安曇野の秋草挿して蕎麦処     大倉悌志郎

安曇野の秋草挿して蕎麦処     大倉悌志郎 『この一句』  「材料が揃い過ぎている」という評を聞いて、なるほどそうか、と気づいた。安曇野と秋草はいい感じである。もう一つは秋草と蕎麦処。この時期になると、秋草を摘んで来て、備前焼の小さな壺に挿している蕎麦屋を知っていた。この句を選んだ時は、その二つを別々に考えていたような気がする。  秋草と蕎麦(秋)の「季重なり」の指摘もあったが、こちらは気にならない。秋草は秋の季語として味わい深い。一方の蕎麦は一年中、食べられし、「蕎麦“処”」なのだから、双方の重みは比べるまでもない。しかし安曇野、秋草、蕎麦の三つ揃いはどうなのか。一つを削るなら、やはり蕎麦になるのだろうか。  当欄にこの句を取り上げるに際して、再び考えてみた。作者は安曇野に思い入れがあるはずだし、秋草は句の中心でなければならない。とはいえ蕎麦処を別の語に置き替えられるのか。いや、替えられない。我が家の近くの、秋草を活けている、辰巳庵は残したい。選句とは結局、好みの問題なのだ。(恂)

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