鴨が日に日に多くなって来て、ようやく「冬だな」と気づいたというのである。その感じをより鮮明に打ち出すには、「冬だなあ日毎に池の鴨増えて」などとするのも手かも知れない。(水)

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尻餅に舌打ち重ね年の暮れ   植村 博明

尻餅に舌打ち重ね年の暮れ   植村 博明 『合評会から』(日経俳句会合同句会) 泰輔 私は情景の浮かぶ句が好きですが、この句は年の暮れがよく分かる。尻餅に舌打ちしてる作者に、ほのぼのとさせられます。 春陽子 フローリングの床を磨いていて尻餅をつく、そんな情景を想像しました。 光迷 私も座って立つときなどに腰や膝の痛みが出る。また転んだか、と舌打ちする気持ちはよく分かります。 而云 この尻餅は他のこと、例えば仕事上の失敗かな、なんて考えましたが。           *       *       *  もう少し年を考えなさいよ、などと言われながら、ついついあれもこれもやろうとする。積んであった本を片付けようと段ボールに入れて持ち上げようとした途端・・。ギックリ腰を用心して慎重にやったにもかかわらず、ぺたんと尻をついてしまった。この「ぺたん」が、いかにも餅を搗くようだということからシリモチという言葉が生まれたのだそうだが、そんなこと思う余裕など無い。こんなはずじゃなかったと、情けない自分に舌打ちしている。(水)

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雑踏に異国語混ざる師走かな   流合 研士郎

雑踏に異国語混ざる師走かな   流合 研士郎 『合評会から』(日経俳句会合同句会) 守 先日も秋葉原で外国人に道を聞かれた。これも師走の風景ですね。 双歩 私は同じような景色を「東京にアジアの訛り年の暮れ」としました。 涸魚 京都、銀座、新宿など盛り場は外人だらけ。それをうまく詠んでいる。 昌魚 この頃はどこに行っても外国人の姿が眼につく。師走の風景の一つとして面白い。           *       *       *  昭和36,7年ごろ、観光地の紹介記事を書く旅行記者はいたが、私は「観光」を社会現象と捉え、産業としての側面から描く記事があってもいいのではないかと考え、書きまくった。その頃の日本は外貨不足のため国民の海外観光旅行を許さず、もっぱら訪日外国人を呼び込むことに必死になっていた。しかし外人観光客は年間二万人くらいがせいぜいだった。それが今や千三百万人だという。中国人観光客がめったやたらに買いまくる「爆買い」が流行語になった。繁華街にアジア語が飛び交う、そんな「今年の風景」をこの句はよく詠んでいる。(水)

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年の瀬や豆腐ゆらりと鍋の海       大澤 水牛

年の瀬や豆腐ゆらりと鍋の海       大澤 水牛 『合評会から』(日経俳句会合同句会) 庄一郎 豊かな感じのする句です。「海」がいい。海がなかったら採らなかった。 好夫 湯豆腐が鍋の海の上で、蝶々が飛ぶようにゆらりとしている。私も「海」で採った。 昌魚 私も湯豆腐が大好きで、鍋の中の豆腐を眺めながら、猪口を口にちびりちびりとやっています。「ゆらり鍋の海」が何とも良い表現ですね。 水牛(作者) 私は鍋に昆布を敷いて、豆腐だけを入れるのが好きなんです。豆腐に熱が通り出し、ゆらりとする頃が一番うまい時です。               *        *  仲間内の雑談から――。「彼が食べ物の話をすると、食べたくなるんだなぁ」。さほど話上手とは思えない男なのだが、こと食べ物になる実に美味そうに話をするのだ。俳句も同じであるらしい。美味しそうな俳句を作る人は、間違いなく美味いものが好きである。ところで私は美味いものより、食べやすい方がいい。湯豆腐で言えば、美味しい“絹”より、箸でつかみやすい“木綿”が好きなのだ。(恂)

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泥ねぎをつるんつるんとつつがなし       廣上 正市

泥ねぎをつるんつるんとつつがなし       廣上 正市 『合評会から』(日経句会合同句会) 冷峰 「つるんつるんとつつがなし」という仮名の表現が生き生きとしている。泥つき葱の感じがよく分かる。 てる夫 「つ」の音を重ねた言葉の遊びのような使い方が面白い。「つつがなし」という言葉に一年間無事に過ごせたという気持ちが感じられます。 二堂 言葉のリズムが面白い。小さな幸せを表現しているのでしょう。 万歩 泥ねぎをつるんつるんと剥いているのか、あるいはつるんつるんと食べているのか。いずれにせよ「つるんつるん」から「つつがなし」へと続いていく語呂がいい。              *            *  同じ句会に「年の尾や音立て踊る落し蓋」(玉田春陽子)という「お」の重なる句も出て、ともに高点を獲得した。双方、巧みなものだと思う。俳句に韻を踏む決まりはもともとないが、このように作られて見ると悪くない。しかし「音」を重ねることだけを目的にすると嫌味が出てきそうだ。調べをよくすることが先にあり、句を練り直しているうちに“出来てしまった”なら、大成功である。(恂)

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目をそらす体重計や年の暮       谷川 水馬

目をそらす体重計や年の暮       谷川 水馬 『この一句』  この時期、忘年会をはじめ、何かと会合が多い。美味しいものを食べ、飲みたいだけ飲めば、当然、カロリーオーバーになる。すると体重が増え、ヘルスメーターに乗っても、数字は見たくないという、この句。ご本人の気持ちはよく分かるが、「うらやましい」と思う人がいることもお忘れなく。  七十歳を超える頃からだろうか。体重が増えない、減る一方だ、と悩む人々がいる。思い切ってトンカツを食べて見たら、胸やけでたまらない。食べまくって、体重が増えて行く人が羨ましい。俳句の会にも、このように体重増加組と減少組がいて、体重計の目盛りからさまざまな思いが生まれる。  この句はそんなわけがあってか、句会では一応の支持を得た。しかし作者の心を慮れば、会心の作ではないような気がする。自信作の方は無視された、ということがあったかも知れない。渾身の力作が人々の共感を呼ぶことは、むしろ少ない。さらりと作って最高の評価。それもまた俳句の頂点である。(恂)

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千両に鳥除けかぶす師走かな       井上庄一郎

千両に鳥除けかぶす師走かな       井上庄一郎 『合評会から』(日経俳句会合同句会) 反平 千両の赤い色が見えます。鳥はあまり好まない実だが、この思いはよく分かります。 水牛 我が家にも千両があるが、正月の飾りにと、そのままにしておくと、歳末になると不思議にヒヨドリが来て食べてしまう。師走の句として面白い。 青水 野鳥は車輪梅もネズミモチも南天も・・・赤い実はすべて喰い尽してしまう。生き延びようと野の鳥は必死ですからね。この句、野鳥への愛情と大事な千両と、心の葛藤が見えます。 庄一郎(作者) この時期、庭の千両にビニール袋をかけますが、空気穴をあけるのが一仕事です。           *         *  「師走」はもちろん「千両」も季語。このような、季重なりの句は選ばない、と初めから決めている人がいる。しかし、師走の頃に野鳥が赤い実を食べること、千両は正月の生け花用として珍重されること、その二つの関係が句の眼目なのだ。季語は一つだけと決めてしまうと、句の本質が失われてしまうことがある。季重なりがいい効果を生むこともある。大らかな心で句を選びたいものだ。(恂)

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歳暮とて野良に釣果の五六匹    金田 青水

歳暮とて野良に釣果の五六匹    金田 青水 『季のことば』  句の主人公は近くの防波堤か海岸に出掛けて、小アジやハゼなどの小魚を何匹か釣ったのだろう。大きめの魚が釣れたら刺身にでも、と皮算用を立てていたのだが、この日の釣果(ちょうか)は10造頬?燭覆い發里个り。さてどうするか、と思いながらの帰途、顔なじみの野良ネコに出会う。  おや、お前、腹が減っているようだな、と野良の顔を見つめれば「ミャー」と鳴く。ふと思いついた。魚は野良にプレゼントしよう。散歩に行く時にはついて来る。公園のベンチに腰を掛けていたら、いつの間にか足元に来ていたこともあった。お愛想のお礼に、いや、お歳暮ということにして・・・  夕べのひと時、新聞を読んでいたら「虚礼は廃止すべきか?」という記事が載っていた。上司にお歳暮を贈っている会社員がけっこう多いらしい。「そうなのか」と硬骨漢の彼は呟いた。現役の頃、上司に年賀状すら出さなかった。庭に来ていた野良に話しかける。「お歳暮なんて、お前にだけで十分だ」。(恂)

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