今年米川に攫はれしと便り   嵐田 双歩

 今年米川に攫はれしと便り        嵐田 双歩 『季のことば』  「今年米」とは秋に収穫した新穀。実った稲を刈り取って、稲穂を脱穀精米した新米は、何とも言えない香りがあって、一口噛みしめるごとに一歳ずつ寿命が伸びて行くような気持になる。昔から、新米はまずは神様に供え、炊いた御飯を一家揃って感謝の念を噛みしめながらいただいた。  そんな、一家こぞって待ち望んでいた新穀が、大嵐で氾濫した川にすべて持って行かれてしまったというのだ。これほど悲痛な便りはない。  近年、エルニーニョ現象とかなんとか、気候が大変わりしている。日本には秋霖という言葉もあるように、稲の収穫期頃には、しばしば長雨に見舞われることがある。しかし、今年の雨はちょっと異常だった。局所的に、雨合羽など役に立たない集中豪雨に見舞われた。関東近県も方々で河川氾濫や竜巻が起こり、茨城県水海道あたりは予想もしなかった大洪水が起こり、収穫寸前の稲が家屋もろとも流されてしまった。  散文調、報告調のぶっきらぼうな詠み方だが、それがかえって未曾有の被害をもたらした様相を強く訴えかけて、強い印象を与えている。(水)

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秋草や歩荷の刻む一歩一歩   大下 綾子

 秋草や歩荷の刻む一歩一歩   大下 綾子 『この一句』  十月半ば、紅葉の尾瀬にみんなで出かけたおりの嘱目吟。尾瀬ヶ原は周囲の峠を境に、車の出入りを一切遮断している。湿原に点在する山小屋へ食糧をはじめ何からなにまで運ぶのは、歩荷(ぼっか)と言われる運搬人である。  背負子(しょいこ)という細長いハシゴのような木製の枠を背負い、それにいろいろな荷物が括り付けられている。米、小麦粉、うどん、ラーメン、肉、魚、缶詰、野菜などを詰めた段ボール箱が堆く積み重なっている。歩荷は無念無想の形相で一歩一歩、草紅葉の中の木道を踏みしめ、進んで行く。一見のろいようだが、実はなかなか速い。一定のリズムが伝わって来る。  しかし中にはアルバイト青年のボッカも居て、我々が危なっかしい足どりで木道を歩いているそばに、背負子を背負ったまま、どたりと腰を下ろした。ヨシコさんがすかさず寄って、「大変ね、どのくらいの重さ」と聞く。青年は少し恥ずかしそうに「五十㌔くらいです」。本職は七、八十㌔担ぐのだという。  「刻む一歩一歩」という詠み方が、「人生行路」といったことまで思わせる。見たままの句だが、なかなか深味がある。(水)

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天高しゆるゆる戻る蛸の足      須藤 光迷

天高しゆるゆる戻る蛸の足      須藤 光迷 『合評会から』(日経俳句会) 好夫 「天高し」と蛸の関係は不明だが(笑い)、蛸の足は確かに蛸壷などにゆるゆる入って行く。面白い。 智宥 魚河岸あたりの風景かな。「天高し」でなくても、上に何が付こうともいいんですが、「ゆるゆる戻る蛸の足」で“美味しく”いただきました。 反平 三浦岬の城ケ島あたりの風景かと思ったが、そうか魚河岸か。 大虫 トロ箱に入っていて、だいぶん弱って足が少し動いている。岸壁の上かもしれませんが。 双歩 秋の空に蛸の足が踊っている。「ゆるゆる戻る」という表現がいい。 水馬 面白いけど、蛸は一応、夏の季語ですね。 水牛 この場合、「蛸の足」は季語じゃないですね。ボクは蛸の足のような秋の雲かと思った。               *          *  これは昭和の初期から俳句界でブームとなった「モンタージュ手法」ですね。二つの異物をぶつけて新たなイメージを産む、というもの。かつてよく聞いた「二物衝撃」という語を久しぶりに思い出した。(恂)

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天高く速き疏水の南禅寺        鈴木 好夫

天高く速き疏水の南禅寺        鈴木 好夫 『合評会から』(日経俳句会) 冷峰 南禅寺の疎水を見たことがあるが、流れは速い。いい所を見つけたと思います。ただ南禅寺を通るのは、レンガ造りの高い所の水道橋ですから、あの流れをどこで見たのか気になりました。 而云 境内の高い所を通っているが、上って行けるのでしょう。水は速くて、「天高し」に対応して面白い。 正裕 そうですね。レンガのアーチの所、確かに疏水の脇にまで上っていけますね。速く流れていて、けっこう高い所に上がるから、「天高し」に合っているなと思いました。 啓明 この句、声に出して読むと格好いいですね。 好夫(作者) 京都に見たいものがあって、九月に行きました。南禅寺のレンガのアーチは、水路閣というのですが、実に速い流れで、あれを作った明治の人はすごいと思いました。              *           *  句の疏水は琵琶湖の水を京都にまで運ぶための「琵琶湖疏水」。明治の中期から末期までの二回の工事で完成させた。水道用ではあるが、日本初の水力発電所も疏水につくられた。確かに「明治の人はすごい」。(恂)

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北国の山脈駆ける紅葉かな        藤村 詠悟

北国の山脈(やまなみ)駆ける紅葉かな     藤村 詠悟 『季のことば』  春はタンポポ前線、桜前線などが南から北へと動いて行く。一方、秋になるとコスモス前線、紅葉前線などが北から南へと下ってくる。コスモスは雪が降る前に種を作らねばならず、相当な切迫感をもって北への旅を始める。紅葉はその点、雪に遭っても葉を枯らすくらいで、大きなダメージはない。  紅葉はしかし、人間の側に立てば大いに気になる存在である。ゆっくりと色づき、赤や黄の鮮やかに浮かび上がらせる最盛期は一週間くらいのものだろう。一年前から紅葉見物の予定を作り、「温泉に入りながら」など目論んでも、そうはいかない。紅葉の方が勝手に人の思惑を外してしまうのだ。  この句を読んで、見たことにない「山脈を駆ける紅葉」の様子が目に浮かんできた。秋から冬へと季節は駆けて行くが、都会に住む者は「その一瞬だけ」を見物に行くだけである。山村住まいを始めたい、と語る友人がいる。季節の動きを毎日、眺めていたいのではないだろうか。(恂)

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天高し筋肉痛は心地よし      金田 青水

天高し筋肉痛は心地よし      金田 青水 『この一句』  年をとると「あれ、何でこんなに筋肉が痛いのだろう」と思うことがある。考えてみたら、数日前に山に登ったり、長く歩いたりしていて、ははぁ、あれが原因か、と気づく。若い頃は翌日に痛くなっていたのだが、今では「あの日はよく体を使ったなぁ」と、遅まきながら自分を褒めたりする。  ところが先日、テレビ・ワイドショーの医学番組を見ていると、専門の医師が「年齢と筋肉痛発生までの時間は関係ありません」と言うのだ。いや、しかし私の場合は・・・、と反論したくなったが、調べて見たら医師の言葉通りらしい。筋肉を頻繁に働かせていると、痛みが早く出るようになるのだという。  逆に言えば、力を使わなくなると筋肉痛の出方が遅くなるのだ。「歳をとると」と言い換えても同じような気もするが、ともあれ筋肉痛は筋肉を使った証しである。若い頃は筋肉痛が出ると「痛てて」と嘆いたが、今では満足感に変わる。御同輩、筋肉痛ですか。「天高し」の気分、実によく分かります。(恂)

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安曇野の秋草挿して蕎麦処     大倉悌志郎

安曇野の秋草挿して蕎麦処     大倉悌志郎 『この一句』  「材料が揃い過ぎている」という評を聞いて、なるほどそうか、と気づいた。安曇野と秋草はいい感じである。もう一つは秋草と蕎麦処。この時期になると、秋草を摘んで来て、備前焼の小さな壺に挿している蕎麦屋を知っていた。この句を選んだ時は、その二つを別々に考えていたような気がする。  秋草と蕎麦(秋)の「季重なり」の指摘もあったが、こちらは気にならない。秋草は秋の季語として味わい深い。一方の蕎麦は一年中、食べられし、「蕎麦“処”」なのだから、双方の重みは比べるまでもない。しかし安曇野、秋草、蕎麦の三つ揃いはどうなのか。一つを削るなら、やはり蕎麦になるのだろうか。  当欄にこの句を取り上げるに際して、再び考えてみた。作者は安曇野に思い入れがあるはずだし、秋草は句の中心でなければならない。とはいえ蕎麦処を別の語に置き替えられるのか。いや、替えられない。我が家の近くの、秋草を活けている、辰巳庵は残したい。選句とは結局、好みの問題なのだ。(恂)

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自販機のコインの響く夜寒かな   岡田 臣弘

自販機のコインの響く夜寒かな   岡田 臣弘 『合評会から』(日経俳句会) 好夫 雑踏の街に住んでいて、これはまさに実景。夜、自販機で買っている人を見ると、音が聞こえるかはともかく、なんとなくホッとするんですね。 てる夫 小遊三ならずとも夜半の物音は気になるところ。まさか作者も自販機の下に手を入れてはいないでしょうね?(笑い) 博明 「コインの響く」がいいと思います。 青水 「夜寒」を生き生きと描写している。最近は甘酒とかおでんなども売っているそうな。 十三妹 そこはかとなく漂う秋の寂寥が心にしみ込む。 反平 自分の心も寒いんですね。           *       *       *  飲んだ挙げ句か夜勤帰りか、あるいは趣味の集まりなどで遅くなったのか。夜も深まって、自販機の飲み物を買う。思ってもみなかった大きな音が響く。あたりが静まりかえっていることに気づいて、これはこれはと思う。夜寒の感じが実によく出ている。(水)

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地蔵撫で秋草撫でて風去りぬ   流合 研士郎

地蔵撫で秋草撫でて風去りぬ   流合 研士郎 『合評会から』(日経俳句会) 昌魚 秋の風の流れを表して、撫でるようにというのが面白い。「地蔵」と「秋草」を並べているので景も出てくるし、秋っぽくていいなと。 正 風の動きを鮮明に描写している。「撫で」のリフレインがいいと思いました。地蔵と秋草で寂寥感にうたれる。 冷峰 秋の風そのものですよね。さっと撫でていく。「撫で」というのが秋風にぴったり。地蔵を撫でるのが気に入った。 明男 いたずらっ子が風になって、地蔵、秋草を撫でて逃げて行った。そんな情景を思い浮かべるような。しかもスローモーション映画でも見ているような感じがしました。           *       *       *  地蔵さんの頭を撫でて秋草を撫でてと、そう順序良く行くものではなかろうが、いかにも村はずれの晩秋の光景が彷彿として甦る句で、懐かしさを抱く。こういう景色は今でも日本中至る所にあり、そして、日本人の心の中に永遠に棲み着いている。(水)

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山々の底に尾瀬あり星月夜   今泉 而云

山々の底に尾瀬あり星月夜   今泉 而云 『合評会から』(尾瀬吟行句会) 臣弘 澄み渡る夜空と、どこまでも静謐な晩秋の尾瀬、素晴らしいの一語。 二堂 星明かりに浮び上がる尾瀬。「底にあり」という言葉が星月夜の静けさを強めています。 水馬 我々が尾瀬に泊まった十四日は新月から二日目で、月の無い星の煌めく夜でした。宇宙の大きさを表現した綺麗な句だと思います。 冷峰 人工の灯りを一切拒絶した満天の星の美しさは尾瀬の魅力です。 てる夫 「底に尾瀬あり」がいいですね。 佳子 山々にすっぽり囲まれて安らいでいる尾瀬に、満天の星々。生涯忘れることがないと思う完璧な夜空でした。 百子 尾瀬は本当に山々の底ですね。天と地の対象が面白い。           *       *       *  澄みきった尾瀬の夜空の星はさぞかし身に沁みたことだろう。ただ一人、大酒呑んで白河夜船。翌朝、みんなの感嘆の声に「そうでしょうよ」とひがむばかりであった。(水)

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