板塀に山茶花のぞく根津のみち   池村 実千代

板塀に山茶花のぞく根津のみち   池村 実千代 『合評会から』(日経俳句会) 昌魚 こないだ日暮里のお寺に行ったんですが、まさにこの景がピッタリでした。 二堂 「板塀に山茶花のぞく」までは平凡ですよね、しかし「根津のみち」を入れてくれたので地元の人間として一票。(大笑い) 正裕 板塀からのぞくというのが、いかにも谷根千の雰囲気。こういう昔ながらの景色はいいなと。 而云 塀の上からのぞいているように枝が出ている。とても落ち着いた町の道の感じがいい。           *       *       *  合評会では「山茶花は垣根が普通なので、板塀からのぞくというのがちょっと分からなかった」という難詰があった。しかし、山茶花は昔は庭木として植えられていたから、三メートル以上の堂々たるものが珍しくなかった。谷根千あたりには今でも、寺や屋敷から塀越しに山茶花の花のこぼれる景色がよく見られる。古き町の初冬の情趣を「山茶花のぞく」でうまく表している。(水)

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木の葉髪銀座トラヤでニューハット   澤井 二堂

木の葉髪銀座トラヤでニューハット   澤井 二堂 『合評会から』(酔吟会) 春陽子 モダンな感じがいい。銀座を明るく詠んでいる。 てる夫 銀座のトラヤは知らないんですが、高級な帽子屋なんでしょう。まあ木の葉髪と帽子で、組み合わせとしては常識的な感じですが、言葉の調子がかっこいいんです。 百子 銀座の老舗のハット・ショップですね。伊東屋の向かいあたりだったかな。とてもおしゃれな句です。           *       *       *  木の葉髪とは「脱け毛を落葉にたとえていう語」(広辞苑)で、俳句では冬の季語になっている。男の場合にしても女にしても、なんとなく侘びしく淋しい風情である。ところがこの句、一転、すぱっと明るい雰囲気に換えている。  そう言えば間口はそれほどではないが、銀座二丁目あたりに昔から洒落た帽子屋があった。こういう店で奮発して粋な帽子を買う。それをかぶって歩き出した途端、背筋が伸び、歩幅が広がったりするのだ。(水)

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初時雨けふを最後の同期会      廣上 正市

初時雨けふを最後の同期会      廣上 正市 『合評会から』(日経俳句会) 正裕 我々の年代にとっては同期会もお終いに近い。「最後の同期会」というフレーズと初時雨のそこはかとない寂しさが心に響きました。 反平 今回の句を拝見していると、季語との距離感がある。これは季語との距離感がピタリです。 定利 初時雨はホンワカとした感じでしょうか、それと最後の同期会だとバランスがいい。 而云 そうですか。初時雨と最後の同期会は付き過ぎで、そのため平凡になったかな、と思いました。 好夫 私もいずれそうなるので、「最後の同期会」に惹かれた。しかし季語は「山茶花」でも構わない。 悌志郎 初時雨がわびしいものかどうか、よく分からなかった。               *         *  「最後の同期会」によって、多くの共感を得た最高点句。その一方で、さまざま議論を呼んだ句でもあった。「季語は山茶花でもいい」(好夫)という言葉に「なるほど」と思った。作者は「季語をどうしようか、と考えた」と語っている。上五に「初時雨」と「山茶花や」を置き、それぞれを考えて見たい。(恂)

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時雨忌を日がな一日川を見て      横井 定利

時雨忌を日がな一日川を見て      横井 定利 『合評会から』(日経俳句界) 悌志郎 天気がいいので時雨忌(芭蕉忌)の日がな一日、流れる川を見て句を作ろうとしているのでしょう。俳句に打ちこんでいる姿が芭蕉忌に相応しい。 二堂 私も海や川を見るのが好きですが、ここまで見ていられる人はうらやましい(笑い)。 反平 「日がな一日」は大げさだけど、俳句を作ろうとして、こういうこともあるなぁ、と思った。 而云 芭蕉忌への思いが感じられます。「を」を二つ重ねているのが気になったが。 青水(欠席選句評) この句を見ていると、そんなこともあるまいと思いつつも、季語に思いを寄せてしまう。巧者の手腕を感じます。              *          *  句会の兼題に「芭蕉忌(時雨忌)」のような季語が出ると、経験の少ない人は困惑するらしい。「芭蕉」という大きな存在を意識し過ぎ、難しく考えてしまうのだ。句会でこの句を見て、気づく。「なるほど、この句の中にも芭蕉が入っているのか・・・」。するともう、次は「糸瓜忌」(子規忌)に挑戦するぞ、なんて考えている。(恂)

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山茶花や園児らバスに競ひ乗る      流合研士郎

山茶花や園児らバスに競ひ乗る      流合研士郎 『合評会から』(日経句会) 二堂 山茶花が散って、周りが華やかになった。園児が競ってバスに乗っている風景とマッチしている。 好夫 山茶花となると「たき火」の歌が付いて回るんですが、これは幼稚園への往き還りの風景ですね。バスに園児が飛び込むように乗る光景がよく分かる。 而云 お二人のおっしゃる通り、園児たちがバスへ乗り込む時は本当に賑やかだ。 水牛 童謡の雰囲気をそのまま伝えているなぁ、と思いました。われがちにバスに乗るのが、山茶花のにぎやかな感じと合っていますね。 作者 駅の近くで見た送迎バスの実景です。歌のイメージは浮かばなかった。              *              *  幼児の誰もが三輪車に乗っていた頃のこと。幼稚園などの送迎バスが到着する時刻になると、何人もの園児が必死に三輪車を漕いでやって来るのを見掛けたことがある。自分の足で走った方が早いのに、三輪車ならもっと速く行けると思っていたようだ。あの元気な園児たちは、もう四十歳を過ぎているはずである。(恂)

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山茶花や値札くくられ根巻き苗     植村 博明

山茶花や値札くくられ根巻き苗     植村 博明 『季のことば』  ほう、根巻き苗か、と思った。山茶花の根を麻布で包んで売っているのだ。園芸店やホームセンターなら、ビニールのポットに芽生えたばかりの細い苗を並べている。この句は、本式の植木市の風景を詠んでいるのだろう。値札だけでなく、花もいくつか付いていて、こういう花ですよ、と知らせてくれている。  麻布も、ぐるぐると巻いた麻紐も、そのまま地中に植えるものらしい。有機物だから、いずれ腐って地に還って行くと聞いている。しかし今どき、どういう家の人が買っていくのだろう。山茶花はけっこう成長が早い。地植えにしたら、成長に対応するための苦労がついて回るのではないだろうか。  考えがこういう方向に進んでいくのは、我が家の庭が“ネコの額”であるからだ。失礼ながら、作者も同じようなことを考えながら、この句を作ったのかも知れない。昔ならごく普通のことが今では珍しい。珍しいから俳句になり、少年時代のこと、山茶花の垣根のことなども思い出させてくれる。(恂)

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帆船に帆のかかる日や秋高し      星川 佳子

帆船に帆のかかる日や秋高し      星川 佳子 『この一句』  立冬から半月過ぎて、当欄でも冬の句が出始めたが、個人的な好みから載せておきたい秋の句があった。上掲の「帆船に」である。秋空に掲げられた船の白帆は、多くの人の心に鮮やかな映像を結んでいるに違いない。特にヨット(小帆船)などに乗ったことのある人(私を含めて)にとっては・・・。  帆船やヨットはいつも帆を掲げているわけではない。停泊の際は風の影響を避けて、帆はたたんでおく。大きな帆船なら、いざ出帆の時、大勢の船員が縄梯子を使ってマストに上り、帆を張って行く。普通の人間には恐ろしい限りの仕事だが、海の男たちの誇りに満ちた仕事であるに違いない。  この句の帆船は引退して港に繋がれていて、特別な日だけ帆を掲げるのかも知れない。かつて友人のヨットに乗っていた頃、遥か沖行く大型ヨットを何度か見掛けた。練習船か、レジャー用か、ともかく格好がよかった。海に出なくなった今、帆船が帆を上げるところだけでも見たい、と思っている。(恂)

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初時雨音なく町を包みけり   井上 庄一郎

初時雨音なく町を包みけり   井上 庄一郎 『合評会から』(日経俳句会) 悌志郎 目の前に情景が広がっているのが分かります。 正市 ありそうな風景ですが、上五も下五も静かな感じが素直に広がっています。 定利 北山時雨でしょう、音もなくという感じ。 十三妹 真夜中の三時から四時ごろ、明かりがついているあちこちのマンションの窓は同じ窓です。時雨にかすむ窓々への思いに。 万歩 モノクロの版画か墨絵の世界のような静かで情感あふれる句。           *       *       *  時雨と一口に言ってもいろいろな降り方がある。もともとは時雨の“本場”京都盆地の初冬、北側の山から吹き越してきた雨雲が降らせる靜かな通り雨を言った。俳諧の本場が江戸に移ってからは、ざっと降ってさっと上がる、晩秋から冬にかけての夕立のような雨と解釈する向きが加わった。現在はこの二つが混在しており、その違いは取り合わせた材料によって分かる。この句は無論、伝統的な靜かな時雨である。しみじみと、天明調を感じさせてくれる。(水)

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まだ恋の一つや二つ木の葉髪   玉田 春陽子

まだ恋の一つや二つ木の葉髪   玉田 春陽子 『合評会から』(酔吟会) 涸魚 老いらくの恋はいくつになっても尽きない。人間の色気が尽きないからだろう。ある種の執念と、ユーモアを感じるいい句だ。 水馬 多少強がりも感じるが、元気があり、面白い句だ。 冷峰 この句は私一人しかとらないのではないかと思ったが、共感者がこんなにいるとはびっくりした。 反平 うらやましい気がする。女性の句だといいなとも思った。 てる夫 今の時代、木葉髪など気にして恋しない人なんていないのではないか。 而云 ちょっと遊び過ぎの感じもする。真摯さに欠けているとも言える。でもこういう句も詠めるというのが、俳句の本質かもしれない。           *       *       *  七十歳の声を聞く頃、つまり老境に差し掛かった年代の願望と強がりの滲み出た句で、実に面白い。実行に移す割合がどの程度かは分からないが、こういう元気な年寄りは確実に増えている。(水)

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秋桜育ち過ぎたる貸農園   杉山 智宥

秋桜育ち過ぎたる貸農園   杉山 智宥 『季のことば』  秋桜とはコスモスのことである。中南米原産のキク科一年草で、痩せ地にも育ち、こぼれ種で毎年生い育つ丈夫な草花。明治初年に日本にもたらされ、瞬く間に全国に広まった。秋桜という素敵な名前を付けられて、これが俳句にしばしば用いられるようになった。そして、1977年、さだまさし作詞作曲で山口百恵が歌った「秋桜」が大ヒットして、「コスモスは秋桜っていうんだ」という知識が広まった。  俳句の世界では花と言えば桜を指し、桜は全ての花を代表するものとされている。そこで、秋に目立つコスモスを「秋桜」と言うようになった。ところがこの秋のサクラは可憐な姿とはうらはらに滅法強く、肥沃な土地であれば人の背丈を越すほどになり、根元は腕の太さになる。  耕作しないのに「宅地並課税」を逃れようと、ずるい農家は耕作地を装うためにコスモスを蒔く。同じ目論見で貸農園とした畑にも、シロウト園芸家がコスモスを植える。かくて大都市近郊は至る所コスモスだらけ。野放図に伸びた秋桜は、電車内で股を広げて化粧している娘っ子のようである。(水)

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