われ一語老妻一語秋深し   前島 厳水

われ一語老妻一語秋深し   前島 厳水 『この一句』  この句が番町喜楽会十一月例会に出されると、「虚子の『彼一語我一語秋深みかも』と同じではないか」と難じる声が上がった。これに対し「確かに形は似ているが虚子の句とは中身が全く違う。この句は立派に成立する」との擁護論が出た。  『去来抄』にこんな話が載っている。凡兆が『桐の木の風にかまはぬ落葉かな』(桐の木は風が吹こうと吹くまいと、構わずにばさりと無造作に葉を落とすことだなあ)と詠んだところ、其角が「この句は先師(芭蕉)の『樫の木の花にかまはぬすがたかな』(まわりの花には構わず、超然として立つ樫の木の立派なことよ)という句と等類(一句の表現が既に作られている句と相似していること)だからだめだ」と言った。これに対して去来は「これは等類ではない。同巢(先例を踏襲しているが換骨奪胎していること)の句である。・・先例踏襲であっても、取り柄があれば、それはそれで立派ではないか」と言った。  元禄時代から三百年以上隔てて、奇しくも同じ論争が起こったことに愉快を感じた。(水)

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小松菜とほうれん草の芽が二列   大石 柏人

小松菜とほうれん草の芽が二列   大石 柏人 『季のことば』  草の芽は年中生えて来るのだが、俳句では「春の季語」とされている。「若草」や「双葉」も春である。これは厳しい冬が去るや何もない地面にぽちっと緑の芽を吹き出し、それが日を追って育つ様子が万物甦る春を告げてくれるからである。このように俳句の季語というものは、それが最も強い印象を与える季節のものとして位置づけられる。  しかし、困ったことに、野菜の芽吹きは秋であることが多い。正月から三、四月に収穫される野菜の種は九月から十一月に蒔かれる。当然、その芽生えも、双葉本葉がそろうのも秋たけなわの頃である。掲出句はそういう秋の家庭園芸の一コマを詠んだものである。作者は八十歳をとうに越えているが矍鑠として団地の空地を耕し、野菜や花を育てて近隣住民の目を楽しませている。「当たり前のことを当たり前に詠んだ句がいいですね」という言葉を添えてこの句を送ってくれた。もはや季語の縛りなど超越しているようだ。  昔の俳人も野菜の若芽の季節分類には苦労したらしく、「双葉」「若芽」は春なのに「貝割菜」や「菜を間引く」(間引菜)は秋の季語として掲げた。(水)

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天高し草投げ上げる象の鼻   大熊 万歩

天高し草投げ上げる象の鼻   大熊 万歩 『合評会から』(日経俳句会) 好夫 象が草を投げ上げることで、天がさらに高くなるのでしょう。 大虫 これは象が仕事をしているのかな。面白い景色だ。 二堂 やはり食べているところでしょう。私は上野動物園によく行くんですが、象はよく草を投げ上げたりしてます。愉快な感じです。 臣弘 秋の暖かい日の象の様子がよく出ている。 双歩 万歩さんは前に跳ね橋を見上げている句があったが、よく空を見上げる人だ(大笑い)。 青水 映像でもよく見かける光景だが、季語をうまく活かした。 綾子 象の鼻先に青空が見え、気持のいい句です。           *       *       *  句会ではみんな口をそろえて「気持のいい句」と言った。秋も深まって、いよいよ天高しの季節。象の食欲も旺盛、草の山を鼻で掻き回し、好きな草から順々に食べていく。時々、鼻息で吹き飛ばしたり、一旦掴んだ草を空に吹き上げたりしている。大人も子どもも飽かず眺めている。(水)

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